おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

専門家団体、消費者保護団体、報道機関に対して想うこと。

2024-07-05 07:23:05 | 日記
どんな作用にも、反作用がある、はず、である。

診断インフレと処方薬の濫用から、そろそろ、バランスを取り戻すための振り子が働いてもいい頃合いではないだろうか。

実は、ここで力を合わせれば、診断インフレに強烈な反撃を加えて形勢をひっくり返すことすら出来る3つの勢力が在るのである。

それは、専門家団体、消費者保護団体、報道機関である。

これまでのところは、いずれも診断インフレに十分な力を注いではいない。

その理由のひとつは、専門家団体、消費者保護団体、報道機関どれもが、多かれ少なかれ、製薬企業によって組織ぐるみで抱き込まれていることである。

公正で理に適った世界ならば、この3つは、最前線にいてもおかしくはないし、製薬企業のマーケティング活動を助けるのではなく、それと戦っているはずである。

3つとも、現在は本来とは違うであろう陣営に居るが、これは速やかに変えらるであろうし、3つがしょうらいの希望である事実には変わりはないであろう。

中世のギルドは、まったく別物であるが両立出来るふたつの目的を念頭に置いて設立された。

ひとつは、ギルドの会員を外部の価格競争から守ること、もうひとつは、買い手を粗悪な商品から守ることである。

ギルドには独占権が与えられたが、それを悪用せずに、公衆からの信託物を尊重する場合に限らた。

現代の精神保健の専門家団体は、ギルドから派生しているにもかかわらず、この義務に背いている。

会員やその官僚的な組織を守ろうとするばかりで、本来なら質を維持したり、社会が最大の利益を得られるように尽力しなければならないのに、そういうことは、ほとんど重んじていないように、思える。

精神保健の専門家団体は、どこも、薬の著しい過剰使用を突きつけられも、極めて消極的な態度を取り続けている。

例えば、近年の子どもの注意欠陥・多動性障害(ADHD)、自閉症、双極性障害のまやかしの流行にも、たいして抵抗をしなかった。
......。

このような状況での中立は、真の中立ではない。

それどころか、劣悪な診断と適切でない治療に消極的に協力しているのである。

専門家団体は、自らの倫理的責任として、精神保健政策に関する充実した公開討論を奨励すべきである。

意地の悪い見方かもしれないが、それをしていないのは、自己の利益のためである。

つまり、診断のインフレがますます拡大すれば、治療すべき患者が増えて、製薬企業から資金援助を受けられる見込みがある、というわけである。

そのような理由もあり得るであろうが、しかし、真の問題は、単なる金銭的な利益相反よりも深刻で、解決が難しいのかもしれない。

DSM-5の失敗が証明しているように、専門家団体の視野の狭い、官僚的な組織が、意思決定を左右するようになり、自分たちの偏った利益の他は、なにも見えなくなっているのではないだろうか。

専門家団体が診断インフレに関する公共政策の問題や患者のケアに対する鈍感である現状は変えられる、と思う。

製薬企業との深いつながりが明るみに出たために、それまでの関係性を断って、独立性を取り戻すためのプロセスに着手せざるを得なくなった医師会も世界には(→残念ながら日本ではないが)、既に存在するからである。

もし、DSM-5に好ましい点があるとすれば、ギルドの最大の忠誠心は、ギルドの会員ではなく、社会に向けられなければならないという意識を高めたことであろう。

質の良いものを生み出すことが出来なければ、独占は失われるのである。

動機が公共の利益と一致するとき、組織は変われるのではないだろうか。

消費者保護団体は、精神科の治療の均一化を進め、精神医学の研究資金を増やし、サービスを向上させ、支援を提供し、偏見を軽くするなど、素晴らしい働きをしている。

しかし、残念なことに、消費者保護団体もまた、知らず知らずのうちに製薬企業の立場を忠実に守るロビイストになっており、そのために余計に信頼を置かれている。

これは、「カエサルの妻たる者は疑惑を招いてはならない」という掟を破るものだけに、問題は一層大きいのである。

消費者保護団体の予算のあまりにも多くが製薬企業から提供されている。

ヨーロッパの消費者保護団体は、薬の過剰な使用を認めるのではなく、それに反対をしている。
......。

もうひとつ、もっと見えにくい利益相反が在る。

組織というものは決まって、会員を増やそうとつとめる。

消費者保護団体が大きくなればなるほど、その政治的発言力と経済的影響力は強くなる。

そして、障害を持つ人たちが増えるほど、それに伴う偏見は軽くはなったかもしれない。

しかし、過剰な診断という副作用が在ったことを忘れてはならないのではないだろう。

例えば、かつて「自閉症だ」と診断された人たちのおそらく半数は自閉症ではなかった。

とんでもない副作用であるが、消費者保護団体が分別を持つようになれば、おのずと過剰な診断のリスクはもっと強く認識されるであろう。

そして、長い会員名簿を持つことによる利益と、会員に相応しくない者を会員にすれば、結局は有害無益である、という、危険とのバランスを上手く取れるようになるであろう。

メディアの調査報道は、製薬企業の誇大宣伝に対する最強の盾となり得るのに、ニュース編集室の贅沢品のようなものになってしまっている。

現実はいつだってもっと複雑なのにもかかわらず、深く掘り下げもせずに製薬企業のプレリリースを垂れ流すだけの記者が世界中に多くいることは残念でならない。

息もつかせぬ勢いの報道が助長するのは、
「すべての問題は脳の病気だとする説が、研究の進歩によって裏付けられた」
という誤った結論である。

製薬企業は、科学的研究よりも、マーケティングやロビー活動にずっと熱心であるし、そちらの方がずっと上手だという事実には、なぜか、あまり注意が払われていない。

新薬の流通ラインにしばらく何ものっていないことはあるが、ワシントンや各州都に注ぎ込む権力の潮流が涸れることは、決して、ないのである。

企業が犯罪行為で巨額の罰金を科せられても、それは大抵、裏面記事か没にされてしまうようである。

しかし、希望の種もある。

DSM-5が、とてつもなく無謀で、報道に鈍感だったからであろうが、メディアは精神科の診断の危険性に、間違いなく、気づいているからである。

DSM-5に関する報道は、実に詳細で、世界中に及び、粘り強く、しばしば容赦がなかった。

DSM-5は、外部の専門家グループによる批判には、驚くほど無関心であったが、最悪の提案の多くが報道機関によっ手酷評された際には、最終的にそれらを撤回したのである。

巨大製薬企業もまた、自らの乱行の影響が、子ども、高齢者、貧困者、帰還兵など最も立場の弱い人々に及ぶようになってからは、打撃を被り始めている。

野放しの多剤投与や医原性の過量服薬という許し難い状況も、然るべき関心を、ようやく、集めるようになっている。

報道機関に望みたいことは、市場の力を代弁するのではなく、それに逆らい、医療や製薬業界の暴走を監視し、診断のインフレと、過剰な治療に対する国民の守り手として発言してゆくことである。

H・L・メンケンは言っている。
「複雑な問題には必ず、明白で単純でまちがった答があるものだ」と。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

熱が入りすぎて、ただでさえ暑いのに暑苦しい長文になってしまいました^_^;

でも、また読んでやって下さいね( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し画像は散歩中に撮ったものをその日の気分で選んでいます(→内容とは関係ないことがほとんどです)(*^^*)


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