My Tokyo Sight Seeing

小坂やよい

My Sight Seeing in etc.

2007-05-27 13:02:17 | Weblog

鈴木道彦・著 「越境の時 1960年代と在日」

この本の著者はフランス文学者。1960年代から70年代にかけて在日の人権運動に関わった。
1958年に二人の日本人女性を殺害し死刑となった在日が、獄中で支援者と交わした往復書簡集から衝撃を受けた著者の、以後、1968年、金嬉老事件(ライフル銃を持って旅館に立てこもり日本人による在日差別を告発)の8年半に及ぶ裁判支援までの回想記だ。
60年代に、なぜ在日の問題を日本人の問題として自ら関わったのか、その過程がていねいに書かれていて、引き込まれる。

同じ時期に私は大阪で、住んでいた駅から4駅目が‘鶴橋’という在日の人たちが多い場所の近くで育った。
在日という言葉は当たり前のごとく存在し、なぜ在日問題があるのかといったことには、皆目関心がいかなかった。すごく鈍感だったと思う。
学校の歴史授業にしても、江戸時代まではていねいに進み、近代史は時間がないからとさわりだけ、日本の中国、朝鮮半島支配はすっぽ抜け。故意に教えなかったのではとも思えるが。だから、自分から知ろうとしない限り空白だった。

私が子どものころ、父は時々在日への差別用語を口にすることがあった。
当時の大阪の風潮としては、さほどめずらしいことではなかった、と思うのだが‥‥。
韓流ブームが起こる前、韓国映画に魅せられて周りにそのよさを説いていたが、まったく反応が鈍く、私と同世代、同じ大阪で育った人の中には、子どものときの在日に対する感覚が尾を引いて、興味がもてないという返事もあったぐらい。

しかし「冬ソナ」が劇的に変えた韓国への関心度。
この本で書かれている時代は、一昔前のこととなってしまった。
著者は「パッチギ!」を見て、金嬉老事件と同じ時代設定なのに、そこに流れている明るい空気は信じられないぐらいだった、と書いている。
かって著者が困難な状況の中で乗り越えようとした日本人と在日の境界線。
「冬ソナ」から韓国に夢中の人たちにも、より広範な韓国及び朝鮮人と日本人の関係を知る上で、辿ってほしい本だ。




My Sight Seeing in Cebu]

2007-05-20 21:41:40 | Weblog

フィリピンの南部には島がいっぱい。
マニラから飛行機乗換えて、レイテ島の隣、セブ島にリゾートしたことがある。
10年ほど前のことではあるが。

飛行場からホテルまでは送迎バスで30分ほど。
10分ぐらい走ったところで人家が見え出し、バスはその中を通り抜けていく。
日が暮れかけ、人家に灯りがつき出して、家の内部がバスの車窓からはっきり見える。
皆一様に小さな粗末な平屋建て、裕福とは言い難い様子の生活。
それまでアジアへの旅行は台湾、韓国、香港のみで、しかも街中の観光。
前年にミクロネシアのロタ島で初めてリゾートなるのを体験して、それなりに楽しかったから、着いて真っ先に目に入ったこの光景にちょっとびっくりした。

そこを通り抜けるとホテルで、入口にガードマンがいて、ゲートを開ける。
ホテルの客室前は、旅行パンフによるとプライベートビーチという、海。
その海岸から幅の狭い桟橋が沖合に向かって続いていた。
「着いたー。みんな、ちょっと海を見にいこ」というノリで夜の海に出て、真っ暗な中、桟橋を歩いていった。
途中、かすかなライトが灯っているボックスにはガードマンがいた。
大きな銃を持って。

翌日、プライベートビーチの海は狭くて、シュノーケルをするには適切でなく、
プライベートビーチから出ると、海の自然条件が危険というより、ビーチ付近での治安上の問題の方が大きいということが分かった。
桟橋のガードマンも、夜に沖合いの桟橋に舟をつけて、ホテルに侵入してくる窃盗の見張りだったらしい。
しかたなく、シュノーケルができる島へのツアーを申し込む。
説明のときに、係の人が「途中、何があっても大丈夫ですから、心配しないでください」みたいなことを付け加えていた。

ツアー客は私たちを入れて日本人ばかり10名ほど。
目指す島が前方近くに現れ、その周りはサンゴ礁が太陽に反射してきらきら輝いている。
「さすがにここまで来たら海の色も違うね」と、喜んでいたとき、船が止まった。
それまで景色に見とれて気がつかなかったが、3,4艘の小さな舟が私たちの船近くに寄ってきていた。
「この船、あの島につけられへんから、乗り換えるのかな」と友人が言っていたとき、
周りを取り囲んでいた舟から、私たちの船に男たちが乗り込んできた。
みんな眼光鋭く、こわもての顔つき。
そして、片言の日本語で「ミヤゲモノ、アルヨ」と手にした貝殻細工や何やらをかざした。

なんやみやげもの売りかと、なんでこんなとこでとうんざりしたが、船は一向に動く気配がない。
しかも引率の男の子二人は、海に飛び込んで遊び出す。
男たちとは合意の上、これが何があっても大丈夫ですからということだったのだ。
それからみやげものを売ろうとする男たちと、買わない私たちの間で、気まずい、沈黙気味の30分間ほどが過ぎた。

結局誰も何も買わなかった。
男たちは引き上げて、船は動いたが、島に着く前に、予期せぬ訪問者で私はすでに憤慨していた。

島は30分も歩けば反対側の海岸に出るぐらいの小さな島。
島の内部を通ってビーチまで行くのだが、またもやここでもその生活を覗き見ることとなった。
ホテルの回りの家より、更に小さな家が点在する。
生活用水の大きな甕(カメ)が置いてある家もあった。後で本を読んで知ったのだが、大きな甕のある家は、島ではお金持ちになるのだという。

ここらあたりから、リゾート気分が吹っ飛んできていた。
リゾートをエンジョイしに来ているのに、なんでこんなやりきれない気分にならないといけないのかと。リゾートなら現実的なノイズには触れたくない。
それに輪をかけたのが、ホテルの従業員たちの、明るく、フレンドリーとはいいがたい表情だった。なんか日本人にうんざりしているようにも思えたのだ。
同行者の中でインドを旅したことのある人が、「インドの方がもっと貧しいけど、表情は明るかったよ」と言っていたのが、印象に残った。

当時、セブ島は日本で人気のリゾート地だったように思う。セブに現地工場を持つ日本企業もある。
私たちの滞在中に限っていえば、ホテルで西洋人を見かけなかったし、日本人旅行者ばかりだった。
バブルの最後期あたりで、お金を持った日本人が大挙して押し寄せた後だったのかなとも。その日本人たちはどんな行状だったのだろうかと引っかかった。
船に乗り込んできたみやげ売りにしても、日本人なら買うだろうという雰囲気だったし、ホテルでも、ウエルカムという感じではなかった。

友人の事務所の社員旅行に仲間が加わって、毎年3泊ぐらいであちこち近場に海外旅行していた私たちはケチケチ旅行だったので、利用するのはホテル付滞在フリー型激安パックツアーばかり。
「安もんのリゾートするからや」とはなった。
しかし、西欧人とは違って、同じアジア人として、厳しい生活環境のすぐ側でリゾートを楽しむには、つわもの揃いのおばちゃん引率ツアーといえども、タフな精神がいるようで。
以後、リゾートは沖縄に落ち着いた。




有楽町 シネカノン

2007-05-13 20:47:23 | Weblog

「ボンボン」と「パッチギ!LOVE & PEACE」

有楽町シネカノンでアルゼンチン映画「ボンボン」を見た。
幸運に見放されたようなおじさんが、白い大きな犬・ボンボンをもらい受けたら、それから少しずつよいことが起こり出すという、犬の恩返しストーリー。
ブルドッグのシワをなくしたようなボンボンの顔は、思わず微笑んでしまうような愛嬌とペーソスがあって、パタゴニアの広大な自然をバックに、心安らぐいい映画だ。

シネカノンは代表である李鳳宇さんが、自分の映画鑑識眼でもって始めた配給会社。
「月はどっちに出ている」の製作・配給で成功し、韓国映画配給のパイオニアでもあり、その後に起きる韓流ブームが追い風となって、今や事業は拡大の一途。
‘93年の韓国映画「風の丘を越えて・西便制」がシネカノン最初の韓国映画配給だが、私が韓国映画を見出したのはこの映画がきっかけだった。
映画は口承芸能パンソリの唄い手である義父に指導を受けながら、旅芸人の生活を続ける義姉弟の話で、エンドロールで流れるパンソリに圧倒された。
当時はまだ今のような韓流ブームの影すらなかった。だからこの映画がシネカノンの配給と知って、マスコミでも取り上げられるようになった李鳳宇さんの控えめな物腰にも好感が持て、シネカノンに注目するようになった。

そのシネカノン主催の試写会で、「ボンボン」の後に公開されるシネカノン製作「パッチギ!LOVE & PEACE」を見た。
前作の「パッチギ!」は、60年代後半の京都を舞台に、在日朝鮮人の女の子に恋をしてしまった日本の男の子が、自分が在日の人たちのことや、なぜ「イムジン河」のレコード発売が中止になったのかなどを、何も知らなかったことに気づく。男の子の淡い恋心に、日本の高校空手部と朝鮮高校の番長一派との対立を絡めた青春熱血映画で、松山猛の原作をベースに、井筒和幸が監督した。
この映画を見終わったとき、私と友人3人は拍手してしまったぐらいだった。
ちょうど同じ時代に、在日の人たちが多い大阪や京都で青春時代を過ごした私たちには、時代の雰囲気もビビッドに伝わってきた。映画の男の子同様、私もまた何も知らなく、知ろうとしなかったことに気づかされた。

しかし、「パッチギ!LOVE & PEACE 」。
シネカノンに無料で見せてもらって言うのも何だが、
説得力に欠け、プロパガンダっぽい台詞のシーンには閉口した。
駄作なら「おもしろくなかった」で普通済ませればいいのだが、この映画に限り、見終わって何か釈然としない。
前作がよかっただけに、日本人と在日の人たちとの関係を扱っているだけに、
「こんな表現で出してくれるなよ」と、文句のひとつも言いたくなるのだ。
そのためかどうか分からないが、サイト映画レビューを見ると、すごく盛り上がっている。みんな文句バシバシ、ほとんどが☆ひとつなのに、こんなに書き込みがある映画もめずらしいのではないか。

それよりも私は、ご自身も在日の立場である李鳳宇さんが、製作、プロデュースをしたこの映画の出来についてどう思っているのだろうかと気になった。
シネカノン配給の映画ならという信頼みたいなものがあっただけに、なおさら。
これなら「ボンボン」を引き続き上映していた方がいいと思うのだが‥‥。






秋葉原 路上販売

2007-05-06 17:14:53 | Weblog

先週のブログに紹介した築地観光から、秋葉原へと足をのばしたときのこと。
ジェニーさんと私は、観光どころではないトラブルを引き起こしてしまった。
原因はけっこうな人だかりがしていた路上販売。

覗くと、紙に描かれた人形が、「立って」「こんにちは」と売り手の男のかけ声で自在に動いていた。
その前には「これは手品です」の張り紙があった。
孫のお土産が念頭にあったジェニーさんは、俄然興味を持つ。
「何で動いているの?」、私が男に聞くと、
「これは手品で、コンピュータのチップとかが付いているわけではないですよ」と言う。
こちらの質問に答えているわけではないが、それ以上突っ込まなかった。

ビニール袋に紙の人形が入って1000円。
袋の上から人形の首の辺りを触ると、仕掛けのような何かが入っている感じはする。
何かなと思案する間もなく、彼女は買ってしまった。
「中に説明が英語でも書かれていますから、よく読んでくださいね」と男は言った。
ここがポイントだったのだが、そのときは気づかなかった。

立ち去ろうとしたとき、女の子が私たちの側にやって来て、小さな声で何か言った。
何を言ったのかはっきりと覚えてないのだが、多分に察知できた。

「むむ、やっぱり」。何か嫌な予感がしてたんだよね。
でもまさかジェニーさんが買うとは思っていなかった。
で、私はその場で袋の封を切って、男に向けて
「これ、ここで動くようにしてくれない」と言った。

「説明書読めば分かるから」と、取り合おうとしない男。
今ここでしてもらいたいと、なおも食い下がる私と押し問答になった。
しかたなく男が「はい、動かしますよ」と、買った人形になんらの手を加えることもなく、見本の人形との定位置を入れ替えると、見本は動かなくなって、買った人形が動いた。
それから私たちに人形を返す。
「これやったら、元のままやんか」、子どもだましみたいなことしてと思いながら言った。

更になぜ動くかを聞こうと追求していると、明らかに客ではない男二人がやって来て、すぐに立ち去った。
その後、男は「もうおしまいだから」と周りを取り囲んでいた客たちを追っ払ったが、客の間に立っていた男一人だけが残っていた。
そして私たちに、「手品だといったでしょ。今、種明かしをするから」と。

手品と断っているのだから仕掛けがあり、それを知れば「なあんだ」で、それが説明書に書かれているというわけで、こちらが勝手な思い込みをして買ってしまい、おまけに封まで切ってしまったのだが、
それでも「それじゃ4歳のお孫さんが一人で遊べないじゃないですか」と、他の日本人同行者も加担する。
ジェニーさんも一緒になって英語でなんだかんだと言っていたら、
立っていた相棒の男が、
「この人どこの国から来たの」と私に聞いた。
「イギリス」。
「アメリカ人は喜んで買ってくよ」。
「ごめんなさいね。イギリス人って、とてもシビアなんですよ」と、シビアを強調する私。

そこへ1000円札を広げて手にした別の男がやって来て、客が立つ位置にヤンキー座りした。
それをジェニーさんは客と勘違いしたらしく、その男のところに行き、「あなた買うなら私のを買ってよ」みたいなふうに詰め寄った。
その男が合図だったのかは知らないが、相棒の男が「お金を返したら」と、売り手の男に声をかけた。

というわけで、お金は戻ってきた。
普段なら1000円のお勉強代と諦めただろうが、今回に限り国際問題と、私は即、反応してしまったのだが(私のことを知る夫や友人は違う見解であったが)、ジェニーさんは「これはprinciple(道義、主義)だ」と言っていた。
確かに、ちょっと怖かったけど、納得のいかないことに抗議した爽快感はあった。

だが、男たちがお金を返しそうな段階にきたとき、ジェニーさんは私にウインクを寄こした。
談判の途中から、私は私で、彼らは日本人の客なら取り合わないだろうが、おばさんで、西欧人が英語でまくしたてていて、それを長引かすのと、客を呼べないリスクを考えれば、お金を返すのではないかと踏んでいた。
彼らもしたたかではあるが、おばさんも人生経てきて、日本も外国もたくましくはある。
秋葉原のしたたか合戦は、日英同盟の勝利となったのであります。