1969年の旧国の配置を見てみますと青梅電車区の車両配置が、似た条件にある中原電車区の車両配置と結構異なることが分かります。
かつて1950年代末は、弁天橋電車区と併せて、モハ11やクハ16が配置される似たり寄ったりの車両構成だったのですが、1960年代に20m車の配置が始まると違いが大きくなりました。
1969年の配置では中原区では72系グループの進出が見られる一方で、元々いた17m車がまだ残ると共に、20m3扉車のクモハ41や60の配置が見られます。
一方青梅区は、クモハ73の進出は見られるものの、モハ72、クハ79の進出は見られないかごく僅か。20m3扉車は、電動車はクモハ40のみであとはクハ55、そしてクモハ11が減っている割にはクハ16が健在だったりと、アンバランスな配置です。
これは結局、当時行楽シーズンに満席の乗客を乗せたときに青梅-氷川 (奥多摩) 間の勾配を登り切れる力があるかどうかということが問題になっていたようで、MT15を搭載したクモハ11では余力がなく、そのためMT40を搭載したクモハ73が投入されはじめたようです1)。下の記事には1964.2.1の青梅区における形式別配置輌数と運用が書かれていますが、当時クモハ40、クモハ12は五日市線の単行用、青梅線はMc(クモハ11 or 73)+Tc(クハ16 or 55)で運用されていたようです。
従って、車両の4扉20m化ということが意識されていてクモハ73が投入されていた訳ではなかったので、60年代末ではTcでは16や55が配置されているのに、Mcでは11が駆逐されつつある一方、単行・増結用の40を除いては73のみが投入され、41の配置が見られなかったようです。
おそらく、乗客収容力を勘案した牽引力という点では、MT40搭載ロングシート20m車→MT15搭載17mロングシート車→MT15搭載20mロングシート車と考えられていたものと思われます。また、前記記事では総武線の項目でクモハ60, 41, 40について高速運転時の蛇行が激しく現場から嫌われているという指摘もあります。これは乗客の多い高負荷時の高速運転において、電動機の出力が低いことに起因するのか、はたまた平軸受けに起因することなのか... このあたり、両運転台が重宝されたクモハ40に比べ、クモハ41が17m車に次いで比較的早く姿を消した理由と思われます。
1970年代の青梅線におけるクモハ40の運用は、私の記憶でも確か基本的に青梅-立川間の増結に限られ、青梅-奥多摩間の入線はなかったように思います。
1) 向井慧文,「東京附近の国鉄電車」『日本国鉄電車特集集成』2, 鉄道図書刊行会 (元記事は1964年)
なお、この時点の配置輌数は、クモハ73: 12、クモハ40: 4、クモハ11: 18、クハ55: 5、クハ16: 23であった。
かつて1950年代末は、弁天橋電車区と併せて、モハ11やクハ16が配置される似たり寄ったりの車両構成だったのですが、1960年代に20m車の配置が始まると違いが大きくなりました。
1969年の配置では中原区では72系グループの進出が見られる一方で、元々いた17m車がまだ残ると共に、20m3扉車のクモハ41や60の配置が見られます。
一方青梅区は、クモハ73の進出は見られるものの、モハ72、クハ79の進出は見られないかごく僅か。20m3扉車は、電動車はクモハ40のみであとはクハ55、そしてクモハ11が減っている割にはクハ16が健在だったりと、アンバランスな配置です。
これは結局、当時行楽シーズンに満席の乗客を乗せたときに青梅-氷川 (奥多摩) 間の勾配を登り切れる力があるかどうかということが問題になっていたようで、MT15を搭載したクモハ11では余力がなく、そのためMT40を搭載したクモハ73が投入されはじめたようです1)。下の記事には1964.2.1の青梅区における形式別配置輌数と運用が書かれていますが、当時クモハ40、クモハ12は五日市線の単行用、青梅線はMc(クモハ11 or 73)+Tc(クハ16 or 55)で運用されていたようです。
従って、車両の4扉20m化ということが意識されていてクモハ73が投入されていた訳ではなかったので、60年代末ではTcでは16や55が配置されているのに、Mcでは11が駆逐されつつある一方、単行・増結用の40を除いては73のみが投入され、41の配置が見られなかったようです。
おそらく、乗客収容力を勘案した牽引力という点では、MT40搭載ロングシート20m車→MT15搭載17mロングシート車→MT15搭載20mロングシート車と考えられていたものと思われます。また、前記記事では総武線の項目でクモハ60, 41, 40について高速運転時の蛇行が激しく現場から嫌われているという指摘もあります。これは乗客の多い高負荷時の高速運転において、電動機の出力が低いことに起因するのか、はたまた平軸受けに起因することなのか... このあたり、両運転台が重宝されたクモハ40に比べ、クモハ41が17m車に次いで比較的早く姿を消した理由と思われます。
1970年代の青梅線におけるクモハ40の運用は、私の記憶でも確か基本的に青梅-立川間の増結に限られ、青梅-奥多摩間の入線はなかったように思います。
1) 向井慧文,「東京附近の国鉄電車」『日本国鉄電車特集集成』2, 鉄道図書刊行会 (元記事は1964年)
なお、この時点の配置輌数は、クモハ73: 12、クモハ40: 4、クモハ11: 18、クハ55: 5、クハ16: 23であった。
興味深く拝見させて頂きました。
都内で割と簡単に訪ねることができますので、あまり意識しませんでしたが、青梅線の青梅から先は山岳路線なのですね。
出力が問題になり、非力な車両も多かった時代には、車両のやりくりにも工夫が必要だったこと、今ではあまり意識しない観点に興味を惹かれました。
現在のE233系など今ではそう言った心配は殆どないのだろうと思いますが、それでも勾配やカーブのきついこの区間では運転に苦労があるのかもしれません。
先日より休館となった青梅鉄道公園にて、クモハ40形を見てきたところでした。
在りし日を想像するに、こちらの記事も拝見して良かったです。
総武線でクモハ60,41,40型が高速で動揺が激しい件ですが、WIKIで「TR23台車」の項目を見たところ、本来はさらに出典元を見なければならないのですが、DT12台車は強度不足の傾向があり、設計当初のMT15モーターの搭載時に強度不足が判明して補強を実施し、昭和14年からのMT30モーターの搭載でまた強度不足が判明して補強を追加した、との記述があり、いわば補強が後追いになっているため、高速走行時にDT12台車の強度不足が露呈した可能性があります。