1774年、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が発表されたが、この小説ほど、偉大な文学の力と流行の危険性を、まざまざと証明しているものは、あまりないであろう。
失恋とロマンチックな自殺を描いたこの半自伝的小説は、新たな現象を生んだ。
著者はセレブになり、本はファッションガイドとなった......だけ、ならよかったのだが、ウェルテル効果はヨーロッパ中に波及し、服装や話し方や態度に影響を与え、模倣自殺という死の連鎖を引き起こした。
皮肉なことに、ゲーテは失恋を克服し、この小説を否定して、悪影響をもたらしたことを悔いながら長生きすることになった。
ちなみに、主人公のファウストは、海を埋め立てるというもっと安全な楽しみのために、気まぐれな色恋の誘惑を断ち切っている。
ただ、ウェルテル効果は、当時のゲーテひとりが悩んで悔いるだけの現象ではなく、1774年以降も突発的に発生しており、私たちも、流行の危険性について考えさせられる現象である。
模倣自殺には、ふたつのパターンがある。
群発自殺と集団自殺である。
群発自殺は 、有名人の自殺または親戚や友人や同級生や同僚の自殺を人々が模倣するときに発生する。
自殺が伝染するという懸念は現実にあり、CDC(アメリカ疾病対策センター)がメディアによる報道のガイドラインを示しているほどである。
CDCは、事実に基づく簡潔な記事にとどめ、派手な扇情表現、興味を煽る粉飾、詳細な方法の記述、自殺の美化など、自殺が理に適った選択や不朽の名声を得る手段であるかのような示唆はすべて避けるべきだとしている。
集団自殺には、その社会のなかにおいては、(その社会の外側から見ればいかに間違っていても)もっともらしい動機がある。
例えば、敗れ去った軍隊やその家族が、敵に殺されたり捕虜にされたりすることを潔しとせず、集団で自殺したエピソードは歴史には、ある。
また、それと比べて数は少ないものの集団が自分たちの主張を最も強烈に訴えようと自殺する例もある。
しかし、自己破壊的な人は遺伝子を自分ごと忘却の彼方に運び去ってしまう。
生殖のレースに勝利するのは、人生を肯定するDNAであるおかげで、私たちはどんな試練や困難に対しても諦めずに戦い続けるのである。
自殺の流行においては、群居本能が私たちの強力な自己保存本能を打ち負かしている。
群れに加わろうとする衝動が、ときには生存本能に勝るという事実ほど、流行の負の力をよく物語るものはないであろう。
ところで、精神科の診断には、流行がある。
唐突に、誰もが同じ問題を抱えているように見える→大流行を説明するために、胡散臭い説が唱えられる→「こうすれば治る」とこれまた胡散臭い治療が施される→はじまりと同じくらい唐突に、流行は自然に収束し、氾濫していた診断は表舞台から消え去る。
という繰り返しを精神科の診断の流行は辿ってきた。
19世紀末には、
「神経衰弱」「ヒステリー」「多重人格障害」という3つの流行が生まれた。
どれも、当時のカリスマ神経科医であるビアードとシャルコーが、患者の多くに見られた不可解な非特異性の症状を説明しようとしたために発生した。
なぜ、3つの流行が一斉に始まったのか。
そして、なぜ、3つとも神経科医が発生させたのか。
これは、神経科学のめざましい発見が臨床現場のある場合では未熟な発想に不相応な権威を与えかねないという、今日でも非常に的を射た教訓物語となっている。
当時の状況は現在の状況と似ていたのである。
なぜなら、脳の仕組みに対する理解が大変革を迎えつつあったからである。
神経細胞が発見されたばかりで、科学者は(フロイトも含めて)、シナプス結合の複雑な網目を辿ることに忙しかったのである。
脳は電気機械のようなものであり、ちょうどその頃発明され、日常生活の表舞台に登場しつつあった数多くの新しい電気機器よりもはるかに複雑ではあるが、根本は変わらないということがあきらかにされていた。
脳の新しい生物学は、それまで、哲学者や神学者の抽象的な世界に属するとみなされていた行動を説明するものだった。
人間の魂の深奥を探ることは不可能であっても、人間の脳の具体的構造や電気的結合を理解するのは可能なはずであった。
症状は、悪魔憑きや呪いや罪や吸血鬼の産物などではなく、脳という機械の配線に不具合が起こっているのだと解釈することが出来るようになったのである。
これは、当時から現在に至るまで有力で妥当なモデルになっている。
しかし、問題は、当時も現在と同じで、脳という恐ろしく複雑な機械の秘密を探ることがどれほど難しいかということを、甘くみていたことであった。
当時(も)、神経科学の抵抗しがたい権威は、あまり意味のない軽薄な臨床現場の概念に、不相応な箔をつけてしまったのである。
こうして「神経衰弱」「ヒステリー」「多重人格障害」(→それぞれについては後編で詳しく取り上げる予定)の3つの流行が生まれたのである。
3つともそれぞれ異なる形で、人間の非特異性の苦しみにレッテルを貼って(→ここも後編で詳しく)理解したフリをしようとするものであった。
結局のところ、どれも有益ではなく、ある意味ではどれも有害であった。
なぜなら、原因についての説明は誤っており、推奨された治療はせいぜい偽薬効果が望めるくらいであり、治すつもりの問題をなおさら悪化させるときも多かったのである。
しかし、これらのレッテルは説得力があるように聞こえ、新興の神経科学の大きな権威を拠り所にしており、カリスマ性のあるオピニオンリーダーが後押しし、説明を求める人間の欲求にも適ったために、何十年も広く使われたのである。
このようなことは、現代にもそのまま当てはまるようであり、重要な教訓を与えてくれる。
それは、実にもっともらしいが不正確な原因理論が、医師と患者を欺くことがあるということである。
つまり、最も有力であった斬新な説が、実のところ完全な間違いであった、ということがあるのである。
今日の説の多くも同じ路を辿るかもしれない。
だからこそ、過去の流行を知っておけば、現在で何が流行しようとも疑いの目で見ることに役立つはずである。
現在や未来の愚かな流行に飲み込まれないようにする最善の方法は、かつての流行が及ぼした害を認識しておくことである。
歴史がそっくりそのまま繰り返すことはない。
その複雑な相互作用には、無数の確率の組み合わせがあるからだ。
しかし、歴史が韻を踏むのはたしかである。
たとえ、見た目は流転していても、歴史を形作る根源的な力はかなり安定しているからである。
過去の韻をよく知るほどに、現在に、そして、未来にそれを分別繰り返すことは少なくなる、と、私は思うのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
また、数日間、不定期更新となりますがよろしくお願いいたします( ^_^)
精神科の診断の過去の「流行」が及ぼした害を知る意味の後編は、次回以降、不定期更新の後に描きたいと思います(*^^*)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。