こちらは、鶴見線弁天橋電車区(南テシ)一般公開日の写真。多分、1985年か86年頃だと思います。当時弁天橋区に転属していた元中央線山岳地帯乗り入れ用101系800代の写真です。パンタグラフ部分が低屋根で製造され、脇にベンチレーターが設置されているモハ100-810です。
そしてこちらは相棒を組んでいたクモハ101-195。
今でこそ、毎日大月まで通勤電車が東京から走っていますが、当時は、ハイキング用の臨時電車として相模湖までシーズンのみ運転されていたように思います。子どもの頃相模湖で電車に乗ろうとしたら、定期の電車 (というか列車) は日中2-3時間に1本程度しかなかったような記憶が...
大月まで頻繁に国電が入るようになったのは、国鉄が民営化直前に、短編成、フリークェントサービス化を志向しようとした頃からだったでしょうか?
当時はまだいくらでもいた新性能車ですが、これらも歴史の一コマになってしまいました。
そしてこちらは相棒を組んでいたクモハ101-195。
今でこそ、毎日大月まで通勤電車が東京から走っていますが、当時は、ハイキング用の臨時電車として相模湖までシーズンのみ運転されていたように思います。子どもの頃相模湖で電車に乗ろうとしたら、定期の電車 (というか列車) は日中2-3時間に1本程度しかなかったような記憶が...
大月まで頻繁に国電が入るようになったのは、国鉄が民営化直前に、短編成、フリークェントサービス化を志向しようとした頃からだったでしょうか?
当時はまだいくらでもいた新性能車ですが、これらも歴史の一コマになってしまいました。