高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

岡オカ クモハ51003 & 岡山ローカル運用について (蔵出し画像)

2016-04-01 20:10:16 | 旧型国電
 先日、岡山運転区の狭窓流電中間車、サハ58000を紹介しましたが、こちらは電動車クモハ51です。私が撮影できたクモハ51の中ではもっとも若番であるクモハ51003です。ただ岡オカにはクモハ51のトップナンバーも当時いたんですが、撮影当時はそんなことはつゆ知らず... 知っていたらもっと粘ったのに...

 なお、山陽線岡山付近が電化されたのはWikipediaの記述を見ますと、1960.10.1上郡-倉敷間電化、さらに1961.9.6に倉敷-三原間電化となっています。『鉄道ピクトリアル』のバックナンバーを追っていきますと、岡山ローカルに旧国が投入されたのはまずこの60年の倉敷電化の時からで、60年の9月末にはクモハ51やクハ68の第一陣が大阪から岡山に移動しています。意外なのはこの時、73系等4扉車両も岡山に投入されています。当時の京阪神緩行線の車両イメージそのまま岡山に展開していたようです。後に淀川電車区の主となるクモハ32001もこのとき高槻から岡山に移動しています。
 そして、電化第2陣の三原電化の際、61年の8月末~9月初めに掛けてクモハ51やクハ68の第二陣が大阪圏から移動していますが本車やクモハ51001、それに後に府中に移るクモハ32000等4扉車もこの時岡山に移動しました。
 また63年には首都圏からクモハ41や17m車も岡山に移動しています。ただ、クモハ41は岡山では不評だったらしく、数ヶ月で淀川に転出しています。またこの時一部4扉車も大阪圏に戻されています。
 また、2扉のサハは64年に移動しており、この時追加のクモハ51も大阪や横須賀線から移動してきています。また3扉のサハは66年に首都圏から (一部は一旦大阪圏を経由して) 転入してきており、この時残りの4扉車は大阪圏に転出。クハ68は主に71,2年に飯田線や福塩線に転出しています。

 この写真を撮影したのは75年3月でしたが、この当時は編成はMcTTMcに統一され、Mcはクモハ51に統一されており、主として宇野、赤穂線 (播州赤穂以西)、山陽線三石-岡山間ローカルに運用されていました。

 この戦前型旧国の運用が終了したのは、『旧型国電ガイド』(ジェー・アール・アール刊行)によりますと76年6月30日です。小山区から115系の転入を受けて廃止になりました。なおこの時捻出された一部クモハ51は福塩線に転用され、福塩線のクモハ41を置換えています。ただこの時岡オカから岡フチに車両がいつ移動したかは、『鉄道ピクトリアル』『鉄道ファン』とも情報が欠落しており、正確な日取りが分かりませんが、'76.6~7頃であることは間違いないと思われます。



では、本車の車歴です。

1936.3.10日本車輌製造 (モハ51003 東ミツ)→(?)東モセ→1943.12.16改造(モハ41058 大井工)→1950.9.17大ミハ→1951.6.16座席復旧→1951.8.20更新修繕I(吹田工)→1952.4.28 (or 5.21)改造 (モハ51003 吹田工)→1956.3.1大タツ→1958.10.22更新修繕II(吹田工)→1961.9.11岡オカ→1976.10.14廃車

 本車は中央線ハイキング列車用に製造されたクモハ51のトップグループです。番号は奇数であるにもかかわらず向きが偶数向きになっています。中央線用クモハ51は浅川 (高尾) 向き(偶数向き)で統一されていたはずなので、そのまま使われているものと思われます1)。
 新製配置で三鷹電車区に配属されたはずですが、戦時中に下十条に移動し (移動時期不明) そこからモハ42グループと交換で宮原に移動しています。また戦時中は座席撤去で一時クモハ41に改番されていましたが、戦後復旧され元番号に戻っています。そして上で触れたように岡山電化第二陣で高槻から岡山に移動し、岡山ローカル旧国運用廃止で廃車となりました。全検は岡山時代も含め吹田工場で受けていましたので、基本は関西型の改造を受けていました。

データ出所:『関西国電50年』

1) Wikipedia『国鉄51系電車』には浅川向き(奇数向き)との記述があってそれに引きずられましたが、その記述は誤りのようですので訂正しました(2016/4/6)。


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8 コメント

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中央線車両の方向 (原口 悟)
2016-04-05 00:56:29
先のクモハ51023の時に中央線快速の車両の方向について話題にしましたが、その後、「いつ方向が変わったのか」調べてみたのですが、情報が見つからずにいます。

現在は高尾側が偶数向きで、新宿駅基準で山手線と方向が合っていますが、ずっと昔の「のの字運転」の時代は東京駅基準で山手線と方向が合っていたので、新宿駅では山手線と中央線は方向が逆になっていたはずです。山手線の環状運転が始まったのは大正14年で、これ以降どこかの段階で中央線用車両の方向転換が行われたはずです。「大井工場への入場経路が関係するのではないか」と思うのですが、大井工場の現在位置への設置及び品川電車区の移動等のエポックと上記「のの字運転」から環状運転への変更等の運転のエポックがあまり対応せず、中央線車両の方転がいつだったのか、絞り込めずにいます。

車両の方向に関連して、床下機器の「電気側」「空気側」の配列ですが、戦前の東鉄では両方向とも公式側が電気側、非公式側が空気側と共通で、偶数車はジャンパ栓を左右ひっくり返してつないでいました。これに対して大鉄は山側が電気側、海側が空気側に統一していて、偶数車は公式側が空気側になっていました。戦後になって東鉄も大鉄流の山側が電気側、海側が空気側の配置を導入して、戦前型も更新修繕時に床下機器配置を変更したのですが、地方に転出した17m車等に従来の床下機器配置を残して更新修繕をした車がいたようです。先の話題の時の「床下機器配置の”例外”」に相当する例になります。
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Unknown (管理人)
2016-04-05 18:54:19
 ふと思ったのですが、モハ51新製時に、下り向きだったのは確かだとしても、奇数向きだったというWikipediaの記述は本当なのでしょうか?

 例えば、以下にある1954年の中央線の写真を見ると、明らかに上りが奇数であったことが分かります。
http://mu3rail.blog.so-net.ne.jp/2007-11-22

 考えられるのは1932年に総武線との直通運転が開始されてから、それに合わせて方向転換されたことが考えられますが、そうだとするとモハ51製造以前です。仮に初期の中央線は浅川寄りが奇数であったことが事実だったとしても、モハ51製造時は異なっていたのではないでしょうか?

 総武線は千葉寄りが奇数向き、お茶の水寄りが偶数向きなのはこちらの写真を見ると分かります。
http://home.a00.itscom.net/yosan/densya/syutoken/syutoken.html
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やはり偶数向き (管理人)
2016-04-06 23:14:37
 やはり東鉄向きモハ51が奇数向きという、Wikipedia「国鉄51系電車」の記述は誤りのようです。例えば、浅原信彦さんの『ガイドブック最盛期の国鉄車両 1』や長谷川明さんの『美しき半流国電』の記述いずれも、モハ51は下り(浅川)、偶数向きとあります。
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Unknown (原口 悟)
2016-04-08 01:07:22
中央線快速の方向についての情報をありがとうございます。紹介の写真も拝見させていただきました。
上記のように戦前の東鉄のモハは床下機器が奇遇共通なので床下機器配置が方向の証拠にならないことと、「のの字運転」に由来する方向の変化から、モハ51形投入当時の奇偶の方向についての判断を躊躇していました。
戦前の東鉄のモハ51形の写真を「旧型国電50年(1)」P131に見つけました。幌枠の無い「東鉄タイプの半流前面」が確認できるのですが、上記のように床下機器が奇数配列であることと、ジャンパケーブルをぶら下げる法則性が当時は無かったので、写真だけだと奇数向きか偶数向きか判断できないです。

「のの字運転」時代から現在の方向への方転ですが、確かにご指摘の総武緩行線の直通運転の開始は大きなエポックで、有力だと思います。また、この時の方向が、その後中央本線の電化の延伸(昭和40年に松本まで)を経て、昭和48年の中央西線、篠ノ井線電化で長野に達すると、「碓氷峠通過のため」に偶数向きが下り向きだった信越本線の車両と、結果として同じ向きになったのが興味深いです。

東鉄由来のクモハ51形なのですが001~010までの10両は一番後ろの扉が前へ開くという違いがあります。また、東鉄と大鉄とでは同じ形式でも歯車比が違っていたようで、戦時のロングシート化では東鉄の車はモハ41型に編入されたのに対し、大鉄の車はモハ51形のままでした
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タイムスリップ 中央線 (管理人)
2016-04-08 21:37:02
原口様>
 大正出版から出た『タイムスリップ中央線』 p4に、上で紹介した1954年のモハ40の写真と同じ位置で見た、東京駅に停車する1933年の木造車モハ10の写真が出ていますが、やはり正面右側に2本ジャンパケーブルが出ているので、中央線東京寄りが奇数であることは間違いないと思います。

 また、同 p6に1939年西荻窪付近を走るモハ51が写っていますが、正面左側床下に栓が2つ、右側に栓が1つ、ジャンパケーブルがない状態 (但し左側にケーブル受けはあり) で写っているので、偶数に間違いないと思います。

 東鉄は偶数、奇数関係なく公式側が電気側だったということですから、公式側が電気でも偶数だったのでしょう。

 奇数側にケーブルをつけるというのが確定していなかったということですが、栓の数や位置まで不定ということはあり得ませんので東鉄のモハ51は偶数で間違いありません。偶数車、奇数車問わずケーブル受けがあったとしても、右側なら奇数車、左側なら偶数車の筈です。
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Unknown (原口 悟)
2016-04-10 23:01:10
電気側と空気側のケーブルの本数の件、こちらでも確認が取れました。情報ありがとうございます。

ジャンパケーブルのぶら下がり方に関して、奇数向き先頭車は運転席側腰板にジャンパ栓納めが付き、先頭に立つとケーブルが納められるのに対し、偶数向き先頭車にはジャンパ栓納めが無く、先頭に立つとケーブルが無くなるのが標準ですが、これに対してクハ79100台(元サモハ63形)は偶数向きにもかかわらず助士席側の腰板にジャンパ栓納めが付いています。他、偶数向きのクモハ73形にも例があります。この「偶数側先頭車の助士席側腰板のジャンパ栓納めが何故付いていたのか」が「我が心の飯田線掲示板」で話題になったことがあります。クハ79100台への改造当時、種車の番号ではモハ63形の偶数車だけでなく、奇数車もいたのですが、ジャンパ栓納めの用途が無ければ取り付けられなかった(あるいは撤去された)はずなので、ジャンパ栓納めが付けられた背景があったと考えられました。
写真が調べられた結果、昭和25年ごろの横須賀線に偶数車がジャンパケーブルをぶら下げて車体側のジャンパ栓納めを使っていた例が見つかりました。ちょうど、最近話題になっている、モハ42系列が横須賀線へ転入した頃で、偶数向きのモハ43型やクハ58形がジャンパケーブルをぶら下げていました。また、同時期の湘南電車にも偶数向き先頭車がジャンパケーブルをぶら下げている例が見つかっています。
これらの例から考えられたのが、「基本編成の両側にジャンパケーブルがぶら下がり、付属編成はジャンパケーブルを持っていなかったのではないか」という説です。湘南電車及び横須賀線の基本編成は、下り側に荷物電車、上り側に付属編成がぶら下がるので、基本編成にジャンパケーブルをすべて持たせたのではないか、とするものです。この、「基本編成の前後にジャンパケーブルをぶら下げる」使い方の時代にモハ63形の更新が行われているので、車体の偶数側ジャンパ栓納めが残ったのではないか、と考えられました。
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Unknown (管理人)
2016-04-11 01:13:29
 なお、『タイムスリップ 中央線』の写真を見ますと、昭和14-5年のモハ51には偶数車の左下、助士席側にジャンパケーブル受けがあるのが確認されます。またオリンピック試験塗装のモハ40046にも写っています。
 さらに昭和28年撮影のモハ63にもあるのが確認できます。

 しかし戦前のモハ31にはありませんし、昭和12年頃写されたモハ40021の写真にも写っていません。従って偶数車にジャンパケーブル受けが設置されたのは昭和9年製車両以降のようです。

 そしておそらく更新修繕以降、偶数車のものは撤去されたのでしょう。
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モハ51のことなど (ef813030)
2017-03-22 21:32:03
こんにちは。モハ51で検索をかけて、拝見しました。

1.中央線電車の大井工場への経路
・山手線と京浜線の線路が分離されるまで、
 東京駅に中央線との連絡ができる中線が
 ありました。付属編成がいくつかならんでいる
 写真をご覧になったことがあるかもしれませんね。
・その中線を利用して、「の」の字運転で大井へ
 入場、出場したと考えています。
・大崎駅では、新宿方面に偶数向き使用の
 モハ40、大井方面に奇数向き使用のクハ55の
 位置関係になります。
・一方、津田沼の総武線電車は、モハ40を先頭に
 新宿に着き、ここで方転します。大崎駅では、
 中央線電車と同じ向きになります。
・制御引き通し線を山側に位置させれば、鉄道院、
 鉄道省時代の関東の電車は、山側に空気系機器を
 海側に電気系機器を装備したと考えます。
 鉄道ファン誌のモハ42系特集に、モハ51やモハユニ44の
 新製後間もない写真がありますが、山側に空気で写って
 います。モハ51には、助手側に栓受けが3つもあります。
・よって、三鷹のモハ51は、偶数向き使用で正しいと考えます。 

2.関東の電車が、海側空気になった契機
・モハ80は、田町も宮原も海側空気です。設計時に、
 モハ52005+52002を関東に回送して、試験を
 行っています。この試験が契機になったと考えています。
・なお、床下機器配置は、奇数「仕様」の52005とも
 偶数「仕様」の52002とも、モハ80は違えています。
 「中間電動車だから、寄っていた抵抗器も中間に」と
 考えられたのでしょうか。

以上、失礼します。
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