おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

グスタフ・マーラーの交響曲第6番イ短調「悲劇的」が本当に悲劇的なのか??について(後編)

2024-04-15 07:41:30 | 日記
グスタフ・マーラー(1860~1911年)という精神は常に、具体的なものの背後に抽象性を見出さずにはいられないようである。

英雄ジークフリートのうしろに「英雄性」を見出し、
愛の歓喜のうちに死ねトリスタンとイゾルデの後ろに
「愛の死という普遍的な概念」を見出す。

そしてマーラーは、特定の個人、ドン・ジョバンニやフィガロが話し合い、動き回ったりした挙げ句に、とどのつまりは「死」に消える一場の具体的な舞台を作るのではなく、英雄性や愛の歓喜、過酷な運命といった抽象的概念が話し、歌う概念のオペラを作り上げたのである。

歌詞のない歌、歌声のない歌劇、それがマーラーの交響曲というものなのではないだろうか。

交響曲第6番の長大な第4楽章で、私たちが聴くのは、まさに概念のオペラである。

理念の闘争であり、人生という舞台の登場人物である、愛、困難、平安、笑い、卑劣、悲嘆などの諸概念が動き回り、最後に、「死」が登場して幕を引くのである。

交響曲第6番イ短調「悲劇的」には、象徴的な2つの楽器がある。

ひとつは、1、2、3、4楽章で用いられるカウベルであり、もうひとつは、第4楽章のみで3度用いられる巨大なハンマーである。

カウベルとは、マーラーがこの交響曲第6番を作曲したアルプス地方で、放牧牛の首につけておいて、牛の居場所が分かるようにするためのもので、カランコロン、と実にのどかな音を出すものである。

ただし、マーラー自身も注意を促しているように、カウベルは自然描写のために用いられているのではない。
具体的な自然そのものではなく、抽象的な自然性、あるいは人間の力をはるかに超えた自然の摂理を象徴するものとして理解すべきなのかもしれない。
カウベルは、人間的な世界を超えた世界の存在を告げ知らせる役割を持っていると言ってもよいだろう。

また、ハンマーは、第4楽章の主役でもある。
ハンマーは、普通のオーケストラには常備されない道具であり、マーラーがこの曲のために特に用いた楽器である。

第4楽章では、ついに英雄が死を迎えるのであるが、
「英雄は3度の打撃を受け、3度目の打撃により、木が倒れるように倒れる」というのがマーラーの最初の説明であり、その打撃を聴覚的にも視覚的にも伝えるのがハンマーである。
のちにマーラーは3回目の打撃を削除している。さまざまな説があるが、マーラーによる直接の説明は残っていないので、真の削除意図は不明である。

さて、交響曲第6番を第1楽章から順にみてゆこう。

第1楽章は、低弦の逞しく戦闘的なリズムとともに、決然とした第1主題が展開される。
次に木管を中心に不思議な広がりを持つ音空間が形成され、突如として、喜びに満ちた第2主題が現れる。
愛する妻アルマの主題である。

この激しい戦闘が、静謐に中断され、愛の主題が生まれ出るという構造は、第1楽章のみならず、この交響曲すべてを貫く根本理念である。

この理念を聴衆に確りと把握させるためにマーラーは、珍しく古典的な反復記号を書き込んでいるほどである。

反復による2回目の愛のテーマが終わると、いよいよ展開部へと突入する。

ここでは、戦いは激しさを増し、悲壮感すら漂うのであるが、人間の力をはるかに超えた世界の存在を告げ知らせるカウベルが聞こえる。
悠大な自然の営みを思わせ、かつ人間の卑小さと儚さを想い起こさせるような雄大な音楽を経て、音楽は勇猛さと明確さを取り戻す。

英雄は再び力を得て、果敢にも困難へと突き進んでいくのである。

たしかに、戦いは高らかなる愛の勝利の凱旋によって華々しく帰結するのである。

第2楽章で、主人公は暫しの憩いを得る。

弦楽と木管が織りなす柔らかな主題ではじまり、牧歌郷に安らうがごとき平安が現れる。

しかし、その平安のなかにも「死」が潜んでいる。

オーボエが憂愁に似た旋律を奏でると、オーケストラは悲嘆と悲哀に沈んでゆく。
悠大な自然を前にして、いつかは死すべき身であることへ悲嘆と悲哀が不安を伴って胸に迫ってくるようである。

しかし、マーラーは、以前のように死を前に取り乱したり、悲嘆に暮れたりはしない。

なぜなら、彼は、愛するものの生命、受け継がれてゆくものの生命を知ったからである。

生々流転する自然の摂理は、荘厳な歓喜をもって迫ってくるのである。

しかし、優れた劇作家が知るように、真の劇的瞬間が訪れるためには、小さいながらもその前触れがある。

シェークスピアも、ロミオにいきなりジュリエットに恋させるのではなく、ロザリンデに恋をさせているではないか。

同様に(?)、先ほど訪れた不安からの転換は、真の感動の前触れに過ぎない。

今一度、深い悲しみが作曲家の心に襲いかかるそのとき、カウベルが聞こえてくる。

世界の苦しみは深いが、喜びはさらに深い。

やがて音楽はまどろみのように静かに終わる。

第3楽章では、ティンパニーによる激しい3拍子が、私たちをまどろみから現実の戦いへと引き戻す。
実際この音型は第1楽章の冒頭と似ており、まだ、戦いが終わっていないことを想い起こさせる。

そして、最終楽章の悲劇を予告する役割を持っている。

この楽章は戦闘的な主題→微笑ましくも不安定な主題→クラリネットが奏する諧謔的な主題→を繰り返しながら、音楽は徐々に崩壊をはじめ、静かに、力尽きるように終わる。

第4楽章では、冒頭に「悲劇の主題」とも言うべき旋律があり、のちに2度ほど登場する。

重苦しい序奏部分では、これからはじまる主部のさまざまな主題、要素が断片的に現れては消える。

段々と英雄を示す管楽器のコラールが姿を現し、いよいよ英雄は目覚め、現実との戦いをはじめるのである。

主部が低弦の行進曲風リズムから始まる。

悲劇が始まるのだ。
主人公は、最後の戦いに出かけるのである。

激しい戦闘の合間には明るい旋律も見え隠れし、悲劇の主題の変形も姿を現すが、そうした争いを超越するかのようにカウベルが聞こえる。

すると、音楽が幸福感に満ちて前進し、英雄的な音楽が勝利の予感を漲らせて高揚してゆく、そのとき、第1撃目のハンマーが振り下ろされる。

しかし、英雄はここで怯んだり怖じ気づいたりなどしない。

苦難に出会ってはじめて人は、自分について本当に思索する、と、私は思う。

マーラーが描き出す英雄は、まさに自らが英雄であることと、困難と苦悩とを一身に引き受けて孤独に突き進まなければならない存在であることを知る。

音楽は戦い続け、行進は力強く進み、再び勝利がすぐそこまで近づいてくる、音楽は頂点へと進む、そのときに、第2擊目のハンマーが振り下ろされるのである。

英雄はこの打撃を耐え忍ぶのだが、ここで、2回目の「悲劇の主題」が現れ、主人公に加えられた打撃の深刻さを暗示する。

この楽章の冒頭と同じ構造が再現される。

しかし、カウベルが聞こえる。
主人公はしばしの、そして最後の休息を与えられる。

この休息では「アルマの主題」が変形して引用され、まるで、愛の記憶の中に束の間の安らぎを見出すかのようである。

オーボエと独奏ヴァイオリンと独奏チェロが、英雄と愛するものとのふれあいから再び過酷な現実と対峙する力を得る過程を描き出す。

そして主人公は最後の戦いに出かける。

熾烈でありながらも、音楽は喜びと勝利感に満ちてもりあがる。

そして愛の勝利を宣言するファンファーレが最高潮に達したとき、3度目のそして最後の「悲劇的主題」が姿を現す。

マーラーの最初の構想ではそして、3度目のハンマーが振り下ろされるのであるが、先に述べたように、後にマーラーは、3回目の打撃を削除している。

マーラー自身の直接の説明は残っていないので、真の削除意図は不明であるし、現在では、静かにハンマーを振り下ろす場合が多いかと思う。

しかし、私は、マーラーが幸福のなかでこの作品を描き出したことから、3回目のハンマーの打撃を削除した場合の方を好ましく思う。

皆さまは、どのようなラストがよいですか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

皆さまの心の中にこの曲に対するそれぞれの素敵なラストがあると思います(*^^*)

次回、マーラーとアルマと交響曲第5番を描こうかなあ、と迷っています^_^;

相変わらず方向性が、優柔不断な私のブログですが、また、良かったら、次回も、読んでやって下さいね( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。