横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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「アメリカの栄光とイギリスの屈辱」

2021-05-29 11:45:32 | コロナ巣ごもりレポート

「アメリカの栄光とイギリスの屈辱」

著者 横浜黒船研究会会員 奥津弘高

 

ペリー提督の手紙

 

 ペリーはワシントンからニューヨークに戻り、1851年4月8日再び手紙を書き、「容易で気楽な任務より挑戦と責任を求められる任務に就くほうがずっと好きです」と捕鯨船船主のJ・C・デラノに訴えている。郵便蒸気船総監督官としてデスクワークに就いているより、海軍の指揮を執り困難に立ち向かう海上任務を切望していたのであろう。

 デラノに宛てたこの手紙の後半部分に、日本遠征には全く関係ないが、アメリカの海洋史上における大偉業に触れていることに気づいた人はほとんどいない。

 ペリーはマリンスポーツ界で有名なあのアメリカス・カップの前哨戦ともいえる、英米対抗ヨットレースに関して意見を述べた。

 ニューヨーク・ヨットクラブやヨット建造者W・H・ブラウンの名前を見れば、ヨットに興味がある人はペリーが何を伝えたかったかはすぐに理解できる。

 当時の海洋大国イギリスに対して、アメリカが無謀にも挑戦しようとするヨットについて、ペリーはデラノに次のように問いかけた。

「世界に挑戦するためニューヨークでW・H・ブラウンによりヨットが建造されていることについて、あなたはたぶんご存知だと思います。このヨットはマリア号と競争する準備がまもなく整うでしょう。この船がもしマリア号に打ち勝つなら、イギリスの海でも勝利する見込みがあるでしょう。総額10万ドル近い金額が、船の建造や装備に援助されています。挑戦は彼の地(イギリス)において行い、さらに彼らが挑戦を取り消さなければ、英国船と競争する予定です。もっと多額の支援金も容易に集められるでしょうが、私はこの競争が実現しそうもないと懸念しています。」

 海軍の予算が削減されているかたわら、貴族の遊びであるヨットレースに多額の援助資金が費やされることに、ペリーは不満をもらしたようにも聞こえる。

 しかしこのヨットが後にアメリカへ多大なる栄光をもたらすとは、ペリーは夢にも思わなかった。

 

アメリカ号の建造

 

 1851年ロンドンで万国博覧会が開催され、この年、ロンドンの南にあるポーツマス沖に浮かぶワイト島一周ヨットレースが催された。

 主催の王立ヨットクラブのロイヤル・ヨット・スクォードロン会長ウィルトン伯爵は、設立されて間もないアメリカのニューヨーク・ヨットクラブ会長のジョン・コックス・スティーブンスに、レース参加を促す挑発的な招待状を送った。

 海洋超大国イギリスが、海洋新興国アメリカを叩きのめしてやろうとの目論見があったのであろう。

( (ニューヨーク・ヨットクラブの歴史  https://www.nyyc.org/web/pages/history-heritage/-/blogs/about-the-new-york-yacht-club-1844-?_33_redirect=https%3A%2F%2Fwww.nyyc.org%2Fweb%2Fpages%2Fhistory-heritage%3Fp_p_id%3D33%26p_p_lifecycle%3D0%26p_p_state%3Dnormal%26p_p_mode%3Dview%26p_p_col_id%3Dcolumn-2%26p_p_col_count%3D1)

 

 招待を受けたニューヨーク・ヨットクラブ会長スティーブンスは5人でシンジケートを結成し、3万ドルを費やしアメリカ合衆国で一番速いヨットを建造するよう、ジョージ・スティアーズに設計を依頼し、イーストリバー河畔にあった造船所のウィリアム・H・ブラウンと建造の契約をした。

 

 

W.G.ウッドによるアメリカ号の絵

 

 

 ヨットの建造は1850年11月に始まり翌年5月3日に進水した。2本マスト全長101フィート9インチ(約31メートル)、排水量170トンのスクーナー型ヨットは、アメリカ号と命名された。

 5月13日試験走行にスティーブンスが所有する97フィートのマリア号と競争してみたところ、アメリカ号はマリア号に負けてしまった。理由はマリア号の帆の大きさは7890平方フィートで、アメリカ号より2500平方フィートも大きかったことと、内海用のレース艇マリア号に比較して、大西洋を航海してイギリスまで派遣することを求められたアメリカ号は外洋帆走向きの装備を施したためといわれる。

 この敗北に衝撃を受けたスティーブンス会長は、ブラウンに支払う建造費を3万ドルから2万ドルに割引させた。

 

 

アメリカ号の挑戦

 

 

 しかしアメリカ号の共同所有者であるスティーブンス会長の弟エドウィン・A・スティーブンスや他のメンバーは、アメリカ号の勝利に賭けてイギリスに挑戦することを決め、6月21日ニューヨークから大西洋に向け出航し、7月11日フランスのル・アーブルに到着した。

 ドックでレース用に改装を施した際、それまで灰色だった船体の色を黒く塗装し直した。海賊色である黒に塗り替えたのはイギリスへの闘争心を表わしたのであろうか。

 英仏海峡を渡り、7月31日ロンドンから南へ約120kmのポーツマス沖にあるロイヤル・ヨット・スクォードロンの本拠地ワイト島のカウズに到着した。

 米艇一隻に対し、迎え撃つは47トンから392トンの大きさも形も違う様々なイギリス帆船14隻であった。

 かくして周囲80kmのワイト島を時計回りに1周するヨットレースは、イギリス本土とワイト島の間ソレント海峡に面した港町カウズをスタート位置として、1851年8月22日午前10時レース開始の号砲が発せられた。

 スタート直後にアメリカ号は決定的な失敗を犯してしまった。

 急に風が変わり横風を受け、まだ錨が揚げきらないうちに錨を引きずって走り出し、艇が回り始めたことから、いったん帆を下ろしてスタートをやり直さねばならなかった。このアクシデントにより参加艇のうち最後尾からのレースになった。この時のルールは現在とは違い、錨で船を停船させている状態からスターすることになっていた。

 しかし快調な帆走で、最初のマークであるブイを通過する時には、5位にまで順位を上げていた。

 レース途中でアメリカ号は幸運を掴んだ。

 通常開催されていたワイト島一周レースは、習慣的に目印の灯船の外側を回るコースを取ることになっていたが、今回のレース規定ではこの目印の外側を回るようにとは定められていなかった。イギリス艇がいつものように遠回りのコースを取る間に、アメリカ号は最短距離を帆走してゴールを目指した。

 

 

イギリス艇の敗北

 

 

 1843年建造の外輪付き王室ヨットのヴィクトリア・アンド・アルバート号の船上で、レースを見守っていたビクトリア女王にまつわる逸話がある。

 望遠鏡で見ていた側近にビクトリア女王が聞いた。

 

  「先頭は見えますか」

  「はいアメリカ号です」

  「では2番手の艇は?」

  「陛下、2番はございません」(″Your Majesty, there is no second″)

 

 この会話は、2番手以下は敗者であり1番以外は意味がないという、負けず嫌いのイギリス人気質をよく表している。

 ロイヤル・ヨット・スクォードロンは世界に冠たる精鋭のヨットを厳選し、新進気鋭であるが海洋後進国と目されていたアメリカを叩きのめすはずであったが、観戦する女王の目の前で世界に誇る海洋国の威信を失墜した。

 ロンドン万国博覧会という大舞台に花を添えるはずの記念ヨットレースは、イギリスの敗退という屈辱劇で幕を閉じることとなってしまった。

 アメリカ号は所要時間10時間37分でゴールライン到達の号砲を受け、2位オーロラ号は18分もの大差をつけられイギリスは大敗を喫した。

 アメリカ号の帆は英国艇のものと全く違っていた。帆の材質は英国艇の荒い手織りの亜麻製キャンバスのものに比べて、アメリカ号は目のつんだ機械織りの綿帆布を装着していたため操作性に優れていた。

 優勝の賞品は、女王から賜った古代ローマの水差しを模した銀製トロフィーで、高さは68.5センチ重さ3・8キログラムであった。

 

 

アメリカの栄光

 

 

 トロフィーはアメリカに持ち帰られ、アメリカ号乗組員が帰国した10月2日、ニューヨークのアスター・ハウスで盛大な歓迎ディナーが催された。

 ペリー提督は郵便蒸気船総監督官の職に就いていたが、ニューヨーク・ヨットクラブの名誉会員でもあったことから、この祝賀会に出席している。

 トロフィーは後にスティーブンスらのシンジケートのメンバーからニューヨーク・ヨットクラブに寄贈された。

 アメリカ号が獲得したトロフィーであるので、アメリカ号のカップ「アメリカス・カップ」と命名され、カップと共に寄贈された贈与証書には、次のように国際親善のためのヨットレースの優勝カップとすることが規定されていた。

 

  1. 外国のいかなるヨットクラブもこのカップを懸けたマッチに挑戦できる。
  2. カップはクラブの所有に帰属し、メンバーあるいは艇のオーナーの所有となるものではない。
  3. カップは常に外国のクラブにオープンにされる。以上の条件はカップに永久に付帯し、友好的なレースに寄与する。

 

 以来アメリカは幾多の国から挑戦を受けたが、1983年の第25回大会でオーストラリアに敗れるまで、なんと130年余りカップを防衛し続けるという快挙を成し遂げた。

 スポーツ界に於いてこれほど長く勝利を維持した記録はない。

 

 

 

※参考文献『至高の銀杯』小島敦夫著 時事通信社