浪花の夏の風物詩となった俄は、町の辻々で演じる〈流し俄〉だった。
〇黒装束の忍者姿の男
忍者「源氏の財宝、この白旗。手に入れたからには大願成就。ああ、嬉しや」
と白布を押しいただいて行く。
すると後から寝まき姿の男が出てきて、
男 「曲者(くせもの)待て! わしのふんどしをどこへ持っていく」
このような〈流し俄〉が、嶋内や道頓堀、曾根崎や堀江界隈の花街に広がっていった。それを商家の旦那衆が座敷へ上げて俄をさせる。
「ほんなら、わしも俄とやらをやつてみよ」と、俄はやがて旦那衆の趣味・遊びとなり、太鼓持ちや仲居を巻きこんだ〈座敷俄〉となる。
〇揚屋(遊女屋)の掛け取り(借金取り)が出て来る。反対側から数人の家来を連れた侍が出て来る。
掛取「コリャ、よい所で出会うた。ここで会うたが百年目、サア、五十両の揚代を返せ」
侍 「イヤ、ここは途中ゆえ屋敷へ来い」
掛取「屋敷へ行っても、留守じゃ、留守じゃと、いつ聞いても同じ断り。金がないのならせめてもの腹いせ。郭へ行って桶ぶせにする(風呂桶をかぶせて路上にさらす)。サァ、ござれ!」
侍 「武士に向かって狼藉いたすか。皆の者、こやつを取り囲め!」
家来達「ハハァー」
と掛取りを囲み
家来達「やらぬぞ(逃がさないぞ=お金をあげないぞ)」
掛取「また、断りか!」
これには三味線や太鼓の効果音が入る。筋書も複雑になり芝居ぽくなってくる。
もちろん、〈流し俄〉も行われている。
大阪俄発祥からのここまでの流れをまとめておく。
※数字は改元した年(元年)
享保末1730頃~ 〉思い出した俄じゃ俄じゃ〈流し俄〉・河内俄
元文 1736~ 大名と太郎冠者による〈大名俄〉・京都に伝わる
寛保 1741~ まかり出でたるそれがしはの〈狂言俄〉
延享 1744~ 〈コリャなんじゃ俄〉
寛延 1748~
宝暦 1751~ 花街での座興の〈座敷俄〉
※上図は今治市立中央図書館の「後三年役絵巻 2」より
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