My Tokyo Sight Seeing

小坂やよい

My Sight Seeing in Ireland 2

2007-07-30 15:01:17 | Weblog


私がアイルランドの歴史に惹かれるのは、日本の歴史の中で戦国時代と幕末が好きなの同じテイストかもしれない。激流の時代はとてもドラマテックだ。
アイルランドの場合、大英帝国とアメリカ合衆国が絡んでくるのでよけいに興味深い。
アイルランドを描いた映画は、そこら辺の題材がいっぱいなわけで、
映画を見ているうちに、政治的歴史建造物に出会える。

映画『父の祈りを』は、
1976年に実際に起こった冤罪事件と手記を元にした作品で、監督はダブリン生まれの社会派ジム・シェルダン。
IRAのテロリストと間違われ逮捕された息子と父親が収容されたのが、1795年に革命の闘志たちを収監するために建てられたキルメイナム刑務所。
獄中での15年の歳月で、父は静かなる闘いを貫くも病死、息子が再審判で無罪を勝ち取るまでを描いている。
キルメイナム刑務所は1924年に閉鎖されるまで民族運動の記念碑的建造物で、現在は内部を見学できる。
私が「ここに行きたいのだが」と、宿泊した5Wのメンバーに言うと、彼女は「なぜ行きたいのか」とけげんな顔で聞いた。
刑務所はダブリンの中心からかなり西にあり、バスに乗るとき、年配の乗務員に「キルメイナム刑務所に行くので、停留所に着いたら教えてもらえないか」と頼んだら、またしても「なぜそこに行くのか」と聞かれた。どうやら観光とはまたニュアンスが違う存在らしい。
チャペルから始まる内部見学ツアーは、刑務所内に入ると、この映画に出てくるそのまんま。実際の刑務所を真似てセットが組まれていたのだから当然なのだが、映画とダブって、普通の観光名所を見るときとは全然違ったインパクトがあった。

アイルランド独立の闘志を描いた『マイケル・コリンズ』。
マイケル・コリンズはアイルランドでは坂本竜馬的存在で、志し半ばで暗殺された悲劇の英雄的闘志。
1916年のイースター蜂起から、1922年アイルランド自由国成立後、独立を目指して共に戦いながら、その形を巡って二分し、同じ民族同士が殺し合いをしていく内戦までの期間を描いている。
映画の導入、イースター蜂起のシーンは、オコンネル・ストリートにある中央郵便局が舞台。シーズン中は観光客でごった返すメインストリートのひとつだ。
外部の柱にはそのときの銃撃戦の弾痕が残る。現在も営業がなされていて、内部の壁には蜂起の様子を描いた絵があるのが、いかにもといえる。
他にも、イギリスとの協定反対派の司令部となったフォーコーツ、協定が行なわれるシーンは、イギリスが統治していたダブリン城など、歴史名所が満載だ。

歴史的名所はないが、歴史を如実に理解させてくれるのが『麦の穂をゆらす風』。
第一次大戦が終わり、アイルランド独立を求め武装蜂起する義勇軍と、それを容赦なく弾圧するイギリスが派遣した治安警察。舞台はアイルランド南部のコーク州で、抵抗精神がもっとも強かった地域だという。
「マイケルコリンズ」とは違って、こちらは名もなき普通の人々が独立戦争に加わっていく過程を描いている。
弱者の側に寄り添うように立って、イギリス北部を舞台にした作品が多いイギリス人監督ケン・ローチが、「英国が帝国主義の過去と対峙するための小さな第一歩になれば」と作ったというから、さすが社会派監督。
リアルにもの静かに提示する作風ゆえに、訴える力が余韻として強く残り、私の最も好きな監督だ。
この映画を見るとIRAが起こる過程と、過激に走り市民から遊離していく様がよく納得できる。

他にも、
実在の障害者をモデルにした『マイ・レフトフッド』。
ディングル半島の美しい自然と対比させるかのように、村人を取り囲む宗教や愛を描いた『ライアンの娘』、
U2のエッジが出演していて、ダブリンにソウルバンドを作りたいと奮闘する青春ドラマ『コミットメント』等々、
アイルランドを描いた映画は、その社会や歴史に興味があるせいかどれも興味しんしんで見てしまう。



当ブログは今回にて終了いたします。
アクセスどうもありがとうございました。





My Sight Seeing in Ireland

2007-07-22 11:14:55 | Weblog


アイルランド・イニシュモア島

イニシュモアとはゲール語で「大きな島」という意味。
アイルランドの最西部にある島だ。
ゴールウィイからフェリーで渡ったが、快晴下にもかかわらず、すごい荒波だった。
日本では「アラン島」の名前で知られているが、はるか昔ドキュメント映画「アランの男」で世界的に有名になったからだ。
観光シーズには約900人の島の人口以上の観光客が押し寄せるが、
1日で観光できる規模なので宿泊者は少ない。

アイルランドはケルト民族でカソリックの国。
イギリスの統治でゲール語を禁止され、改宗しないならばと、荒涼とした西へと追いやられた歴史を持つ。端的に言えば日本と韓国の関係に似ている。
貧しさゆえ、アメリカやその他の国へ移住していった人が多く、一時は本国に残っている人口より、世界に散らばっている移住者の方が多かった時期もあったという。
ここからさらに海を隔てた西は、ニューヨーク。
アメリカ合衆国の歴史にとってアイルランド人移住者の果たした役割は大きく、
「go west 」,西へ西へというのはアイルランド人にとって希望を意味したのだろう。
アイルランドの古い歌には、そこらへんの状況を綴った詩が多い。

大ヒットした映画「タイタニック」は、ラブストーリー仕立てだが、
アイリシュ側から描いていたともいえる。
タイタニック最後の出港地がアイルランド南部のコークからで、
三等船室の船底にはアイルランド人移住者が多かった。
救命ボートが定数に満たないのを承知で出港して、
助かったのは三等船室以外の人が多かったのだ。
アイルランドではタイタニックで死亡したアイルランド人だけを集め、
その詳細が書かれた本が出版されていた。

アイルランドの中で最も過酷な自然条件の場所がここアラン島。
風が強く、岩だらけの土地なので、ジャガイモを育てるぐらいが精一杯。
「アイリシュ魂」とは不屈の精神を意味するが、こういう場所では不屈の精神を持たないですぐに諦めていたら、生き延びていけなかっただろうと思える。
アイルランドにアメリカ人観光客が多いのは、彼らの祖父母や曾祖父母の地をおとづれるという意味合いを持つ。
アラン島のB&Bで出会ったアメリカ人一家も、祖父母がアラン島出身なのだと言っていた。
飢えを避けるために出て行ったであろう祖先に比べて、この一家4人は、合計8人分ぐらいのウェートがあろうかと思えるほど、みんな見事な肥満体だった。



竹橋 国立近代美術館

2007-07-15 13:26:06 | Weblog

「アンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌」

1908年フランス生まれ、20世紀最高の写真家の一人、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真展が、8月12日までここでやっている。
モノクロの印画紙に現れた世界は、
現実の日常から絶妙の瞬間を切り取ったスナップショットである。
「決定的瞬間」なる言葉を生み出したブレッソンならではの写真の数々。

「決定的瞬間」とは、1952年出版の写真集のタイトルからきているが、
これは英訳で、フランス語タイトルは「逃げ去るイメージ」だったという。
スナップ写真を撮っていて感じることは、まさしく、
うまく撮れたときは、私にとってはそれなりの「決定的瞬間」で、
シャッターを押す一瞬のズレが、「逃げ去るイメージ」だと実感する。
これこそ写真のおもしろさのひとつだ。

ブレッソンの洗練された、完成度の高い気品ある写真が好きで、
スナップを撮りたいと写真を始めたが、人を撮るのは難しい。
ブレッソンは「人の写真を撮るのは恐ろしいことである。何かしらの形で相手を侵害することになる。だから心づかいを欠いては粗野なものになりかねない」と語っているが、
私の場合、自分の勝手な趣味で、通りすがりの見知らぬ人を撮るときに感じる躊躇、弱気は確実に写真に出る。
欠いた心づかいや、感性という名の下の、撮り手の人間性もモロに出るから、
表現するということは常に恥かしさがつきまとう。
加えて最近は肖像権問題があるから、よけいに腰が引ける。
スナップを撮ることに迷いが出て、でも、やっぱり人を撮りたいと思っていて、
そこいらへんの気分の中途半端さも、カメラは写しこむようである。





My Sight Seeing in Hawaii

2007-07-08 12:18:13 | Weblog


旅行好きなのにハワイにはまったく興味がなかった。
だが、ハワイ好きのなんと多いことか。
そのよさを延々と説かれ、そんなにいいのかどうか、試しに行ってみようということになって、2年ほど前に行った。
大阪での高校時代からの友人5人で。
今はそれぞれ、東京3人、奈良、京都住まいながら、
ま、大阪のおばちゃんばっかみたいなもんである。

友人たちとは卒業、結婚、子どもができてとライフスタイルは変わっても、付き合いは途絶えることなく、以前は子連れで海に行ったり、今も各家にお泊りしたりだが、5人一緒での海外旅行は初めて。
しかも全員ハワイは未経験。

思うに、私の世代では、若い頃は1ドルが360円。
海外旅行は夢、中でハワイは‘憧れの’がついた時代だった。
一方で当時ハワイといえば、キャバレーの名前だったり、ウクレレ弾いてのムード歌謡、プレスリーの「ブルーハワイ」、そしてあの常磐ハワイアンセンターという健康ランドっぽいイメージがあったりで、ハワイについて何も知らないのに、日本でのイメージだけで興味を無くしていたのだ。
しかし、いつのまにか時代が変わって、1ドル120円前後、身近なハワイ。
旅番組などで見る現地人の民族舞踊としてのフラダンスは、力強く敬虔な雰囲気があった。
これは‘日本のなよなよとしたフラ関連’とはずいぶん違うではないか。と思った。

ちょっと前に映画『フラガール』を見て、常磐ハワイアンセンター誕生には、炭鉱の町興しの命運がかかっていたと知って驚いた。
テーマパークなってかけらもなかった時代に、しかも北の炭鉱の町にハワイアンセンター設立という発想はすごい!と今なら思う。
ま、そんなこんなで、もしかしたら、みんなが言うように、いいところなのかもしれないと期待しつつ行った。

滞在フリーのパックツアーは満杯だった。
若い女の子のグループが多く、意外やおばちゃんが少ない。
海外旅行しているおばちゃんたちはとっくにハワイは体験済みで、
韓流ブームの今、「おばちゃんはみな韓国へ行ってんねんで」、という見解に達した。

日程もないので、オアフ島ホノルル周辺だけの観光。
着いて翌日、おのぼりさんコースの半日リムジン観光することになったが、
朝から激しい雨で、どこへ連れて行かれても窓から雨を見ているだけ。
雨足が和らいで、唯一垣間見えた観光名所が、故 石原裕次郎邸とは‥‥。
ワイキキビーチはちょっと見ただけ。「ビーチボーイがいてへんがな」と友人。
ハナウマベイに泳ぎに行くが、皆かってよく泳いだ若狭湾ほどは乗り切らず。
最終日は自転車をレンタル。
料金1日設定のところ半日レンタルだからと、大阪のおばちゃんやから当然値切りまんがな。
日本語を操る怪しげな白人の経営者に、「次はママチャリ用意しといてな」と友人。

ワイキキ通りは日本人で溢れ、どこでも日本語が通じるので、海外に来たという緊張感がまるでなかった。
多かった女の子たちの目的は、ブランド物のショッピングだったらしい。
ブランドだからという理由で、皆と同じものをどうしてほしがるのかな、彼女たちはと、ファッションは個性の1つの表れと思っている私には、分からない。
そう、有名になった大阪のおばちゃんのど派手なファッションも、個性の表れではある、――とおもう。

ハワイのよさはオアフ以外の島にいかなきゃ、という通の言葉を体験する時間とお金がなくて、さわりだけのハワイ旅行。
そのよさはやはり分からなかったが、時間をかけて他の島を回ってみたいとは思う。
しかし「友人と一緒の旅行は友情の墓場」といわれる言葉は、無敵のおばちゃん5人には通用せず、久しぶりにメンツが揃って、1年分ぐらい笑いだめした感があった。
ハワイの印象が薄れるのも無理ないか。




羽田 羽田の祭り

2007-07-01 10:47:39 | Weblog


7月最後の土・日曜日に行なわれる羽田神社の夏季大祭、通称「羽田まつり」は
みこしの担ぎ手だけで3千人を超すにぎやかなお祭り。
日曜午後から行なわれる町内神輿連合渡御は、12町会12基の神輿が練り歩く。

毎年この祭りを写真仲間と一緒にモノクロで撮っている。
祭りそのものにはあまり興味はないのだが、
祭りの日の街や人は、羽田ならではのおもしろさで活気づいている。

祭りのみこしは、通称「ヨコタ」という担ぎ方で、
みこしを左右90度に傾け、ローリングしながら進む。
右の担ぎ手が跳ね上がると左の担ぎ手がしゃがむ。これを交互に繰り返す。
ダイナミックで荒っぽくてエネルギッシュな担ぎ方だ。
舟の上のみこしが波に揺れるさまからきているということで、
これはかって羽田が漁師町だったことに由来する。

今は羽田といえば空港。この祭りに行くまで漁師町だと知らなかった。
かって優良な漁場であった羽田浦周辺は、昭和30年から始まる東京湾の埋め立てと航路づくりのため、昭和37年に漁業権の放棄を余技なくされたという歴史があったのだ。

始めてここに写真を取りに来たのは、プリント教室の一環でだ。
教えてもらっていた人がここの祭りに関わっていたからだが、
集まっている人たちやみこしを担いでいる人たちを見て、
「お、すごい迫力」と、毎年訪れるようになった。

祭りとあって、男性はいきいきとしている。
各町内おそろいのカラフルなハッピ姿の女の子たちもみこしを担ぐ。
そこに混じっておばちゃんも。
真摯に担ぐ感動的な顔。
サングラスかけてこわもての男性、取るとめちゃめちゃ人のよさげな目。
あやしい面相。
背中一面クリカラモンモンの人が通りを歩いていることもあった。
もう、被写体だらけ。
「これはおおっぴらに人が撮れる!」。
カメラを向けても誰も何も言わない。むしろVサインに困るぐらいだ。

パレード前には各町内で担ぎ手が集まって飲食しているところへ案内され、ごちそうにあずかった。
みんな気さくな人たちばかり。
東京の下町といっても、浅草や深川、柳橋などとはまたちょっと雰囲気が違う。
育った大阪と似てると、地元の人に言うが、皆一様にノーコメントだったなあ。

2年前、この祭りの写真3人展を目黒のギャラリーで行なった。
そのあと、太田区役所と羽田公民館での展示依頼を受けて地元でも。
羽田の人たちが喜んでくれたことが、何よりうれしかった。
祭りそのものの写真が少なくて、期待とは少し違ったかもしれないが、
「みこし担いでるのはうちの息子の友達で」「この笛を吹いてる子はすぐ近所」と、
被写体となった人に写真を渡せたこともうれしかった。
今年からは宵宮風景に挑戦。