横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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ペリー艦隊 日米交歓会 謎のプログラム

2021-06-18 10:44:48 | コロナ巣ごもりレポート

ペリー艦隊 日米交歓会 謎のプログラム

著者 横浜黒船研究会会員 奥津弘高

 

プログラム研究者の誤認

 

 ポーハタン号アシスタントパーサーのトーマス・ダッドリーが日本遠征から米国へ持ち帰ったコレクションが、スミソニアン博物館群のアメリカ歴史博物館に保存されている。

 

 2012年ペリー提督の兄のご子孫のマシュー・カルブレイス・ペリー博士(生物学者)の案内で、同博物館をはじめ米国議会図書館、国立公文書館など首都ワシントンとアナポリス海軍兵学校博物館を訪れ調査を行い、多くの資料を撮影することができた。

 

 ダッドリーのコレクションから、ペリー提督が日本人を招待した交歓会や乗組員の士気高揚のため開催した慰安会のプログラム(公演ビラ)を発見し撮影した。

 

 その中の1枚に日付と曜日とポーハタン号で開催されたことが印刷され、何年、何月、どこの場所で開催されたか判らないプログラムが含まれていた。

 

 

 ペリー艦隊が持参した印刷機で刷られたプログラムや新聞の研究者であるハーバード大学教授ロバート・W・ロヴェットの論文、
『The Japan Expedition Press』を当会代表の今津浩一氏からご提供いただいた。
(Harvard Library Bulletin Volume XII, Spring 1958 Number 2 Published by the Harvard University Library Cambridge Massachusetts)

 

 

 ロヴェット教授は、ボストンのマサチューセッツ歴史協会に所蔵されている、帆船マセドニアン号に乗務したジョージ・ヘンリー・プレブル大尉の日記に挟まれていたプログラムを検証したと報告している。

 

 印刷されている内容は、筆者が撮影したダッドリー所有のプログラムとほぼ同じように印刷されているが、開催日の日付が1日違うのと演目が一曲違う。

 

 プレブル大尉が保存したプログラムは「22日木曜日」、ダッドリーが保存したプログラムは「23日金曜日」と、開催日が違って印刷されている。

 

 ペリーの伝記『Old Bruin』(日本語訳本『伝記ペリー提督の日本開国』)の著者であるハーバード大学のサミュエル・エリオット・モリソン教授は、1967年に発表した論文「Commodore Perry’s Japan Expedition Press and Shipboard Theater」で、ロヴェットの論文を参照して、ペリー艦隊の艦内で印刷された印刷物について解説している.

 

 ロヴェット教授とモリソン教授は、プレブル大尉のコレクションにあった謎のプログラムについて、下田で開催された交歓会のプログラムであるとしている。

 

 笠原潔著『黒船来航と音楽』では、プレブル大尉所有のプログラムについて「22日木曜日と印刷されている日付は実際に開催された6月16日と異なるが、これは下田公演のビラである公算が極めて大きい」との見解を示している。

 

 下田公演が実施されたのは、正しくは1854年6月16日であることを証明する、乗組員の日記記述が多数あり、さらに開催された船について、このプログラムにはポーハタン号と印刷されているが、実際に開催された船はミシシッピ号が正しい。

 

 謎のプログラムは横浜、函館、那覇で配布されたビラと幾つかの相違点があった。

 

 

 第1に印刷されているインクの色が緑色である。これまで論文等で紹介されているのはモノクロ印刷で掲載されたため、どのような色であるかは不明であったが、スミソニアン博物館で現物を撮影したので、印刷されている色が判明した。艦内に緑色のインクが積載されていたかについては疑問である。

 

 第2に「エチオピアン・コンサート」のタイトルが今までの公演ビラとは違った派手な装飾文字で印刷されているが、艦内にそのような文字(活字)が積載されていたのか。

 

 第3にプログラムの外側を囲う縁取りの花飾りが凝ったデザインである。

 

 第4に横浜や函館などと違い、ビラの一番下に「ジャパン・エクスペディション・プレス」の文字が印刷されていない。

 

 第5にこのビラの大きさは縦20センチ、横12.4センチであり、日本の他の開催地のビラ縦21.6センチ、横14センチに比較してやや小さい。

 

 

新資料の発見

 

 下田公演が実際に開催された日と謎のビラに印刷された開催日が合致しないことに加え、開催された船も一致していないにもかかわらず、研究者らは下田公演のビラであると発表していることが疑問であった。

 

 筆者は2020年1月12日に横浜黒船研究会の第178回例会での研究発表を指名され、「ペリー艦隊の交歓会と公演プログラム」と題して発表する予定で、数ヶ月前よりスライド資料の確認をしていた。

 

 スミソニアン博物館で提示されたダッドリーのコレクション・リストを再確認したところ、№0117「エチオピアン・コンサート・プレイビル 1853」と書かれた資料に目が止まり、2012年同博物館で撮影しそこなった公演ビラであることに気付いた。

 

 再びペリー博士の手助けにより、スミソニアン博物館の学芸員からスキャンしたこの資料を入手することができた。

 

 

 所有者であるダッドリーの筆跡で、日付の横に「(Dec/53)」と年月のメモを書き添え、「Friday」と曜日が印刷してあるのを上から線を引いて消し「Wednesday」と書き換え、さらに22日と印刷された開催日を21日と訂正してあった。

 

 予想は見事に的中し、ついに謎を解明する新資料の発見であった。

 

 ダッドリーは年月が印刷されていない公演がいつ開催されたのか判るように書き込みをして、さらに印刷されていた日付や曜日を実際に開催された正しい日付と曜日に訂正したのだ。

 

 発見した訂正入りのビラは、ポーハタン号が停泊していた香港で1853年12月21日開催された公演のプログラムであることを、ダッドリーは伝えている。

 

 モリソンはペリーの伝記文中において、「クリスマスの時期にチャイナメイル紙はポーハタン号で行われた演劇を褒めたたえた」と前置きして、新聞報道の内容を以下のように掲載している。

 

「昨夜は、香港の陸上あるいは海上を問わず、最も愉快な演劇の一つが米国蒸気艦ポーハタンの艦上で催された。招待客は(香港)総督・(英国海軍)提督をはじめとする多くの面々で、すべての招待客は極めて丁重にもてなされた。『エチオピアン・ミンストレルズ』が見事に演じられ、観客の間から大きな笑いが絶えることがなかった。広い甲板の舞台は各国の旗できれいに飾られ、その下のテーブルには舞台が終了した後、多くの訪問客が楽しめるようにたくさんの飲み物や食べ物が用意されていた。」

 

 新発見の公演ビラにダッドリーにより書き込まれた日付について、実際に香港でその日に公演が開催されたのか確証が必要である。

 

 それを証明する手がかりをペリー提督の書簡から見つけた。香港停泊中のサスケハナ号から、妻ジェーン・スライデルに宛てた1853年12月24日土曜日の手紙である。

 

 手紙を書いた日はペリー夫妻にとって記念すべき40回目の結婚記念日にあたる。

 

 

「愛する妻へ

クリスマスの季節となり、おまえに対する変わらぬ愛の気持ちを送るとともに、家族全員、そしてわれわれの友人すべてが良い年を迎えられるよう祈りつつ手紙を書いている。・・・・この間の水曜日には、ポーハタン号のマクルーニー大佐(艦長)と士官たちが、水兵たちに『クリスティーのミンストレルズ』をまねした出し物を準備させ素晴らしい演出であった。(香港)総督・(英国海軍)提督をはじめ高官がたくさん出席し、大好評のうちに幕が閉じた。・・・・」

 

 

 この手紙で確認しなければならないのは、ポーハタン号でミンストレル・ショーが開催されたとされる「この間の水曜日」が12月の何日であったかということである。

 

 モリソンが著した『オールド・ブルーイン』の翻訳本である『伝記ペリー提督の日本開国』には、ショーの開催は「先週の水曜日」と翻訳されていた。「先週の水曜日」であれば公演が開催されたのは12月14日ということになる。

 

 「先週の水曜日」との翻訳に疑問を抱き、『オールド・ブルーイン』の原文を再確認すると「On Wednesday evening last」と書かれており「直近の水曜日の夕方」であった。

 

 12月21日夕方にポーハタン号艦上でミンストレル・ショーが開催されたと伝えるペリーの手紙と、ダッドリーが訂正した公演ビラの日付「21日水曜日」に加えて、出し物がミンストレル・ショーであることが一致し、香港公演がダッドリーの筆跡で訂正して書き込まれた日に開催されたことが証明された。

 

 長い間にわたり、下田公演か香港公演かと研究者を悩ませ続けた謎のプログラムであったが、ついに謎の解明に終止符を打つことができた。

 

 このプログラムにはもう一つ謎があった。

 

 公演が香港で開催されたにもかかわらず、プログラムの冒頭に印刷された演芸一座は「ジャパンニーズ・オリオ・ミンストレルズ」と紹介されていることである。

 

 なぜ香港で「ジャパンニーズ」と名付けた一座が演じたのか。

 

 日本遠征直前の1853年12月21日の香港公演は、ペリーが計画した日本人をフランス料理と様々な酒類やディナーショーで充分もてなし、早期条約締結を目指す接待外交の予行練習ではなかったと想像するが、いかがであろうか。

 

 次の目標は、下田港停泊中のミシシッピ号で1854年6月16日開催された交歓会のプログラム発見。ペリー日本遠征に関する疑問が次々と湧き、「謎解き」は続きそうだ。


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