東京に来て最初に住んだのがここ吉祥寺北町3丁目。
閑静な住宅地に立つ洋館での借家住まいだった。
大家さんのお父さんが、近くにある成蹊大学の総長が昔に(不確か)、アメリカのプレハブ住宅を船で送らせたものを譲り受けたとかで(不確か)、
日本のプレハブから描くイメージとは全く違う大きな本格的な洋館だった。
やはりその昔成蹊大が500坪単位で売ったという大家さんの敷地は1000坪。
木立に囲まれたあちこちにこの洋館を含めて3軒の住居と、
趣味で集めたクラッシックカーが収まった広大なガレージが建っていた。
庭に放り出されていたガタガタのオースチンには犬が寝泊りしていた。
結婚して、夫が住んでいた所がそのまま新居になったのだが、
新居とはほど遠く、この洋館をまるごと借りれるほどリッチな生活ではむろんなかった。
大家さんは洋館をあちこち封鎖して5所帯、屋根裏に1所帯、洋館横に作られた山小屋風に3所帯と、賃貸をしていたのだ。
猫は各家2匹までしか飼わないでくださいとのお達しで、総計12、3匹が常にウロウロ。
建物は空き待ちの借家希望者がいるほど、雰囲気があった。
外観は‥‥。
風呂なし、共同トイレ、古い、汚いと住み心地は最悪だったのだ。
それでも内部は木造の上下に移動する洋窓、高い天井、ロングサイズの木のドアなどどれも趣きがあって、美大出身者が代々借りていたとかで、武蔵野芸術村ともねこ屋敷とも呼ばれていたらしい。
私の友人は‘ゴキブリ館(ヤカタ)’と言っていたが。
成蹊大学横の長く続くけやき並木を辿っていったところに洋館があったので、
付近は緑に囲まれ市街地とは思えないほど最良の地域だった。
私が育った、大阪の下町の、緑はどこに、といった環境とは雲泥の差。
吉祥寺駅からバスで10分ほどのここまで来る道中は、どこにでも見られる街並みである。
この西の学習院ともいわれる成蹊大が、かって広大に領地を確保したおかげで、
周辺の住宅地はいわば東京でよく言われる山の手風ではあった。
洋館の住民以外は。
長男が幼稚園の頃までここでくらしたので、
少しは洋館以外のご近所と付き合いもあったのだが、
その間低調基音のようにあった私の中の違和感が何だったのかに気づいたのは
もっと後になってから。
東京の下町を知って、そこにしっくり馴染む自分を発見したときだった。