過去・現在・未来

日々の出来事を「過去・現在・未来」の視点から

教科書問題を考える―「和泉通信」(転送)(3)

2005-11-30 21:33:47 | Weblog
④ロシア革命とシベリア出兵
ロシア革命について本書は以下のように書いています。「武装蜂起したレーニンの一派は、労働者と兵士を中心に組織された代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府をつくった。その後、他の党派を武力で排除し、みずから率いる共産党の一党独裁体制を築いた。ソビエト政府はドイツとの戦争をやめ、革命に反対する国内勢力との内戦に没頭した。ロマノフ王朝の皇帝一族と、共産党が敵とみなす貴族、地主、資本家、聖職者、知識人らが多数、処刑された。」革命に行き過ぎたテロ行為が伴ったことは事実だとしても、ロシア帝政の国内支配体制がどんなに苛烈なものであったか、農奴制社会の無権利状態に触れないのでは片手落ちです。ソビエト政府への敵視は、シベリア出兵(1918~22年)についての記述からも、他国への干渉戦争という認識を欠落させています。そして本書は、これ以後、共産主義国をそれ自体として仮想敵国視して行きます。

⑤排日運動を口実にした中国侵略の正当化
清朝滅亡後の国民党や共産党による中国統一の動きが大きくなると日本は中国への干渉を強めたのですが、本書はその責任を排日運動に帰しています。「中国の国内統一が進行する中で、不平等条約によって中国に権益をもつ外国勢力を排撃する動きが高まった。それは列強の支配に対する中国人の民族的反発だったが、暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受け、過激な性格を帯びるようになった。勢力を拡大してくる日本に対しても、日本商品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になった。」ここでは、共産主義思想への犯罪視も干渉の正当化に利用されています。そもそも、民族の尊厳を踏みにじる、不当な占領支配や内政干渉が行われていたから排日運動が起こったのです。排日運動を理由にした侵攻は逆立ちした論理です。
本書は更に日本の政治が軍部独裁へ移行した原因をも排日運動に求めています。「(幣原外相による協調外交にもかかわらず、)中国の排日運動はおさまらなかった。日本では軍部を中心に、中国に対する内政不干渉主義で対処するのはむずかしいと考える人もあらわれ、幣原の外交を軟弱外交として批判する声が強くなった。…軍人のあいだには、排日運動にさらされていた満州在住の日本人の窮状と、満州権益への脅威に対処できない政党政治に対する強い不満が生まれていた。…国民も、…政党政治に失望し、しだいに軍部に期待を寄せるようになった。」資料としても、排日運動を非難するものが並べられ、抗日運動側の発言はありません。
こうして1931年、満州事変が起こることになりましたが、本書はこれを軍部の専行として批判的視点に立つのでなく、「国民的支援」を送っています。「満州で日本人が受けていた不法行為の被害を解決できない政府の外交方針に不満をつのらしていた国民の中には、関東軍の行動を支持する者が多く、陸軍には多額の支援金が寄せられた。」

⑥大東亜戦争=アジア解放戦争論
以後、日中戦争から太平洋戦争に至る記述が始まりますが、ブロック経済圏を巡る列強間の利害対立から、日本が経済封鎖で追いつめられ、開戦を決意したという説明になっています。そこには、中国、アジア諸国への侵略戦争という認識はありません。『自存自衛』のための戦争、さらには、「アジアに独立の希望を広げる」戦争だったというのです。本書の「大東亜会議とアジア諸国」という二ページは、7割がアジア独立に寄与したという記述、3割がアジアの人々に損害を与えたという記述に当てられ、まとまりのない説明になっています。

⑦ナチズムとスターリン粛清の強調による日本の戦争責任の中和化
戦争の犠牲者についてのコラムも、「20世紀の戦争と全体主義の犠牲者」と題し、日本が侵略戦争で各国にもたらした被害と犠牲者への責任を曖昧にしています。「日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や民間人に対して、不当な殺害や虐待を行った」と記しつつも、その直前に、「実際には、戦争で非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなかった」と問題を相対化し、米軍による空襲と原爆投下、ソ連によるシベリア抑留を強調しています。そしてナチスによるユダヤ人や障害者の虐殺、ソ連でのスターリン粛清について述べた後、コラムをこう締めくくっています。「二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしたが、その一方で、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な数の犠牲者を出したことも忘れてはならない。」ナチスとソ連をスケープゴートにして、日本軍による毒ガス戦、細菌戦、そのための生体実験を初めとする非人道的犯罪行為、アジアでの抗日運動、国内での反戦運動への残酷な弾圧には目隠しで通しています。本書では、「二つの全体主義」が特殊な思想的妖怪のように描かれ、日本もまたファシズム国家になっていたという認識に欠けるものとなっています。そして、戦前の日本にファッショ体制を敷く道具となった治安維持法を、共産主義の脅威の名の下に正当化するということまで容認しています。本書は注で以下のように説明しています。「日本でも、日本共産党がコミンテルン日本支部としてひそかに設立された。1925年、日本政府はソ連と国交を結んだが、それによって国内に破壊活動がおよぶことを警戒し、同年、私有財産制度の否認などの活動を取りしまる治安維持法を制定した。」ここには同法の下で行われた反戦運動や社会運動の弾圧への批判はありません。
こうした記述は、東京裁判を戦勝国による一方的裁判ととらえる記述につなげようとするものです。コラム「東京裁判について考える」では、結論こそ「東京裁判については、国際法上の正当性を疑う見解や、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見があり、今日でもその評価は定まっていない」と、両論併記ですが、それ以外の部分は否定論ばかりです。奇妙なのは、ここでマスメディア批判をしていることです。「GHQは、占領直後から、新聞、雑誌、ラジオ、映画のすべてにわたって、言論に対するきびしい検閲を行った。また、日本の戦争がいかに不当なものであったかを,マスメディアを通じて宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後の日本人の歴史に対する見方に影響を与えた。」侵略戦争に対する反省や、戦前の軍国主義に対する批判をGHQによる宣伝としかとらえられない本書の執筆者の時代錯誤に驚かされます。そして、戦前の政府による検閲や、大本営発表による報道操作にほとんど触れてこなかった本書が、ここでは、検閲された新聞と墨で消された教科書の写真を載せているのです。本書執筆者たちの「被害者意識」の強さを見ることができます。

⑧「国際社会における日本の役割」としての軍事的貢献の示唆
本書は、冷戦下での独立の回復と警察予備隊(自衛隊)の発足、日本経済の発展、ソ連崩壊による冷戦構造の終結についてのべ、「国際社会における日本の役割」という項で本書を締めくくります。「一部に共産主義の国家が残り、また民族や宗教の対立をもとにした地域紛争もなくなりそうにない。こうした中で、独自の文化と伝統をもつ日本が自国の安全をしっかり確保しつつ、今後、世界の平和と繁栄にいかに貢献していくかが問われている。」他国、とりわけ共産主義国からの侵略と異文化民族からのテロの脅威への安全保障策の強化が示唆されています。というのも、その前段には、「この(湾岸)戦争では、日本は憲法を理由にして軍事行動には参加しなかせず、巨額の財政援助によって大きな貢献をしたが、国際社会はそれを評価しなかった。国内では日本の国際貢献のあり方について深刻な議論がおきた。」という文章が記されているのです。こうした口実からイラクに自衛隊の「人的支援」が成されたのであり、憲法改正も検討されてきているのです。

⑨敗戦へのこだわり
本書は、後書きにあたる「歴史を学んで」で、ここ半世紀にわたって、日本人が方向を見失っている理由を二つあげています。一つは、欧米諸国に追いつくという目標を達成したことによる目標の喪失であり、もう一つは、まだ癒えない敗戦の傷跡です。「日本は長い歴史を通して、外国の軍隊に国土を荒らされたことのない国だった。ところが、大東亜戦争敗北して以来、この点が変わった。全土で50万人もの市民の命をうばう無差別爆撃を受け、原子爆弾を落とされた。その後の占領によって、国の制度は大幅に変更させられた。戦後、日本人は、努力して経済復興を成しとげ、世界有数の経済大国の地位を築いたが、いまだにどこか自信をもてないでいる。戦争に敗北した傷がまだ癒えない。」米軍による無差別攻撃を責めて、国民にそうした事態をもたらした政府への批判はありません。象徴天皇制や戦後民主主義は、敗戦により押しつけられた、「国体」の変更であったとでもいっているようです。また、敗戦の傷を癒し、自信を持ち直すために、どこかの国との戦争に勝たなければならないとでも思っているのでしょうか。本書の怖さを象徴する文章です。

(3) 世界史の中での日本史

以上、二つの視点から本書の記述をみてきました。そこには、日本の歴史を、日本国民の人権・主権の発展史としてとらえるのでなく、天皇の国史としてとらえる日本史が描かれていました。本書が「独自の文化と伝統をもつ日本」というとき、そこには、「万世一系の天皇」を戴く日本がイメージされていることは、本書を通読してみれば明らかです。
また、日本の独立を重視する視点は、それ自体としては大切なものですが、それは同時に、他国の主権をも尊重するものでなければなりません。日本史を外交・戦争史としてみるとき、私たちは、単なる「チーム日本」の勝ち負けの歴史としてではなく、近隣諸国との友好と、国際平和の発展史としてとらえていく必要があります。本書は他国の主権や他国民の人権に対する目配りが欠けています。本書が語る日本国民の独立への熱い情熱と同様に、朝鮮、中国の人々もそれぞれの独立への熱い願いをもって、歴史を歩んできたのです。「各国には各国の歴史がある」というとき、「だから、各国は各国の歴史を教えればよい」ということであってはなりません。相互の歴史観から一面性を克服し、相互理解を広げて行くことにこそ、これからの各国史を、国際平和の発展史にしていく鍵があるからです。
さて、お読み頂いた感想はいかがでしょう。他の教科書と読み比べたわけではありませんが、本書で子供たちが日本史を学ぶことを思うとやはり怖くなります。私は杉並区の和泉に住んでいることから、この通信を和泉通信と称しているのですが、その杉並区が本書を教科書に採用してしまいました。結果的に本書を採用した自治体は限られたものとなりましたが、単にアジア諸国から批判があるからということではなく、日本国民自体の問題として、歴史教科書問題への関心が求められると思います。
私は、今回、本書と一緒に、日中韓3国歴史教材委員会編「未来をひらく歴史、東アジア3国の近現代史」(高文研刊)を読みました。そして、朝鮮の人が書いた朝鮮史、中国の人が書いた中国史を日本人が読むことの大切さを実感しました。もちろん、これは、お互いにいえることですが、国際的相互依存がますます強まっている今日、お互いの人と社会の成り立ちを知っておくことは、相互発展のために不可欠です。
今回は詳細な紹介は致しませんが、日中韓三国の近現代史を見直すための好著としてお奨めします。

森 史朗

教科書問題を考える―「和泉通信」(転送)(2)

2005-11-30 21:32:03 | Weblog
④明治維新と大日本国憲法
明治維新の評価も、その限界に触れられることはなく、「公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した革命だった」とし、「市民が暴力で貴族の権力を打倒した」フランス革命との相違を好意的にのみ評価しています。大日本帝国憲法についても提灯行列さながらの手放しの賞賛です。「大日本国憲法は、まず天皇が日本を統治すると定めた。そのうえで実際の政治は、各大臣の輔弼(助言)にもとづいて行うものとし、天皇に政治的責任を負わせないこともうたわれた。国民は法律の範囲内で各種の権利を保障され、選挙で衆議院議員を選ぶこととなった。」ここでは、注釈抜きに「臣民」が「国民」にいいかえられています。天皇主権と国民主権の違いを曖昧にするものです。また、天皇の直接政治色を弱め、その証左に「天皇に政治的責任を負わせないこともうたわれた」としているように読めますが、その該当条項が「第三条、天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」だというから驚いてしまいます。
この論理は、昭和天皇の戦争責任についても適用されます。本書は「昭和天皇」というコラムでこう書いています。「天皇は、(各国との友好を願っていたが、)たとえ意に反する場合でも、政府や軍の指導者が決定したことは認めるという、立憲君主の立場を貫かれた。」そして、天皇が自身の考えを強く表明し、関与したのは、二・二六事件のときに「重臣を殺害した反乱分子を許さない断固たる決意を示した」ことと、ポツダム宣言の即時受諾の「聖断」を下した2度であったとしているのです。いかにも都合のよい解釈ではありませんか。

⑤政府の戦争責任の曖昧化
本書のこうした姿勢は、天皇制の下での軍国主義を批判する反戦平和運動や社会運動の無視につながります。それらの運動への弾圧についてもまったく触れていません。国家総動員法の項で、「また、この時期には言論の統制や検閲なども強化された」という一行と、民政党の斎藤隆夫代議士の「この戦争の目的は何か」との質問に政府は明確に答えることができなかったと書かれているだけです。
逆に、この戦争を国民的なものとして肯定的に共有しようとする努力が各所に見られます。その一つが、真珠湾攻撃以降半年を経て、時がたつにつれ悪化する戦況を述べた箇所の結びです。「日本軍はとぼしい武器・弾薬で苦しい戦いを強いられたが、日本の将兵は敢闘精神を発揮してよく戦った。」悲惨な戦場に送り込んだ天皇・軍事官僚・政治家の責任を曖昧にする表現です。同じ表現が、国家総動員体制下での生活のところで出てきます。「しかし、このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった。」これらの文章は、当時の政府による発言として記載されたのでなく、教科書の筆者のコメントとして記されているだけに問題です。

⑥「押しつけられた」民主化
戦後の連合軍占領下での民主化の過程を本書はどう描いているのでしょう。基本的な記述の枠組みは、〈アメリカに言われなくても、日本には戦後の改革方針はあった。それなのにアメリカは、日本が脅威とならないように、無理な改革を押しつけた。〉というものです。
「アメリカの占領目的は、日本がふたたびアメリカの脅威にならないよう、国家の体制をつくり変えることだった。…(GHQは)五大改革指令を発した。民主化とよばれたこれらの改革のいくつかは、すでに日本政府が計画していたものと合致し、矢つぎばやに実行されていった。」「GHQは、大日本帝国憲法の改正を求めた。日本側では、すでに大正デモクラシーの経験があり、憲法に多少の修正をほどこすだけで民主化は可能だと考えていた。しかし、GHQは、わずか約1週間でみずから作成した憲法草案を日本政府に示して、憲法の根本的な改正を強くせまった。政府は草案の内容に衝撃を受けたが、それを拒否した場合、天皇の地位がおびやかされるおそれがあるので、やむをえず受け入れた。」
本書がすでに民主化プランを持っていたとする日本政府とは、「政治犯の即時釈放、思想警察その他一切の類似機関の廃止、市民の自由を弾圧する一切の法規の廃止ないしは停止」等を求める人権指令を受け、それを実行不能として内閣総辞職(東久邇内閣)をするような政府でした。東久邇内閣を継いだ幣原内閣は、憲法改正作業を始めましたが、その結果まとめ上げられた『憲法改正要綱』は、天皇の絶対主義的性格と、君主主義の原則をまったく変更しないというものでした。この政府案を肯定的に描き、GHQ案を押しつけとして描く本書は、戦前と戦後を分かつ天皇主権から国民主権への転換の意義をとらえることができません。それらは、天皇制を維持するためにやむをえず受け入れたものにすぎないのです。

(2) 独立と侵略

①古代における外交と戦争
第二の特徴は、日本の独立の重視と、一方での日本による他国の独立侵害の軽視です。本書では、古代からアジア世界に一般的に見られた中国との朝貢関係から自立するための日本の努力を高く評価しています。例えば聖徳太子の随との外交政策についても、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。」と対等の立場から外交を進めようとしたものとして評価されています。
しかし、逆に日本が他国の独立を侵害した場合の記述はどうなっているでしょう。古代の朝鮮への出兵についてです。4世紀、百済からの支援要請を受けた際の朝鮮出兵と、半島南部の任那(加羅)に拠点を築いたというところは、日本本位の見方による記述がなされ、攻撃支配された朝鮮の側からの視点は見られません。

②元寇と秀吉の朝鮮出兵
元寇については、「鎌倉武士は、これを国難として受けとめ、よく戦った。また、2回とも、元軍は、のちに『神風』とよばれた暴風雨におそわれ、敗退した。」と、感情を込めて表現しています。
さすがに、秀吉の朝鮮出兵については、「2度にわたって行われた出兵により、朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒廃した。この出兵に、莫大な費用と兵力をついやした豊臣家の支配はゆらいだ。」と、朝鮮の被害についても触れられています。

③明治維新と朝鮮併合の論理
独立の重視は、明治維新の評価にも現れています。「もし、明治維新がなければ、日本は列強の支配下に組み入れられていただろう」というのが、「明治維新とは何か」という本書の問いかけへの最初の回答です。そして、治外法権などの不平等条約については、日本人の誇りを傷つけるものとして、その改正への努力が詳しく述べられています。
本書の「列強による支配を回避するため」にという論理は、「朝鮮が他国におかされない国になることは、日本の安全保障にとっても重要だった」(コラム、「朝鮮半島と日本」)という論理につながり、朝鮮への干渉が正当化されていきます。そして日露戦争の際には、「ロシアの極東における軍事力が日本が太刀打ちできないほど増強される」のをおそれて、日本政府はロシアとの戦争を決意したと、日本の安全保障にとって重要な地域は満州にまで拡大することになります。そして、「日本政府は、日本の安全と満州の権益を防衛するために、韓国の併合が必要だと考え」、1910年、武力で韓国を併合するのです。本書は、当時の日本政府が主張した近隣諸国への干渉の論理をそのまま述べています。そして欧米の列強とのアジア近隣諸国での権益争いを述べる際にも干渉・支配される人々の痛みには驚くほど無関心です。本書は、「下関条約と三国干渉」の項で、巨額の賠償金と台湾・遼東半島の割譲を得たこと、日清戦争での敗北を機に列強諸国による中国の分割が急速に進んだことを得々と述べ、三国干渉によって遼東半島とを返還したことに対し、「しかし、日本が簡単に欧米列強と対等になることは許されなかった」と嘆いているのです。「日本は、中国の故事にある『臥薪嘗胆』を合言葉に、官民あげてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになった。」本書は臥薪嘗胆の思いを現代の教室でも共感させようとしています。
併合後の朝鮮については、二カ所で短く触れられているだけです。一つは、三一独立運動、もう一つは、戦争への朝鮮の人々の動員についてです。前者では、「このとき、朝鮮総督府は武力でこれを弾圧したが、その後は武力でおさえつける統治のしかたを変更した」と朝鮮への支配がやわらいだかのような書き方です。後者については、創氏改名や日本人化政策が強められたことが淡々と述べられ、それらが与えた民族的屈辱については触れていません。朝鮮や台湾の人々の苦しみについては、「戦争末期には、徴兵や徴用が、同地にも適用され、現地の人々にさまざまな苦しみをしいることになった。また多数の朝鮮人や中国人が、日本の鉱山などに連れてこられ、きびしい条件のもとで働かされた。」と、最低限の記述がなされているだけです。慰安婦問題についてはまったく触れられていません。朝鮮の人々にとっては納得の行かない記述でしょう。

教科書問題を考える―「和泉通信」(転送)(1)

2005-11-30 21:30:26 | Weblog
和泉通信 05-11-12

森です。残暑の厳しさをかこっているうちに急に涼しくなり、もう冬支度が始まりました。私は持病もあり寒さは苦手で、憂鬱ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
さて、今回は、「教科書問題」として話題となった扶桑社版「新しい歴史教科書(市販本)」を読んでみた感想を書かせて頂きました。批判の的となっていた教科書ですが、自分の目で読んでみなければいけないという思いがありました。範囲が広く、引用も多いので、少し長くなってしまいましたが、是非読んでみてください。選挙での大勝で憲法改正への動きも強まっています。賛成の方にも、反対の方にも、問題を考える材料になると思います。

《 扶桑社版「新しい歴史教科書」を読んで 》
まず、本書は、市販に当たっての後書きで、以下のようにその特色を述べています。「文科省の学習指導要領は、中学校歴史教育の『目標』として、『我が国の歴史に対する愛情と、国民としての自覚を育てる』ことを明記しています。本書の最大の特色は、この学習指導要領の目標を最もよく満たすように編集されていることです。…読み終えて、この日本という国が好きになり、日本に生まれたことに誇りをもてるようになる教科書であるという反響が寄せられています。」通読してみて私にもそう感じられました。と同時にそこにこの教科書への怖さも感じました。歴史はとかく支配者の目から見たものが歴史として語られてきました。歴史を学ぶときに大切なことは、そうした一面的な視点からの記述を批判し、社会を構成する多様な人々の視点から歴史を捉えていくことだと思います。本書には、「日本」を「肯定的」に理解させようとするあまり、支配者の歴史に対する批判が弱められています。自国の歴史を批判的に継承し次代の課題を見いだすことにこそ、日本の歴史の積極的な発展を期待することができるのではないでしょうか。以下、具体的な記述を見ていきましょう。

(1) 天皇制と人権

①古代史と天皇制の起源
第一の特徴は天皇制を肯定する主観的記述が多いことです。大和朝廷は豪族の連合体であり、その最も強大な豪族で、連合体の上に立ったのが後に天皇と称するようになった大王でした。元は一豪族に過ぎない天皇家にとって支配者としての正当性を理念的に定着させることは重要な課題でした。そこに国造り神話も支配者の意図を反映したものとして生み出されたはずです。本書では一ページのコラムで「神武天皇の東征伝承」を紹介し、以下のように述べています。「大和朝廷がつくられるころに、すぐれた指導者がいたことは、たしかである。その人物像について、古代の日本人が理想をこめてえがきあげたのが、神武天皇の物語だったと考えられる。だから、それがそのまま歴史上の事実ではなかったとしても、古代の人々が国家や天皇についてもっていた思想を知る大切な手がかりになる。」支配者が国民の中に吹き込もうとした神話が、当時の国民が描いたものとして述べられています。
大化の改新の項でも、その目的を「天皇と臣下の区別を明らかにして、日本独自の国家の秩序を打ち立てようとしたものだった」と、本書の視点からすれば現代に及ぶべき、積極的な評価をしています。聖武天皇による大仏建立についても、「これらの事業は莫大な資金を必要としたが、人々は協力して完成させた」とし、租庸調の負担に苦しんだ農民の姿は見えません。

②武家社会と朝廷
鎌倉幕府の時代に入っても、朝廷を重視した評価がされています。「頼朝はあくまでも朝廷をうやまい、その権威によって全国の武士を統率していったのである。…(鎌倉時代から江戸時代に至るまで、)幕府がどんなに政治的な力をほこっていても、朝廷の権威が失われてしまうことはなかった。」天皇家の日本の支配者としての正当性が強調されています。「(江戸)幕府は、朝廷をうやまいながらも、同時に幕府の意思に従わせようと努めた」という記述にもその姿勢は一貫しています。

③江戸時代の美化
江戸時代の「平和で安定した社会」としての描写も一面的なものに見えます。「江戸幕府はその(秀吉の刀狩)の方針を受けつぎ、武士と百姓、町人を区別する身分制度を定めて、平和で安定した社会をつくり出した」とし、武士が治安維持・行政事務に従事し、こうした統治の費用を百姓と町民が経済的に負担し、武士を養ったと述べています。そこには封建時代の桎梏であった身分制による支配・被支配関係は後景に退き、単なる仕事の分業としての身分制が描かれています。「村人は五人組に組織され、年貢の徴収や犯罪の防止に連帯責任を負った。…百姓は年貢を納めることを当然の公的な義務と心得ていたが、不当に重い年貢を課せられた場合などには、百姓一揆をおこしてその非をうったえた。幕府や大名は、うったえに応じることもしばしばあった。」何という理想郷でしょう。ここには、支配監視組織としての五人組や、その厳しい支配にも耐えきれず一揆を起こした農民の苦しい生活、一揆の結果年貢が軽減されたときでも、一揆の指導者は刑に処せられたという厳しい農民支配の実態は見えません。本書は、「武士道と忠義の観念」というコラムの中で、主君と家来の支配関係についても理想化しています。「武士は主君への忠義のために死を選ぶことがある。…死ぬ覚悟をもって主君によく仕え職務をまっとうして生きることを求めているのである。…のちに幕末になって日本が外国の圧力にさらされたとき、武士がもっていた忠義の観念は、藩のわくをこえて日本を守るという責任の意識と共通する面もあった。このような、公のために働くという理念が新しい時代を用意したといえる。」ここでも主従関係を律する忠義の概念をそのまま公共概念に結びつけるという、武士道の美化と、「公」「国」への奉仕の精神の要請がなされています。
―続く。

「戦争をしない国」から「戦争をする国」へ

2005-11-29 21:36:16 | Weblog
自民党は、新憲法起草委員会(森喜朗・委員長)全体会議、政調審議会、総務会を開いて、党の「新憲法草案」を決定しました。政権党が、改憲案をまとめたのははじめてであり危険な内容を含んでいます。
  現在の日本国憲法前文の最初の文章は、「…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」となっています。自民党の草案では、この「前文」から「再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という決意は、完全になくなりました。
  また、9条1項の「戦争の放棄」は現行のままとされましたが、「戦力保持の禁止」と「交戦権の否認」を規定した9条2項を削除し「自衛軍の保持」を明記しました。これは、きわめて重大です。――なぜなら、これによって海外派兵、集団的自衛権の行使、国連軍への参加がすべて可能となるからです。イラク戦争のようなアメリカの侵略戦争に、直接参戦する道を開くものとなっています。
  これはまさに「戦争をしない国」から「戦争をする国」への根本的な変質です。
  そのうえ、「日本国民は、国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有」と、前文に愛国心を書き込み、12条では「公共の福祉」のかわりに「公益及び公の秩序」を「国民の責務」とし基本的人権を規制しています。
  国や地方公共団体の宗教的行為については、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」を超えなければ容認するという規定に変更されました。――首相の靖国神社参拝を容認ししています。
  このような方向が、何をもたらすでしょうか。軍国主義と戦争への傾斜は、国民との間で大きな離反を引き起こすことになるでしょう。アメリカの現実が示しているように。

郵政新会社初代社長が全銀協前会長の西川氏!?

2005-11-12 21:09:57 | Weblog
西川氏は、まず来年1月に発足する日本郵政の前身となる準備企画会社の社長に就任し、民営化後の経営戦略を策定する経営委員会の委員長も兼ねる予定です。じつに露骨な人事配置ですね。


 これまで銀行業界は、国民の税金30兆円を「公的資金」として受け取ってきました。

 そのうち、約10兆円は戻らないのです。

 国民にツケを回しながら、利益のあがる体質づくりと称して、店舗や従業員を大幅に削減したり、手数料を大幅に引き上げるなど、国民負担とサービス切り捨てをすすめてきました。

 その先頭に立っていた銀行業会の代表を郵政事業のトップに据えるわけですから、金融のユニバーサル・サービスがいよいよ危うくなります。


 これによって、国民の財産が日米金融資本の餌食にされるという危険が現実のものになってきました。