さて、こちらの車両は撮影当時クモハ60151とコンビを組んでいたクハ55806 (天オト) です。クモハ60151が大阪都市圏をずっと離れることがなかったのに対し、本車は関東から流れてきた、対照的な経歴を歩んだ車両でした。終戦後、連合軍専用車指定を受け、指定解除後はクロハとして残りました。長がく2,3等仕切りが残ったためその部分のベンチレーターがない特徴のある外観で、長く戦後の記憶を留めた車両になりました。2,3等仕切り撤去後も、旧2等部分のロングシートの幅は広く、座り心地も違ったようです。
同僚の55800代共々、1966年前後に阪和線に残っていた阪和型淘汰のため鳳電車区に移り、そのまま廃車まで阪和線で活躍しました。
なお、本車はなぜか他車とは異なり、阪和線移動後も、助士席側の窓がHゴム化された一方で、運転席側の窓が最後まで原型のままでした。通常は片方だけHゴム化されている場合は、運転席側をHゴム化するのが通例ですが... 写真を見ると運転席上のベンチレーターが他車とは異なり、飯田線車両のように、潰されているのが分かりますので、それと関連があるのかもしれません。
では例によって本車の車歴を紹介します。
1938.10.18 川崎車輌製造 (クハ55053) 東鉄配属 → ... → 1946.1.10前後 連合軍専用車(AFL)指定 → (1947.3.1 東モセ在籍) → 1952.3 京浜東北線2等車併結開始、通常クロハとして使用開始 → 1953.2.28 更新修繕I (大井工 クロスシート化) →1953.6.1改番 (クロハ55806) → (1954.9.1 東カマ在籍) → 1955.12.27 更新修繕II (大宮工 ロングシート化) → 1956.10 東ミツ → 1957.6 (2等車併結廃止 クハ格下) → 1959.2 東カマ → 1965.1.27 東ヒナ →1965.12.11 天オト(旧2,3等仕切撤去) → 1977.6.14 廃車
関東での経歴が長い本車ですが、川崎車輌製造ということですので、元々は関西生まれということになります。この点、僚機のクモハ60151が関西を離れなかったのにもかかわらず、生まれは東京 (汽車会社東京支店) だったのと対照的です。東鉄に配属になっていますが、おそらく電車区を移ることがあっても、ずっと京浜東北線にいたのではないでしょうか。下十条から蒲田への移動時期は、更新修繕Iの時の可能性が高いです。1950年代の東京圏の配置車両の移動状況を見ると、半分ぐらいごそっと入れ替わっていることがあります。おそらく更新修繕等で長期入場する必要がある場合は、新製車の投入や他区からの転属車をまず回して、それで捻出した車両を修繕に回し、修繕終了後は元に復帰せず他区に移動することが多かったようですので。
そして、1956-59年の間一時的に中央線に移ります。1957.6に京浜東北・中央線の2等車併結が廃止になりますが、おそらくその後も中央線で「老幼専用車」として使われたのではないでしょうか。そして中央線における「老幼専用車」廃止(1958.11)後、再び古巣に復帰します。京浜東北線では1961.11まで「老幼専用車」が残ったらしいので、そのためだと推測されます。そういえば、京浜東北、中央線では17m車淘汰が進んでもクハ16がかなり後まで残されていましたが、この老幼専用車運用のためだったのですね。
その後73系に押されて東神奈川に一時的に移籍した後、阪和線にやってきて、11年あまり活躍を続けました。なお2,3等の仕切り撤去は、『国鉄電車ガイドブック 旧性能電車編(上)』の記述によりますと、阪和線移籍時であったようです。
戦後関東国電の歴史の1コマを留める車両でした。
車歴データ出典: 『関西国電50年』、『鉄道ピクトリアル』バックナンバー、『旧型国電車両台帳』、『終戦直後 東京の電車』(ないねん出版)、『国鉄電車ガイドブック 旧性能電車編(上)』