おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

マルサスが示した「DNAの身勝手な利益」に仕えるリスク-私たちが直面していることについて考えるⅢ④-

2024-04-01 06:47:58 | 日記
人は稀に起きる、見慣れぬリスクをとても大きく考え、日常的に起きるもっと重大なリスクを極端に軽く見るものである。

アメリカにおいて、9.11以降、テロ行為による年間平均死者数は9人である。
一方、医療ミスによる死者は毎年25万人以上であり、薬物の過剰摂取では5万人、自動車事故と銃による事故では3万人以上が命を落としている。

しかし、恐怖は、合理的であろうがなかろうが、世界の様相を大きく変えてしまう要因のようである。

例えば、トランプは、テロというカードを露骨に示し、巧妙に使ってきた。

そして
「私たちは、イスラム国(以下、IS)に対して宣戦布告する......地球上からイスラム過激派によるテロを一掃する」
と言うのである。

トランプは具体的な計画を示さないが、毒をもって毒を制する意図を
「ISがアメリ化に対して残忍であったように、アメリカもISに対して残忍な手段(水責めを超える拷問やテロリストの家族の殺害など)をとる」
としている。
(→当然、軍人は戦争犯罪となる不法な命令には従わないように訓練されているが、恐ろしいことに、トランプは決して彼ら/彼女らには嫌とは言わせないと言っている)

トランプの姿勢は、国際法に違反し、共通の人間性に背くものである。
また、拷問はまったく効果がないどころか、かえって逆効果になることが多いという科学的エビデンスや軍の経験をトランプは無視し、ISのリクルーターにとって理想の役回りとなってしまった。

彼のイスラム教徒に対するあからさまな敵意と残忍さが、イスラム教徒のアメリカに対する敵意と残忍さを煽るのである。

こうした「目には目を」という復讐心は、部族間の紛争に対処するきわめて古い原始的な方法でしかないのである。

復讐は、短期的な精神的快感をもたらすが、結局は、両者にとって自滅的な行動となるのではないだろうか。

マーティン・ルーサー・キングが言うように、
「目には目を、歯には歯をという行動を取れば、私たちは目が見えない、歯もない国になるだろう」。

私の尊敬する精神科医が、ボストンマラソンで起きた爆破事件のとき、専門家として、イスラム教徒の若者たちの精神的孤立を直接目にする機会があったそうである。

彼によると、ツァルナエフ兄弟は、もともと宗教的・政治的活動に進んで関わっていたわけではないのだが、この事件は常軌を逸していて、ほんの些細な個人の不満を、大げさなジハードの物語にまで膨らませたそうなのである。

もしも、アメリカがテロを聖戦という行為として仕立て上げるのではなく、卑劣な犯罪として扱っていれば、彼らはこうした大胆なテロ行為には決して及ばなかったであろう。

ISの犯罪者とテロを嫌い平和を愛する10億人のイスラム教徒を一括りにすることは、新たなツァルナエフ兄弟の誕生を後押しすることになるのではないか、と、私は、思うのである。

ところで、テロリズムに関する報道で、ほとんど触れられていないのは、人口過剰の世界で仕事や結婚のめどが立たず、自らの命以外に失う大切なものがない若者たちであふれた世界から、テロ行為が起きている、という事実である。

やはり、私たちはタブーを破って、世界において、人口過剰がテロに限らず、多くの悲劇を引き起こす原因となっていることを、オープンに議論しなければならない時期に差し掛かっているようである。

シーア派とスンニ派の紛争は決して単純なものではないが、そこでは、ほぼ常に、多すぎるシーア派と多すぎるスンニ派が、減少する資源をめぐって、戦っているという側面がある。

それは、ツチ族とフツ族の争いでも、パシュトゥーン族とタジク族との争いでも、タミル族とシンハラ族の争いでも、ユダヤ人とパレスチナ人との争いなどでも同じである。

ほぼすべての戦争や内戦で、人口過剰の(家父長制の)部族が、同じように人口過剰の近隣の部族と、急速に減少する土地や食料、水などの資源に対する権利をめぐって戦っている。

多くの人々がマルサスの道理をわきまえるまでは、抑制されていない人口を抑える要因は相変わらず戦争や移住、飢饉だけとなってしまうであろう。

また、私たちは、私たちの持続可能な生存な未来に、ではなく、現状では、DNAの身勝手な利益に、やみくもに使えていると言ってもよい文化的伝統にも支配されているのかもしれない。

しかし、世界がその文化的伝統による支配からだっきゃくすることは、簡単な作業ではないようだ。

例えば、現に、ごく最近、トルコの大統領が、
「女性が働くことは、非愛国的で女性らしくない」とさえ発言しているのである。
さらに、その大統領は、女性は家にいて、もっと子どもを産まなければならない、さもないと「半人前」だというのである。

はあ!?
......。
......発言そのものも、信じられないが、大統領が、その発言をしていたとき、トルコはもともとの住民であるトルコ人とクルド人で、すでに著しく人口過剰となっているうえに、シリアからやってきた30万人の移民であふれている、まさに信じられない状況にあったのである。

人口について、遠慮なく話すことを恐れ続けることは、人口の問題から派生するあらゆる問題をそのままに、見て見ぬふりを続けることを意味しているのではないだろうか。

私たちが、常に繰り返し起きるマルサスが示唆した惨事を最小限に抑えたいと思うならば、人口の問題について議論しなければならない。

世界中で戦っている部族たちは、自らの生き残りをかけて、相手と戦っていると思っているであろう。

しかし、実際は自分たちの部族の人口過剰と、それを促す不適切な文化的伝統に対して、勝つことの困難な戦いを続けているのである。

人口の問題を素直に語ることは、文化的伝統から外れるようにすら思えるであろうし、また実際そうであるのだが、必要不可欠なことでもあるのである。

人口抑制をほのめかすことで煽られる宗教的、および民族・部族的感情があまりに強く、理屈に合わないものである場合、粘り強く、私たちの世代の世界は、その感情に立ち向かわなければならないだろう。

また、世界は、人口動態に関して、至るところで粘り強く学び続けなければならない時期に差し掛かっているのだと、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

難しい議論なので考え考え、描いています、うまく描けていませんが、今回も、読んで下さり、ありがとうございます( ^_^)

次回も頑張りますので、良かったら読んでやってください(*^^*)

昨日は、暖かいを通り越して暑い1日となり、驚きました^_^;

体調に気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。