以下の文章とスケッチは、川面出身の鶴島輝雄さん(故人)がかかれたものである。
戦争が終わって軍国色が一掃されると、それまで自粛を強制されていた盆踊りや祭りが爆発的な勢いで復活した。
この絵は昭和二十二年頃(一九四七)の、秋祭りにおけるだんじりの宮入りを示している。
この当時、二〇台に近いだんじりが繰り出した。
青年団が祭りを取り仕切り、九月中旬から〈にわか〉の練習に励んで、十月十八日の本祭りの日、神社の境内で〈にわか〉を奉納した。
だんじりの周りには〈にわか〉を見る人で溢れていた。
昭和十年刊の喜志尋常高等小学校〔現代の中学1・2年〕『学びの栞』の中に次の記事がある(国立国会図書館デジタルより)。
(十月)十七日 神嘗祭(かんなめさい)
この日初穂を皇太神宮にお供へになり、勅使が立たれます。宮中でも、賢所でおごそかな祭典をあげさせられます。
同日 氏神秋祭
村の年中行事中一番にぎやかなものの一つでせう。大国宮では盛大な祭典が行はれ神輿かきや地車引もあつて、森厳な森に太鼓の音がひびき人の波で境内が埋まります。
柿赤き 二十ヶ村の 祭かな
尋常小学校は現在地の木戸山町にあったが、高等小学校は美具久留御魂神社の境内にあった。
娯楽の少なかった時代、秋祭りが村々あげての楽しみだったのがよくわかる。
しかし、『学びの栞』が発刊された翌々年の昭和12年7月の盧溝橋事件で日中戦争勃発し、13年4月に国家総動員法が公布される。
祭の自粛を強制されたのは、おそらく、この頃だろう。
「柿赤き二十ヶ村の祭りかな」の「二十ヶ村」は当時の氏子村の数だ。
鶴島さんの説明に「二〇台に近いだんじりが繰り出した」とあるから、戦後初の祭に、ほぼ全ての氏子地区が地車を出したことになる。
誰もが祭の復活を待ちこががれていた。
そして、誰もが祭の復活に歓喜した。
冬の寒さに耐え忍んでいた草花が、一斉に花を咲かせ、実を結ぶ。
戦争で忘れていた自然や人の、在りのままの姿や流れを取り戻した瞬間だったにちがいない。
宮入を終えて村に帰る途中、俄を演じた衣装のまんまの春やん・彦やん・ミッツォはん三人に、明治生まれの師匠の徳ちゃんのオッチャンが寄って来て言った。
「わしが子どもの頃に見た俄は面白ろかった。どんなけ笑かすかが俄あった。
それが、宮さんで俄を奉納するようになった時に、天皇陛下の祖先を祀る宮さんで奉納する俄は笑かすのは不謹慎ややと言われるようになってしまいよった。
せやから、歌舞伎の真似事して、落とし(オチ)だけで笑かすような、面白ろない芝居になりよった。
そよさかいに、笑かしたらアカンのなら泣かしたろやないかいと、新国劇やら新派の芝居やらをとりいれたんや。
それでも、観客は笑いたいからヤジを飛ばしよる。そのヤジに一言返す即興は、さすがに、お上(警察)も許しよった。
そんな昔の古い河内俄を見せてもろたワ! 俄みたいなもんは、子供の遊びと同じや! やった者勝ちや!」
昭和生まれのミッツォはんから聞いた話である。