おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

瀧廉太郎の「憾み」を『憾』という作品からみるとき

2024-04-03 07:35:45 | 日記
瀧廉太郎は、『憾』(うらみ)の直筆楽譜に、まず、ドイツ語で
「Bedauernswerth」と記し、その下に日本語で、『憾』と記した。

そして、そこに演奏指示も事細かに記した。

例えば、冒頭は「Allegro Marcato」とされ、そのようにひとつひとつの音を叩きつけるようにはっきりと演奏せよという楽想指示は、
それほどに、瀧廉太郎の「憾み」あるいは無念が深いということであり、この無念は西洋人にも理解されると確信していたということの表れであるように、私には感じられる。

『憾』は、瀧廉太郎が、病床で、文字通り血を吐きながら描き上げた、わずか64小節の作品である。

『憾』という音楽は3部構成で、
冒頭に
「なぜ、私は、今、死なねばならないのか」
という悲痛な叫びが歌われる。

中間部では、
「生きてさえいれば、あんな楽しいことも、こんな嬉しいこともあったであろうに」という、死にゆく人間が夢想する叶わぬ歓びが歌われるが、それも冒頭の悲しみと諦めに似た旋律に戻り、曲は叫ぶように、強い打鍵で終わる。

ここで着目したいのが、『憾』で使われている音楽話法は、まったく日本的ではなく、むしろ、シューベルトの作品と言っても通用しそうですらある。

廉太郎は、何に「憾み」を残したのであろうか。

もちろん、病に伏している自らの運命を憾んだであろう。

しかし、それ以上に、自らに課したことを果たせずして、死にゆくしかない無念さ、それこそが『憾』という作品の本質ではないだろうか。

廉太郎は、西洋音楽を自らのものとしたうえで、日本的心性を表現しようとしていたようである。

だからこそ、その前に、西洋人も納得せざるを得ないほど、西洋の音楽語法を習得した作品を作ろうとしていたのだが、彼の健康がそれを邪魔したのである。

『憾』を作曲する直前、廉太郎は、最後の歌曲となる『荒磯の波』を作曲している。

水戸光圀の和歌の一部を変えて
「荒磯の岩に砕けし散る月を一つになしてかへる波かな」とした歌詞である。

この光圀の和歌の根底には
「大海の磯もとどろに寄する波破(わ)れて砕けて裂けて散るかも」
と詠んだ源実朝の魂が揺曳している。

実朝の歌は破滅願望的であるが、光圀は、死の先に無常をみているようである。

しかし、『荒磯の波』の直後に、やはり廉太郎は『憾』を、病であろうと作曲せずにはいられなかった。

『憾』という作品からは、「憾み」を忘れて「無情」になどなれなかった廉太郎の無念が伝わるように、私は思う。

実は、『荒城の月』や『花』など、今でも愛唱されている歌の数々を瀧廉太郎が作曲したのは、その短い人生のうちの第1期、高等師範学校付属音楽学校予科からライプツィヒ音楽院留学までの間である。

第2期は、1901年から約1年間のライプツィヒ音楽院留学時代だが、すでに西欧歌曲を学び、西欧的語法を用いながらも日本人の心性を表現していた廉太郎にとって、ライプツィヒへの留学は、西欧の文明を日本的心性で包み込もうとするほど壮大な志を持ったものであったのかもしれない、と私は想像する。

実際に、留学中、当時最高のピアニストのひとりであるパデレフスキーの演奏に対し、楽理的理解が浅い、とその限界を指摘しているほどである。

また、『荒城の月』はベルギーでは、賛美歌としてそのメロディーが採用されているようである。

しかし、志の強さに、彼の肉体はついていけなかったのである。

自負と自尊を抱いていた廉太郎は、ライプツィヒのある寒い夜に、大量の吐血をする。

結核を発症したのである。
結核は、当時、死病とされていた。

ライプツィヒ留学は1年足らずで終わった。

廉太郎は、病状が悪化し、ほとんど強制送還のような形で日本に送り返されたのである。

帰国した廉太郎は、故郷である大分の実家で療養する。

この時期の廉太郎の想いを伝えてくれる資料は楽譜以外にはほとんど存在しない。

『憾』という作品が、が廉太郎の気持ちを、今に、伝えてくれる。

瀧廉太郎は、『憾』というピアノ曲史上にも名を残すべき作品を書き上げて、亡くなった。

享年24であった。

桜の花が咲くと、私はなぜか、散りゆく花を見ながら、瀧廉太郎の作品のなかでも、『憾』を想い出すのである。


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