ここは岡本太郎が1996年84歳で亡くなるまでのアトリエ兼住居だ。
1953年から暮らしてしていたという。
随分いい場所に住んでたんだなと思うが、
岡本一平・かの子・太郎が戦前から暮らしていた地というから、
南青山といっても当時は普通の住宅地だったのだろう。
現代アートに疎くとも岡本太郎はよく知っていた。
名前だけ、顔だけは。
あの日本万国博覧会で太陽の塔を創ったへんな人として。
「人類の進歩と調和」がテーマの日本万国博覧会は、1970年大阪・千里で、
高度経済成長真っ只中の日本での一大国家イべント、だったらしい。
当時、地元大阪での開催だから何度か訪れたが、いったい何を見てたのだろう。
♪コンニチハ、コンニチハ♪と三波春男が声高に歌っていた万博音頭同様(まさかあれがテーマソングだった?)、外国人がやたら多いお祭りみたいな印象しかない。
それでも大阪万博といえば、真っ先に浮かぶのが岡本太郎の太陽の塔だが、
へんなもん作ってんな、という感じしかなかった、そのときは。
太陽の塔の内部は、「生命の樹」というパビリオンになっていたことも知らなかった。
内壁は真っ赤なウロコ状で、そこに生物進化の過程を表す大小299体の模型がちりばめられ、電子制御装置によって精巧に作動していたという。
模型制作は円谷プロダクション、音楽は黛敏郎が担当したと記載されている。
写真で見る限り、あっけらかんとしたオブジェの外側とは大違いの、神秘のジャングルのような迫力だ。
37年の時の風化を経てもいっこうに古くなっていない。
むしろテーマの‘進歩’のみ目立った万博当時より、‘調和‘の必要性が求められている今の方がマッチしているかもしれない。
太陽の塔は今も残っているが、内部は封印されてしまった。
ところが、2003年、33年振りに一般公開された。
多くの展示物は撤去されてしまったが、恐竜や三葉虫など一部がそのまま残っており、
動いていないエレベーターやエスカレーターもそのままだったという。
まるで廃墟のようではではなかったろうか。
万博当時にリアルタイムで見なかったのが残念だが、封印が解かれた生命の樹の趣も格別に違いない。
で、ここ記念館に入って、二階の壁一面に張られた岡本太郎の顔写真の目に驚いた。
異様に鋭いというか、突き抜けたというか
狂気を秘めたというか、哀しげというか、
心ここにあらずのようで、本質を見据えているようなというか、
何より岡本太郎の目が爆発している。
に関連記事としてリンクをはらせてさせて戴きました。
そうそう!岡本太郎さんの眼は、やよいさんの言うとおりだね。すごくウマイ描写で、大いに納得したよ。
彼は、生まれるのが早すぎたのかなぁ
私はそのころ丁度父の大阪勤務で、西宮住まい。母の実家も近く、結婚前の叔母の大胆な運転で(時速100キロを大幅に超える)、2人で見に行ったりしました。計3回は見てます。会場に近づくと、高速からでもまずあの塔が目につくんですよね。子供心の太陽の塔の印象は「変なの…」でしたが。内部見たかったなあ。今も南青山に展示されてるんですか?
岡本太郎、写真も撮ってたんですよね。本人は「私は写真家じゃない」と言って、生前発表は拒否していたようですが、去年?都写美で特集されてて観た覚えあります。撮り方はあまり技巧がなくストレートで、それゆえ視点の鋭さが出ていたように思います。