横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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幕末における日米砲戦能力の比較 会員 清水隆博

2020-05-13 21:48:52 | コロナ巣ごもりレポート

                                                      2020年4月10日提出

「幕末における日米砲戦能力の比較」

 

横浜黒船研究会会員 清水隆博

 

 

 嘉永6年6月3日(西暦1853年7月8日)夕刻、相模の国、浦賀沖に突如現れた米国のペリー艦隊は、それまで日本近海に現れていた異国船とは異なり、いきなり号砲を撃つ。このときの様子は、『ペリー艦隊日本遠征記』(第1回日本訪問・浦賀、第1日目7月8日)に次のように記されている。

 「旗艦から64ポンド(68ポンド?)砲で(午後)9時の時砲が発射されると、砲声は湾の西側にある丘の連なりに音高く反響して、海岸でなにか騒ぎを引き起こしたらしく、あちこちのかがり火が一斉に消されるのが見えた。」

 その後もペリー艦隊は盛んに空砲を打ち放ち、強硬に開国を求めた。このときの世の中の混乱ぶりを象徴する狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」は余りにも有名だが、この混乱ぶりを風刺して「アメリカが来ても日本はつつがなし」という落首も読まれたのをご存じだろうか。「つつがなし」には平穏無事という意味と筒(つつ)(大砲)がないという両方の意味が込められていて、「黒船が来航しても戦にならずによかったが、日本には対抗できるような大砲が無いので、相手の言いなりになるしかなかった」と解釈できる。

 日本史の授業でも、ペリー艦隊との交渉結果については、「無能な幕府が強大な米国の軍事的威圧に屈して一方的な条約を締結した」という趣旨での教育を受けて来た。ここで説明されているところの、「軍事的威圧」とは、もちろん、黒船(蒸気機関を備えた軍艦)とその艦載砲を意味しているのであろうが、無風でも航行する巨大な船に驚くのは分かるとしても、艦載砲については、果たしてどれだけの脅威であったのだろうか。

 以下、これを機会にペリー艦隊の艦載砲と幕府側が装備していた大砲について調べ、両者を比較してみた結果と、その結果についての考察をレポートする。

 

1.大砲の威力をどう評価する?

 大砲の威力を決定づける要素としては、『射程』、『命中精度』、『発射速度』、『機動性』、『貫通力』、『砲弾運動エネルギー』、『砲弾炸薬(形状含)』、『破片・破壊/殺傷性』の8つの要素が上げられる。

 ペリー艦隊の艦載砲と幕府軍の大砲を比較するに当たっては、客観的な評価を可能とするために以下の要素に特化して比較検討をすすめることにする。(幕府軍側の装備していた大砲については、品川台場の備砲を比較対象とした。)

 

A)射程(最大射程と有効射程を分けて評価)

B)命中精度

C)発射速度(単位時間(通常1分間)当たりの発射弾数)

D)機動性

E)破片・破壊/殺傷性

 

2.ペリー艦隊の艦載砲

 軍艦の艦載砲は大砲の進歩に伴って換装されてゆくので、1853年当時においてペリー艦隊がどのような艦載砲を装備していたかについては諸説があるが、ここでは日本財団図書館(船の科学館 資料ガイド4、黒船来航)の資料を参照し、射程については、『江戸湾海防史』(淺川 道夫著、P96)を参考にして以下の表を作成した。

 

*表をクリックすると別のページに表が拡大されます。

 

 上記の表で一番気になるのは、艦隊の主砲ともいうべき口径10インチ榴弾カノン砲の射程であるが、これを明確に記した資料を見つけることは出来なかったので、『江戸湾海防史』に記載されていた9インチ榴弾カノン砲の射程、3,105mをカッコつきで記入しておいた。

 

3.幕府軍の装備砲

 品川台場における火砲の配備状況は史料によって若干の異同があり、正確な砲種とその数を確定することは難しいが、安政4年(西暦1857年)以前の備砲は次のようなものであったと推定されている。

 

*表をクリックすると別のページに表が拡大されます。

 

*品川台場の他に、江戸湾の沿岸には各種の和筒(和流砲術で用いられる大筒)が151門配備されていたが、その有効射程は約1,000m内外であり、口径の小さい鉛製中実弾を主用する点において対艦砲としては威力不足であった。

 

4.比較評価

A)射程

 ペリー艦隊の10インチ榴弾カノン砲の射程が、本当に3,000m級であったのかが最も気になるところではあるが、この点は後述するとして、その他の砲種においては幕府側の備砲はかなりの射程を有しており、従来のイメージを一変させる結果となった。

 10インチ榴弾カノン砲の射程に関しては、直接資料が見つからないため、次のような仮説を立てて推定値を求めることにした。

 

<仮説>

 ペリー艦隊が最初に浦賀沖に来航した際の投錨地を決めるに当たっては、以下の点を考慮した筈。

  • 日本側の砲台からの射程外であること
  • 自軍の艦載砲の射程内にあること
  • 日本側が艦隊の威容を視認できる距離であること

 よって、最初の投錨地が判明すれば、10インチ榴弾カノン砲の射程を推定できる。

 

 この仮説に基づいて、関係資料を探したところ、『ペリー艦隊日本遠征記』に次のような記述があることに気づいた。

「艦隊が投錨地に向かって進んでいるとき、ずっと測鉛(そくえん)を下げて、たえず水深は25尋(約45m)であることが分かったので、艦船は浦賀の入り江の高台あるいは断崖をめぐって、適度な速度を保ちながら進んでいった。さらに測鉛を下げながら慎重にゆっくり航進し、ついに江戸湾の入り口を防備する岬からほぼ1海里半(約2.8km)の位置に達した。ー中略ー 即時投錨の命令が下されたが、水深は依然として25尋あったので、まず2隻の蒸気船をもう少し海岸に接近させてから錨を下ろした。」 (『ペリー艦隊日本遠征記』、第1回日本訪問・浦賀、第1日目7月8日)

 この資料に加え、1854年に米国で制作された「Bay of Yedo Chart No.183」に4隻の艦船名とアンカー・マーク(投錨位置)が記載されていることを発見し、各々の投錨位置と最短距離にある日本側の砲台位置との距離を計算してみた結果を次のとおりに図示しておく。

 

        *図をクリックすると別のページに図が拡大されます。

 

 日本側の最大射程が自艦の艦載砲の最大射程を上回る場合は、日本側の射程の圏外へ(サラトガ号とプリマウス号の場合)、逆に自艦の艦載砲の最大射程が日本側のそれを上回る場合は、自艦の艦載砲の最大射程付近の位置へ投錨している(サスケハナ号とミシシッピ号の場合)ように見て取れる。

 上記の2つの資料と仮説に基づいて、10インチ榴弾カノン砲の射程は3,000m程度と推測してよいように思われた。

 

B)命中精度

 両者共に、装備していた大砲は全て前装滑腔砲であったから大差は無いと思われるが、波風の影響を受けて動揺する艦載砲よりは陸上砲台の大砲の方がやや優位と思われる。

    

C)発射速度

 両者共に、装備していた大砲は全て前装滑腔砲であったから、大差は無いと思われる。

 

D)機動性

 艦載砲の方がはるかに上と言わざるを得ない。

 

E)破片による破壊/殺傷性

 ペリー艦隊の艦載砲63門の内27門(約43%)がペキザン砲(中実弾丸の他に榴弾(弾丸の内部に火薬を詰めて、弾丸が命中すると破裂するようになっている、信管付きの弾丸)を発射できる砲)であるから、発射された弾丸の破壊・殺傷能力は充分であった。

 一方、幕府側の備砲128門中、36門(約28%)が榴弾砲であり、中空の弾殻に炸薬を充填した「空弾(うつろだま)」とブリキ製の筒の中に鉄弾子を封入し霰弾として使用する「ブレッキドース(Blikdoos)を発射できたことから、ほぼ同等の能力を持っていたと考えられる。

 

5.考察

 今般の大きな社会情勢の変化に伴い、“巣ごもり”生活を余儀なくされている中で、こうした機会に日頃疑問に思っていることを思いきり調べてみようと思い立ち、幕末の海防史をキィー・ワードにして幾つかの本を読み、黒船の脅威とは何だったのか、上記の調査結果を基に考察を行った。

 従来、「(黒船搭載の)火砲の射程(我の有効射程は100間(約181.8m)といわれた)および弾丸の威力に相当の差が認められ、発射速度も我の前装砲では、彼の後装砲に劣る」という解説が広く流布し、鵜呑みにされて来たが、事実とは大きく異なることが分かった。

 ペリー艦隊の主砲である10インチ榴弾カノン砲の射程は確かに幕府側の備砲のそれを凌駕しているが、前装滑腔砲であることを考慮すると、命中精度はどれ程のものであっただろうか。ペキザン砲であっても、その威力は目標、及びその有効範囲に弾着して初めて発揮される。当時、欧米諸国の軍隊が標準装備していた前装滑腔砲の性能については、「敵が明らかに1,500エル(約1,500m)よりも遠ければ、どの要塞も砲撃を開始してはならない・・・1,500エルという距離だけでもう既に・・・命中する可能性は極めて低い」とされていた。(Engelberts,J.M.,Proeve eener verhandeling over de kustver-dediging(Gravenhage: Erven Doorman, 1839, P.150)

 また、その砲数も艦隊全体で5門であり、艦内に積み込める弾数にも制限があったことから、この砲の威力は過大評価されて来たように思える。幕府側が備えていた砲弾数は、品川台場の備砲に限っていえば、各台場とも砲1門につき、平均100発以上の砲弾が備蓄されており、「空弾(炸裂弾)」もしくは「実弾(中実弾)」のいずれかと「ブレッキドース(霰弾)」を組み合わせて供給がなされていたことから、兵站面からの継戦能力についても比較評価が必要と思われた。

 以上の考察は、品川台場の備砲に限定して行ったものであるが、台場そのものの戦術的な価値も合わせて評価した場合、幕府側の沿岸防衛は一応の抑止効果を持っていたと考えられ、このことは、ペリー艦隊

 来航とほぼ同時期に日本遠征を計画していた英国海軍の報告書(英国海軍省文書(ADMI/5824.Kuper to Admiralty,April 28 1863)に「それを取り囲む浅い海から海軍が近づくことはほとんどできない」、「江戸それ自身を防衛している要塞へ攻撃をおこなうには、清国の軍港にある全ての砲艦と、出来るだけ多くの重装備の艦船を動員する必要がある・・・江戸の要塞に攻撃を加えることは、多大の損害を伴う仕事になるだろう」と分析していたことからも裏付けられる。

 結論として、ペリー艦隊が幕府側と砲火を交えた場合、その防衛線を打ち破って江戸湾奥深く進攻することは出来たであろうが、かなりの損害も受けた筈であり、「日本はつつがなし」という状態ではなかったことがわかる。

 最後に、本稿のテーマとは少し離れるが、「つつがなし」という状態ではなかったのなら、何故、幕府は抗戦をせず、外交交渉によって事態を打開する決断をしたのだろうか、その理由を考えてみたい。

 あくまで想像ではあるが、幕府は交戦結果としての直接的損害よりも、江戸市中に落下した炸裂弾によって引き起こされる火災の発生を危惧したのではないだろうか。元来、江戸は火災の多い都市ではあったが19世紀に入ると、年平均20回近い火災が発生し、嘉永3年(西暦1850年)以降になると明治維新までの間、年平均30回近い火災が発生している。空気が乾燥し、季節風の強い冬季は特に火災が多く、焼失した都市の再建には多額の費用が必要となって幕府の財政窮乏の一因となっていた。こうした中、

 ペリー艦隊の二度目の来航が冬季であったことから軍事的行動を断念し、交渉へと舵を切ったのではないだろうか。