トルストイは、小説『クロイツェル・ソナタ』のなかで
「音楽とは一体何なのか?
音楽は何をしているのか?
音楽は何のためにそのようなことをしているのか?
よく音楽は精神を高める作用をするなどと言われますが、あれはでたらめです、嘘ですよ!」
と述べ(させ)ている。
どうやら、人倫に反した愛というものは、犯罪を生み出しもするが、芸術作品も生み出すようである。
年老いたゲーテが、若い娘に本気で恋をし、その経験は「マリーエンバートの非歌」というドイツ文学史に燦然と輝く作品として結実した。
考えれば考えるほど、なかなか複雑なのだが、芸術と犯罪とは、紙一重なのかもしれない。
決して表面に出してはいけない情念を、他者を傷つける具体的な行動というかたちで表現すれば犯罪であるが、他者を傷つけない抽象的なかたち、例えば、音楽や絵画や文学などに昇華すれば、それは芸術として許容されうるし、賞賛されもするのである。
さて、レオシュ・ヤナーチェク(1854~1928年)は、その晩年に、道ならぬ恋に落ちた。
ヤナーチェクにとって、トルストイが『クロイツェル・ソナタ』で描いた、情念が生み出す恐るべき業の深さがさらに生み出す悲劇は、まるで自らの告発のように感じられ、それは心の奥深くに突き刺さったようである。
(ちなみに、弦楽四重奏曲第1番の正式なタイトルは「トルストイ作の小説『クロイツェル・ソナタ』に霊感を受けて」である。)
トルストイが小説『クロイツェル・ソナタ』に描いたのは、妻の浮気のために嫉妬に狂い、ついには妻を刺殺した男の告白である。
小説『クロイツェル・ソナタ』のなかでは、ヴァイオリンを弾く伊達男とピアノを弾く妻が、サロンでベートーベンのヴァイオリン・ソナタ第9番、通称「クロイツェル・ソナタ」を演奏するのだが、あまりにも情熱的で、演奏者はおろか、聴く人まで物狂おしくさえするこの曲のために、主人公は2人の関係を邪推し、それは、結局、殺人をも招いてしまうのである。
この小説を読んだ作曲家ヤナーチェクは、不義の愛が生み出す力と悲劇を正面から作品にしようと決意し、書かれた作品こそが、弦楽四重奏曲第1番『クロイツェル・ソナタ』である。
この作品を書くのは、ヤナーチェクにとって、自らの心にメスを入れるような過酷な作業であったようである。
音楽は、冒頭から、悲鳴で始まる。
また、それは、悲鳴であると同時に決してかなわぬものへの憧憬の呼び声でもある。
これが、全4楽章の共通主題である。
では、誰がそのような声をあげているのであろうか。
それは、妻、伊達男、夫、3者がそれぞれの思いを込めて悲鳴をあげ、それぞれの憧れを抱いているのである。
ヤナーチェクは、自虐的なまでに、身をかきむしるような音符を書き連ねてゆく。
しかし、不協和音とスル・ポンティシェリ(耳障りな音を出す奏法)の嵐の中から不意に現れる、憧憬に満ちた音楽の美しさは、筆舌に尽くしがたいものがある。
絶望の底から見上げた月ほど美しいものはないだろう。
そのような月をみるとき、誰でも吠えずにはいられないだろう。
その吠え声こそ、ヤナーチェクが書いた音楽ではないだろうか。
音楽は、音符で描かれた文学である。
優れた文学は、人を気分よくさせるのではなく、むしろ、人を考え込ませ、叫ばせる魔力を持っている。
音楽も同様である。
文学や音楽や絵画などの芸術に、癒やしや息抜きだけを求める人は、結局、いつまでも芸術に出会うことはないだろう。
なぜなら、芸術と出会うということは、実に恐ろしい体験でもあるからである。
第4楽章で描写される、ついに殺人へと至ってしまう場面と、その後の虚脱感は圧巻である。
作曲家が音楽のなかで殺人を行うかのようである。
そして、これを聴く私たちも、殺人現場に立ち会っているかのようである。
ヤナーチェクの『クロイツェル・ソナタ』という、愛の喜びとそれゆえの苦しみと悲劇とが凝縮したわずか20分ほどの曲を聴くという体験は、20回人生を生きるかのような深い感動を与えてくれるようにも、思えるのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
冷たい川で「みそぎもどき」など、やらなくても良いので、トルストイの小説『クロイツェル・ソナタ』とヤナーチェク弦楽四重奏曲第1番『クロイツェル・ソナタ』を聴いて、心を浄めてほしいような議員が、やっと辞職したようですね^_^;
その元議員のあまりに幼稚な言い訳を聞いていて呆れながら、そのまま、考えながら、今回は描いているかもしれません^_^;
こんなふらふらした描き方ですが、よければこれからも読んでいただけると嬉しいです(*^^*)
今日、関東は真夏日だそうです。
体調管理に気をつけたいですね( ^_^)
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。