My Tokyo Sight Seeing

小坂やよい

吉祥寺 北町3丁目

2007-01-28 11:37:27 | Weblog



東京に来て最初に住んだのがここ吉祥寺北町3丁目。
閑静な住宅地に立つ洋館での借家住まいだった。
大家さんのお父さんが、近くにある成蹊大学の総長が昔に(不確か)、アメリカのプレハブ住宅を船で送らせたものを譲り受けたとかで(不確か)、
日本のプレハブから描くイメージとは全く違う大きな本格的な洋館だった。

やはりその昔成蹊大が500坪単位で売ったという大家さんの敷地は1000坪。
木立に囲まれたあちこちにこの洋館を含めて3軒の住居と、
趣味で集めたクラッシックカーが収まった広大なガレージが建っていた。
庭に放り出されていたガタガタのオースチンには犬が寝泊りしていた。

結婚して、夫が住んでいた所がそのまま新居になったのだが、
新居とはほど遠く、この洋館をまるごと借りれるほどリッチな生活ではむろんなかった。
大家さんは洋館をあちこち封鎖して5所帯、屋根裏に1所帯、洋館横に作られた山小屋風に3所帯と、賃貸をしていたのだ。
猫は各家2匹までしか飼わないでくださいとのお達しで、総計12、3匹が常にウロウロ。

建物は空き待ちの借家希望者がいるほど、雰囲気があった。
外観は‥‥。
風呂なし、共同トイレ、古い、汚いと住み心地は最悪だったのだ。
それでも内部は木造の上下に移動する洋窓、高い天井、ロングサイズの木のドアなどどれも趣きがあって、美大出身者が代々借りていたとかで、武蔵野芸術村ともねこ屋敷とも呼ばれていたらしい。
私の友人は‘ゴキブリ館(ヤカタ)’と言っていたが。

成蹊大学横の長く続くけやき並木を辿っていったところに洋館があったので、
付近は緑に囲まれ市街地とは思えないほど最良の地域だった。
私が育った、大阪の下町の、緑はどこに、といった環境とは雲泥の差。

吉祥寺駅からバスで10分ほどのここまで来る道中は、どこにでも見られる街並みである。
この西の学習院ともいわれる成蹊大が、かって広大に領地を確保したおかげで、
周辺の住宅地はいわば東京でよく言われる山の手風ではあった。
洋館の住民以外は。

長男が幼稚園の頃までここでくらしたので、
少しは洋館以外のご近所と付き合いもあったのだが、
その間低調基音のようにあった私の中の違和感が何だったのかに気づいたのは
もっと後になってから。
東京の下町を知って、そこにしっくり馴染む自分を発見したときだった。






久が原 昭和のくらし博物館

2007-01-21 08:03:33 | Weblog


ここは昭和26年に建てられた木造2階建ての住宅である。
建築技師だった小泉孝さんが妻と4人の娘たちとくらした家だ。
平成6年まで住まわれた後、昭和のくらしを伝えたいと、
家具調度品そのままで家一軒が博物館となった。
小泉家の娘さんたちとほぼ同世代の私には懐かしさの宝庫である。

住居は敷地50坪に、1階は玄関、4畳半の茶の間、台所、6畳の座敷。
2階は4畳半が2室の合計18坪。
この時期に建てられた住宅はほとんど残っていないという。
まだ新建材もアルミサッシもなかったころの建物は、
古くなるほどに趣のある佇まいをかもし出している。

ガラス戸を引いて小泉家の玄関に入る。
書斎兼応接コーナーの板の間を通って奥へ。
ちゃぶ台、火鉢、茶ダンスの上に大振りのラジオ、黒の電話機などが配置された茶の間は、
私が子どもの頃の我が家そのままだ!。

冬になると、父はいつもちゃぶ台横の火鉢にタバコの吸殻を捨てていた。
今思うと横着な親父だった。
うちに電話がついたのは、ちゃぶ台を使っていた頃よりもっと後になって。
電話を引くには、当時高額な電話債券、権利料が必要だった。
小泉家にあるのと同じ黒の重い電話機を、
新機種に変えると使い方が分からないと、亡くなるまで使っていた母。
ホントに頭の固い人だった。

茶の間の横が台所。
ここには圧巻ともいえるぐらい見覚えのある生活用具が並んでいる。
氷の冷蔵庫、都市ガスが最初に引かれたときの緑色のガスコンロ、皮ベルトがついたアルミ製の水筒等々。
ゴム製の氷枕や湯たんぽも展示されている。

私の足には幼児のときに湯たんぽでやけどをした跡がある。
それもかなり大きく2ヵ所。
湯たんぽを少し厚めの布で包んで紐で結んでいた母。
私の寝相が悪いとはいえ、
もう少し湯たんぽ管理の工夫をしてくれてもよかったのではないかしら。

そんなこんなで郷愁は絶えない。

ここを訪れた後には小津安二郎監督の映画を見たくなる。
この住居と同時代の庶民のくらしや感情のひだを、
つつましく、凛とした日本人を、
小津ならではの密度で描いた名作の数々。
高度経済成長路線を率先して日本を変えてしまった政党が、
今頃になって唱えている‘美しい日本’だった時代‥‥。
でも昭和30年代をテーマパークのように再現した映画『オールウェイズ 3丁目の夕日』
の方がいいなんて、言わないで下さいね。






浅草 花やしき

2007-01-14 00:29:39 | Weblog


「花やしき」へ行くには、観光客で賑わう浅草寺を抜けて、
その裏手、浅草公園横の通りを行く。
観光客相手の露店が立ち並ぶ道路は、
途中から、もつ煮込みやおでんなどの屋台風一杯飲み屋が多くなり、
それまでの雰囲気が一変する。

そこから少しの所に場外馬券売り場(今はサービスステーションというらしい)がある。
だから、観光客からオヤジ相手へと、客層に合った店舗展開で当然のことなのだが、
初めて来たとき、東京にもこういう濃密な所があるなんてと、
大阪のジャンジャン横丁に似ているのではと、
意外な発見をしたようで、うれしい気分だった。

その目と鼻の先に「花やしき」の遊園地がある。
冬の寒い日に訪れたせいか、
外から見ただけでは、下町にあるさびれた小さな遊園地、といった感じだった。
私はさびれた小さな遊園地というのが大好きなので、
そのときは周辺の雰囲気と共に、強烈な印象となって残った。

新春の5日、写真を撮るために今回は「花やしき」に入園する。
人もまばらだろうと思っていたのに、満杯の入場者でごったがえしていた。
誰もが東京ディズニーランドに行くというわけではないようだ。

園内は、タワー、絶叫マシン、ローラーコースターなどが狭い敷地にひしめき合い、
遊園地アイテムを目いっぱい一ヵ所に集積させたような光景。
全然さびれてなんかいない。

東京育ちでない私には、なぜ場外馬券売り場のすぐ横に遊園地がと思っていたが、
ここは1853年開園、江戸時代から続く元祖テーマパークだったのだ。
開園者は植木屋・森田六三郎。
町人による本格的な庭園が次々とオープンした時期だったとかで、
当時は四季折々様々な草花が咲き乱れていたらしい。
さぞや風雅な日本庭園だっただろうと思われる。
今もその伝統が受け継がれているのか、
ほんまもん?と一瞬疑う洋風の鉢植えがやたら並んでいたりする。
池にはプラで作った電飾の桜が2本植わっていた。

私の興味を引いたアトラクションが、「見世物小屋」。
「娘軽業乙女座」「空中曲芸団」「猛獣サーカス団」と書かれたのぼりが、
色あせて、端っこが破けたりしてるのがいい。
軽業、乙女、曲芸なんて今や死語になっている言葉が新鮮。
中に入ってみると、
小ぶりのウインドゥの中で、ろくろ首の妖艶娘や、インド人のヘビ使いなどレトロなキャラものが、
客を察知すると動く仕掛けになっていた。

最新の3D音響システムで視覚と聴覚を、の時代に(それらを使ったアトラクションもあるが)、
あえて存続させているかのような「見世物小屋」。
「花やしき」は、かってジオラマや活動写真の設置、日本で初めてのライオンの赤ちゃん誕生など、
時代の先取と共に歩んできた。
その老舗の意気を見せている「見世物小屋」のようにも思えた。











東銀座 歌舞伎座

2007-01-10 10:31:48 | Weblog

数年前より突然歌舞伎を観劇するようになった。
ただし市川海老蔵が出演しているときだけ。
海老蔵襲名前の新之助時代にファンとなり、
以来ミーハーをやっている。

歌舞伎観劇は他の芝居や映画鑑賞と違ってお金と時間がかかる。
3階などの低価格席もあるが、一等席14700円、桟敷席なら16800円。
昼の部は11時から3時頃まで、夜の部は4時半から8時半位まで。
で、ウィークディは圧倒的に熟年や超熟年層の女性客が目立つ。
2600人収容の劇場はいつも満杯で、観客席はすごい迫力だ。

途中で30分間の食事タイムが設けられている。
座席でお弁当を食べてもかまわないが、建物内の日本料理・吉兆、食堂、おでん処、芝居茶屋などの飲食店で食事をする人も多い。
歌舞伎座ならではの趣向だろう。

隣席の一人で来ていた年配の女性が、
私の憧れ・吉兆の幕の内弁当を広げていたことがあった。
経済的にといつも外で買った弁当持込の私は、
そのゴージャスな振る舞いに感心してしまった。

かなり、かなり年配の女性は、
その日3つある演目の最後は海老蔵が出演しないからなのか、
その直前の休憩時間後、客席に戻ってこなかった。

やはりかなり、かなり年配の女性なので、
海老蔵のお父さんの團十郎がご贔屓なのかなと思っていると、
海老蔵が出てくるや、オペラグラスを取り出した。

心強い先輩たち。

いつも一等前の中心席を陣取る女性2人組がいる。
60歳代と40歳前ぐらいかの、親子連れにしては似ていない二人。
派手なふうでなく、ごく普通の感じだ。
「信長」公演のとき、私は彼女たちの後ろの席だった。
四国、金毘羅の金丸座でも後ろの席に。

気になっていたので、ある公演のとき声をかけてみた。

聞けば、私と同じく歌舞伎を見るようになったのは海老蔵からだと。
「信長は15回見ました。今回の公演は7回しかチケット取ってないんですよ、この間のイギリス公演に行ったから‥‥」。

14700円×15×2!!!。
イギリス公演!!。
当然その前のパリ襲名披露公演だって行っているはず!。
いやはや、すごい追っかけがいるもんで、
いったい何を生業としている方たちなのか、
私は海老蔵よりそっちの方に俄然興味が湧いてしまった。

「歌舞伎にそんなに何回も来れるて、何のお仕事してはるの」と、
大阪のおばちゃんなら初対面であってもきっと聞くだろうことを、
さすがに、ここは東京、私は必死にこらえた。
以来、密かにこの2人組を歌舞伎座の怪人と呼んでいる。