おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「自尊心の血友病」の傷から-「透の存在理由に対する慶子のあらわな無視」がわかる会話から-

2023-09-05 06:00:34 | 日記
三島由紀夫の『天人五衰』を掘り下げる中で、

「みる」こと
「認識する」こと

の差異について着目したのだが、今回は、
透と慶子の会話について、
透の失明直前でその引き金でもある
「クリスマス晩餐会」
の場面で、
見てゆきたいと思う。

私は、これらの会話が、
最も印象に残ると同時に、

この物語がこの部分に引き絞られている(≒突き詰めればこの部分に集約されている)

と考えている部分のひとつである。

慶子「私の言ったことをよくおぼえておいでになるといいわ。
あなたが見たり知ったり、
見究めたつもりになってしていたことは、三十倍の倍率の望遠鏡の、小さな円のなかだけのことだったの。
その中だけを覗いて世界だと思っていれば、あなたは永久に幸福だったでしょう」

透「そこから僕を引きずり出したのは、あなた方じゃありませんか」

慶子「そこから喜んで出てきたのは、
そもそもあなたが、
自分は人とはちがうと思っていたからでしょう。

松枝清顕は、思いもかけなかった恋の感情につかまれ、
飯沼勲は使命に、
ジン・ジャンは肉につかまれていました。
あなたは一体何につかまれていたの?
自分は他人とちがうという、
なんの根拠もない認識だけにでしょう?

外から人をつかんで、
むりやり人を引きずり廻すものが運命だとすれば、
清顕さんも勲さんも、
ジン・ジャンも運命を持っていたわ。
では、あなたを外からつかんだものは何?
それは私たち(→本多と慶子)だったのよ」

慶子は、このあと、透に
自分は「見通し屋」
であり、
「己惚れた認識屋」
である透を引っ張り出しに来た
「すれっからしの同業者」
だと言う。

「みる」こと、と「認識する」
ことの差異をこの会話は、
説明も叶わないくらいに、核をついて表現しているし、この部分に集約されている。

また、

『豊饒の海』を通じて存在する、
時間軸や場所軸、そして彼/彼女らの背景などのある意味異なる次元の主人公たちが、作品の中で、
織りなしてきた反物の模様を観るように、
私はよく読む度、思い出す度、かみしめる度に思う。

ここまで、読んでくださりありがとうございます。
なんだか、感想になってきてしまったようにも思います。
上手く描けないものだなあ、とも思います。
精進しなくては、と思います。
今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。


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