My Tokyo Sight Seeing

小坂やよい

青葉台 團十郎邸 その2

2007-06-24 09:19:31 | Weblog

團十郎邸は都内でもとびきり閑静な住宅地にあった。
玄関脇の日本間に通されて待つこと数分で、稽古場に案内された。
取材はここで行なうとのこと。

稽古場から見通せる庭に目をやっていたとき、
「ここは十一代目が建てた家で」と支配人が言った。
ということは、ここは宮尾登美子が小説『析の音』で描いた、海老蔵の祖父十一代目團十郎が住んでいたということ!
『析の音』は、市川家に奉公に上がった女性が、不出世の名優とうたわれた十一代目に仕えるようになって、その後、妻となった実話をモデルに書かれている。
熱中して読んだその本の舞台の一端がこの家かと、歴史的建造物を見る目になる。

ほどなく、白のTシャツ姿の海老蔵が現れた。
挨拶を終えると、すかさず支配人が海老蔵に「〇〇会の方に入ってられる方で」と、小さな声で私を紹介する。
言葉はないが、ほんの一瞬、「あ、そう」といったようなリアクションが。
私の入っている会は團十郎親子を応援する会で、海老蔵個人のファンクラブとはまた趣きが異なる。
といって、それがこの場合どう作用するのか‥‥。

そして、取材は始まった。
まず、レジメ通り、5月の海老蔵襲名披露公演で感じたことを聞く。
「多すぎて分かんない」。
え?、それだけ。まいったなー。
それでも何かあるのではと、粘る。
「いっぱいあったからねー」。
本題である信長公演についても、
「まだ台本できてないから」。
これが、海老蔵は取材で話さないと言われていることかな、と予想していたとはいえ、
私の中で一気に緊張が増してしまった。
それでもめげてはいられない。

実をいうと私は、能は好きなのだが、歌舞伎は海老蔵ファンになってからなので、詳しいとはいえない。
海老蔵に関する本や演劇評、歌舞伎の本、ビデオなどをさかのぼって漁ってはいたが、じっくり頭に入っているとも言い難い。
取材中に固有名詞や役名など、ちょくちょく間違った。
「微妙に間違うよね」と海老蔵につっこみを入れられる。

しかし、心もとない取材ではあったが、中盤あたりから、彼の持つ信長像を、テレビで演じた武蔵観を、邦楽教育をと、話しだすようになった。
世界に通用する逸材ゆえ、日本の伝統文化の、海老蔵という歌舞伎役者のすばらしさを外国に知らしめてほしいと思っている私の思いに、
「分かってる。負けないって」。
このときはうれしかった。
冒頭で「多すぎて分かんない」と答えた質問にも、「だからこうこう、こういう訳で感じることがいっぱいあって」と、最後のほうでちゃんと説明してくれた。
「ファンになっている」とプランナーに言われながらの取材制限時間がきて、終了したとき、
「今日はよく話しましたよ」と、支配人が私たちのそばに来て言った。

海老蔵は歌舞伎界の市川宗家という恵まれた環境にあっても、すんなりと歌舞伎役者になったわけではない。
多感な思春期には進路について悩み、紆余曲折もあったようだ。
本気で歌舞伎役者を志してからの飛躍は、DNAだけではけっしてないと思う。
よくいわれているのが、鋭い感受性、研究熱心で繊細にして大胆な役作り。
何より、あの目力はハンパじゃない。
「‘歌舞伎界のプリンス’なんてヤワな形容詞はこの人には似つかわしくない」と書いた原稿の部分は、‘歌舞伎界のプリンス’、‘歌舞伎界のプリンス’と言っていたプランナーによって、削られた。




青葉台 市川團十郎邸 その1

2007-06-17 12:42:04 | Weblog

百年に一人の歌舞伎役者といわれる市川海老蔵のファン。
十一代目海老蔵を襲名した年、私に海老蔵取材の仕事が舞い込んだ。
「こんなことってあるのー!」。

取材日まで幾日もなかった。
海老蔵の取材は難しい、という風評があったらしく、
制作会社が歌舞伎に詳しいライターを急ぎ探していた。
後援会に入るほどの海老蔵ファンであることを、周りに触れ回っていたので、
デザイナーの友人が「誰かいませんか」と聞かれて、私を押してくれたのだ。

「受けます、大丈夫です、その日空いてます」と返事した翌日が取材日前日。
制作会社に行き、制作会社担当者、デザイナー、プランナーと打ち合わせ。
プランナーが構成見取り図を説明する。
最後の最後に言われたのは、
「最悪、話をしてくれないようなら、一問一答形式でもいいですから」と。

「海老蔵は取材で話さない」という評判が立っていたようだ。
それは推察できた。
というのは、以前大阪公演の幕後、團十郎、新之助(当時)親子を囲んで、
後援会との食事会に出席したことがあって、そのときの感じからなんとなく。
お父さんは終始にこやかに各テーブル挨拶に回っていたが、
海老蔵は遅れてやってきて、だんまり、固い表情で、早々に引き上げてしまった。

芸能人の取材はけっこう大変である。
いくら宣伝のためとはいえ、取材者は違えども同じことを聞かれたりして、
うんざりしているので、取材対象者がサービス精神旺盛な人柄か、
質問がツボにはまるかしないと、あまり積極的に喋ってくれない。
取材者の技術によるところも大いにあるのだろうが‥‥。

当日、團十郎邸近くのファミレスに関係者が集まった。
クライアントの企業側担当者、請負親会社から2人、子会社のプランナーとその上司、
海老蔵側の窓口として松竹から劇場支配人、私で計7人。
これにカメラマンと助手、制作側を入れるとなんと11人が、この仕事に加わっている勘定。
普段、カメラマンと編集者と3人で仕事、多くてクライアントがはいって4人という形態しかしらないので、
この人数だけでもプレッシャーがかかる。

クライアントから一番下の私のところまでの間に、横に漏れていくお金の多いこと!
ま、丸投げでこのようにして仕事は動いているという、見本か。
でも、海老蔵取材だからギャラなしでもいいところ。

その席でも、劇場支配人が「話さないんですよねー」と言った。
受けた当初は驚きいっぱいだけだったのが、このころには不安が増していて、
この一言がだめ押しみたく、ワァーと広がる。
でも、もう後に引けない。
で、團十郎邸へ向かう時間となった。 




国立 ロージナ茶房

2007-06-10 15:05:19 | Weblog


国立は不思議な魅力を持つ街だ。
駅南口、大正15年に建てられた赤い三角屋根の駅舎と、
その前から続く大学通りが、街の顔ともいえる。
大学通りは50mぐらいの超幅広の道路。両脇は見事な桜並木。
その道路を中心に放射線状に道が作られていて、閑静な住宅地が控える。
画廊と喫茶店が多く、教育熱心な住民が多く、
教育費にお金がかかるから出前を取ることが少なくて、すし屋はすぐに潰れるとも聞いた。

関東大震災で校舎を焼失した東京商科大学(一橋大学)が、移転地探しを小平学園都市を作った箱根土地(株)に申し入れたことから、開発が始まった。
その後、国立音楽大学や桐朋学園などが次々に移転、学園都市に。
大正末期に理想的な郊外都市の建設を目指して作られたというベースは、
街が発展して店舗が軒を連ねるようになっても、すっきりと整って、落ち着きのある街を可能にした。

その国立で昭和28年から営業しているロージナ茶房。
国立公民館ができるまでは公民館代わりに人が集まり、学生がゼミの教室代わりに使い、フロアのピアノを音大の先生や生徒が弾きと、サロン的役割を果たした歴史ある店だという。
店内は当時とさほど変わっていないのではないかと思われるほど、
今となっては店の全てが古めかしいのだが、けっこう客が入っている。
カフェ全盛の昨今、他の街なら、置いてきぼりをくった喫茶店になりかねない。
画家だったオーナーは、「店は客が作るもの。客が店に埋没しない、誰にとっても場違いでない店です」と以前に話していて、なるほどなと思ったことがある。
だが、客ではなくて店が埋没しそうな今の時代に、こういう店が健在であるということが、いかにも国立らしい。

店がある場所は、国立ではめずらしく路地のような趣きがあって、
一画は個性的なショップが立ち並ぶ。
ロージナ茶房の隣は、これまた昭和30年代オープン当事のままだという喫茶店「邪宗門」。
営業してるのかしてないのか分からないような外観で、扉を開けて入るのは少し勇気がいりそうだが、
薄暗い店内には船ランプや火縄銃、柱時計などの骨董品がぎっしり。
オーナーは元船乗りでマジシャンというユニークさ。
いずれもかって国立での喫茶文化を支えてきた店だ。



西荻窪 沖縄料理うんじゃみ

2007-06-03 16:56:02 | Weblog
沖縄と沖縄料理と沖縄音楽が好き。
ソーキそば、ゴーヤチャンプル、海ぶどう、島ラッキョウ、島バナナ、
数え挙げればきりがない。
ここ‘うんじゃみ’は、駅から1分、よく利用する。
田芋のコロッケでオリオンビール、最高です。

初めて沖縄にいったのが、八重山諸島の石垣島。
以来、一度は住んで見たい場所になった。
別にダイビングするわけでなくて、せいぜいシュノーケル。
リゾートやアウトドアよりは、知らない街をブラブラする方が好きなのだが。

旅行した街なり国がなりが好きになるのは、そこで何らかの感動を受けるからだと思う。
感動といっても大げさなものではなくて、ごく日常的なありふれた光景から。
私の場合、それは人に尽きる。

旅行して好きになった筆頭はアイルランド。親切でフレンドリーな人が多いのに驚いた。
列車に乗ると、隣り合わせた見知らぬ同士が気軽におしゃべりしている。
道路で地図を広げていると、「道に迷ったの?」と声をかけてくれる。
住宅地で道に迷って、車から出てきた女性に尋ねると、「駅から歩いてきたのか」と聞いた後、
‘それは大変だったわね’という表情で、目的地まで車で送ってくれたことがあった。
ホテルの予約を取るために、駅からインフォメーション・センターまでタクシーに乗ったら、
予約後ホテルまで乗せてあげるからと、メーター倒して待っていてくれたことも。

ダブリンの街中で、赤ん坊を抱いたジプシーの物乞いに、親しげに話しかける地元の人を見かけたり、
募金集めに立っている人に、男の子を連れた母親らしき人が、小銭が詰まった缶を差し出していたり、
それらが、日常的で自然な行為に見えたことに感動。
海外では治安上用心しなければならないことは多いが、
多分どこの国でも人々は、要注意人物と同じぐらい、親切な人も多いわけで。

東京では、シャイな日本人気質のせいなのか、おせっかいを嫌がるからなのか知らないが、
袖触れ合う程度の他人同士が気安く話をするという場面に、あまり遭遇したことがない。
大都会だからなのか、東京は人と人との距離が遠いように感じる。

その東京から沖縄に行くと、人懐っこい笑顔や話し方の沖縄の人たちに接して、
なんか気持がトロンとくつろぐ。
これを南国特有ののんびりした雰囲気というのかはともかく、
フレンドリーって、とっても感動的なことだと思う。