My Tokyo Sight Seeing

小坂やよい

広尾 ぼちぼち

2007-03-25 20:47:29 | Weblog


ここは、週刊誌が「東京・天現寺で繰り広げられるお好み焼き戦争」として紹介していた7店のうちのひとつ。
東京でお好み焼きの激戦区?と信じられなかった。
たこ焼きやお好み焼きの大阪名物が、東京でも認知されてきた今日この頃ではある。
しかし大阪出身者としては、貪欲に探せばあるのだろうが、今まで東京でおいしいお好み焼きに出会ったことがなかった。
東京でよく見かける大阪本店の「ぼてじゅう」。
ここのは本体が固くて(小麦粉が多過ぎ)、
あれが大阪のお好み焼きと思われるのは心外だ。

大阪は一坪の空地があると、緑を植える代わりに、お好み焼き屋やたこ焼き屋ができると言われる土地柄である。
しかも、大阪人はうるさい!、味と値段に。
で、まずは行ってみる。
7店のうちからここを選んだのは店名からで、
おまけに店の外には「やいてまっせ」の立看。
シビレルなー。

四国を舞台にして、女子高生ボート部を描いた映画「がんばっていきまっしょい」で、
女子高生たちが学校帰りにうどん屋に入るシーンがある。
そのさりげなさが、なるほど、四国ではやっぱり‘さぬきうどん’かと納得がいった。
マクドナルドなんてまだなかったころ、
大阪で女子高生が学校帰りに寄るのがお好み焼き屋だったからだ。
でも私が通っていた女子校は、思いっきり厳しい校則のミッションスクールで、寄り道は厳禁だった。
それでも学校から2駅離れた繁華街に寄り道して、よくお好み焼きを食べた。
ある日、学校から一直線の距離わずか約300mのお好み焼き屋で鉄板を囲んでいた。
大阪ならどこの街にもある、おばちゃんが一人でやっている小さなお好み焼き屋。
そこの引き戸がガラッと開いて、同級生が「センセイ、来るで」と言ってくれた。
女子校には先生にチクルご忠臣女子もいたが、校則違反組にシンパシーという女子もいたのだ。
「どないしょ」と一同浮き足だったとき、
間髪を入れずにお好み焼き屋のおばちゃんが一言。
「裏から逃げ」。

さて、ここの味だが、私の中でベストのお好み焼きぐらいにおいしかった。
これぞ本場の味、いや大阪でもそうそうないかもしれない。
甘さを感じるけど甘ったるくない抜群の特製ソースや、小麦粉を溶くだし汁などは大阪からの取り寄せ、
キャベツは普通みじん切りだが、ここは千切りとミックスさせていると(そのためうま味が増している)、
広尾は開店6年目だとかで、都内にチェーン店17店舗、俳優伊原剛志がオーナーでと、
友人と二人、大阪弁で話していたためか、九州出身の店長と大阪出身の店員が次々と話してくれた。
お好み焼きとは関係ないけど、ガールフレンドが私と同じく上記の女子高出身だったとか、
店側と客のこの気さくなやりとり、これこそが大阪の味といえる。






南青山 岡本太郎記念館

2007-03-18 10:19:48 | Weblog


ここは岡本太郎が1996年84歳で亡くなるまでのアトリエ兼住居だ。
1953年から暮らしてしていたという。
随分いい場所に住んでたんだなと思うが、
岡本一平・かの子・太郎が戦前から暮らしていた地というから、
南青山といっても当時は普通の住宅地だったのだろう。

現代アートに疎くとも岡本太郎はよく知っていた。
名前だけ、顔だけは。
あの日本万国博覧会で太陽の塔を創ったへんな人として。

「人類の進歩と調和」がテーマの日本万国博覧会は、1970年大阪・千里で、
高度経済成長真っ只中の日本での一大国家イべント、だったらしい。
当時、地元大阪での開催だから何度か訪れたが、いったい何を見てたのだろう。
♪コンニチハ、コンニチハ♪と三波春男が声高に歌っていた万博音頭同様(まさかあれがテーマソングだった?)、外国人がやたら多いお祭りみたいな印象しかない。
それでも大阪万博といえば、真っ先に浮かぶのが岡本太郎の太陽の塔だが、
へんなもん作ってんな、という感じしかなかった、そのときは。

太陽の塔の内部は、「生命の樹」というパビリオンになっていたことも知らなかった。
内壁は真っ赤なウロコ状で、そこに生物進化の過程を表す大小299体の模型がちりばめられ、電子制御装置によって精巧に作動していたという。
模型制作は円谷プロダクション、音楽は黛敏郎が担当したと記載されている。
写真で見る限り、あっけらかんとしたオブジェの外側とは大違いの、神秘のジャングルのような迫力だ。
37年の時の風化を経てもいっこうに古くなっていない。
むしろテーマの‘進歩’のみ目立った万博当時より、‘調和‘の必要性が求められている今の方がマッチしているかもしれない。

太陽の塔は今も残っているが、内部は封印されてしまった。
ところが、2003年、33年振りに一般公開された。
多くの展示物は撤去されてしまったが、恐竜や三葉虫など一部がそのまま残っており、
動いていないエレベーターやエスカレーターもそのままだったという。
まるで廃墟のようではではなかったろうか。
万博当時にリアルタイムで見なかったのが残念だが、封印が解かれた生命の樹の趣も格別に違いない。

で、ここ記念館に入って、二階の壁一面に張られた岡本太郎の顔写真の目に驚いた。
異様に鋭いというか、突き抜けたというか
狂気を秘めたというか、哀しげというか、
心ここにあらずのようで、本質を見据えているようなというか、
何より岡本太郎の目が爆発している。





新宿3丁目 新宿バルト9

2007-03-11 09:37:23 | Weblog

新宿東映映画館跡地に建てられたビルにマルイシティ1が入っているが、その9階から13階は、2月9日にオープンしたシネコン。
最多433席から最少70席まで、なんと9シアターが入っている。
全館デジタル映写機導入という最新の設備だ。

オープニングを飾る上映のひとつが「ドリームガールズ」。
60年代に活躍した女性ボーカルグループ・シュープリームスを題材にしたミュージカルの映画化で、圧倒的熱演と評判のジェニファー・ハドソンが、先ごろアカデミー女優助演賞を獲得した。

で、水曜日のレディズ1000円サービス・ディに行くと、レディズは実施されてなかった。
代わりに、平日午後3時から6時までの間に開始される特定作品に限り1200円という。
200円という微妙な上げ幅と時間の条件に感心しながら切符を買う。
全席指定なので上映時間近くになると、チケットコーナーに列ができていた。

9階ロビー・チケットコーナーは10階まで吹き抜けで、らせん階段の先にバルコニーが設置されている。
これがちょっとレトロな感じの、趣きのある空間なのだが、初日舞台挨拶やライブイヴェント用らしい。

この日早めに来たので上映時間までちょっと間があった。
でもせっかちな私はとっとと13階の劇場に行く。
と、パウダールームや喫煙室はあれども、どこにもイスがない。
まるでホテルの客室通路のようだ。
仕方がないから、10階にあったカフェに入る。
劇場側としてはカフェに入れということなんだろうが、別にコーヒー飲みたくない。でも座れる場所はここだけだ。
しかし、細かいことを言うようだが、
カフェのジャイアントポップコーン150円なのにコーヒー400円は矛盾してない?。
何かと深遠配慮の劇場側。

映画はというと、危惧した通り、ミュージカル仕立てだった。
ミュージカルの映画化だから当たり前なのだが、音楽映画は好きだが、ミュージカルが私はいまいち入り込めない。
R&B音楽が、シュープリームスが大好きで、映画評も絶賛だし、今回はちょっと違うかなと期待があった。
冒頭部分やステージの場面はすごくわくわくさせられるのだが、ストーリーが入り出して、状況や心境を歌い上げるパターンになると、私の中でテンションが下がる。
やはりシュープリームスのヒット曲をちりばめて、前編R&Bのリズムでと思う方が無理なのかも。
そう思わなければ十分に楽しめる映画だろう。

映画ではシュープリームスの、ポップスを取り込んだ音楽やソフィケイトされた歌い方が、白人の間で受け入れられていく過程が、大雑把ながらも描かれている。
それまで白人と黒人では放送局も違って、音楽のジャンルも違った時代、個人的嗜好では、そこらあたりにもう少し軸を置いて、スパイスを効かせてほしかったが、そうなるとモータウン・レコード物語になってしまうか。
ジェニファー・ハドソンは主演女優賞ではなかったの、と思えるくらい主役を食っていた。熱演が過ぎて、ちょっと肩と声に力が入り過ぎ。
ダイアナ・ロスを演じた主役ビヨンセ・ノウルズが、ダイアナ・ロスのあの迫力とアクの強さには及ばないけど好演だった。他にエディ・マーフィーも。

座席はすこぶる快適で、劇場内での飲食もOKだ。
でもこの映画を上映していたシアター9は、座席の中央部分が通路なしで、切れ目なく長く、長く続いている。
これは通路側に座らないと、本編が終了してもエンドロールが終わるまで出られそうにない。
いつも早々と出てしまうせっかちな私としては、今後、通路側席獲得が必須の劇場だ。












六本木 アマンド

2007-03-04 07:49:47 | Weblog

大阪育ちの私が初めて東京に来たのは、大阪、京都、神戸がせいぜいの守備範囲だった青春時代。
そのとき、東京に住む遊び人のいとこが、「新宿なんか怖いよ」と言って、連れて行ってくれたのが、原宿、青山、六本木だった。
そう、東京シティ御三家。

70年代初めころのこれらの街は、今のようにごったがえしていなくて、静かで落ち着いた雰囲気だった。
そして、気配としておしゃれでスノッブな若者が集まる個性的な街という、大阪にはなかったオーラを発していた。
これは地方育ちの青春真っ只中の人間には、マジックのようだった。
別に東京に憧れていたわけでもなかったし、今のように東京案内の本やテレビが多かった時代でもなかったから、知っていたのは原宿ぐらいで、ただなんとなく遊びに来ただけだったのだが。

で、六本木でお茶したのがここ「アマンド」。
地下鉄六本木駅から地上に出てすぐの、六本木交差点角。
六本木は今のように満艦飾の街ではなかったから、ピンク塗りのアマンドはけっこう目立って、
明け方まで営業しているということに、「かっこいい」と思って、
当時よくあった暗い喫茶店でなくて、明るいパーラー風カフェが新鮮で、と。

今なら、なんや不二家のペコちゃんパーラーと似たようなもんや、と思う。
えらい分かりやすいところに連れて行ってくれてんなと。

以来始まった「東京の方がええ」病は、
夫との結婚で東京暮らしが実現するのだが、
大阪を離れるとき、両親に「ほんなら」とあっさり言って、迎えに来た夫の車が動き出した瞬間に、涙が溢れ出して止まらなかった。自分でも以外だった。
夫は少し走って車を止めた。
でも、もう走り出すしかなかった。

そのときから、「大阪の方がええ」病が始まった。
しかし、大阪での歳月より長くなった東京暮らし。
これで大阪に再び住んだら、「東京の方がええ」病が再発するのかな。