アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第5章 ヒンドゥー教とガンジー ⑪ カースト制度

2017年08月03日 10時35分41秒 | 第5章 ヒンドゥー教とガンジー
 本稿では、ヒンドゥー教について論じる時に避けて通ることのできないカースト制度について考えてみたい。このカースト制度については『ガンジー自伝』(以下、同書)の訳注に、蠟山芳郎氏が簡潔な解説を加えているので、後に引用する「ウィキ」からの引用との重複もあるかと思うが、先ずは引用してみたい。なお、「ジャチ」(種姓)との表記は、一般的な「ジャーティ」との表記に改めさせて頂いた。

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 初めポルトガル語であったが、英語に取り入れられた言葉で、普通インドの四大社会集団(階級)ならびに無数の社会集団をさしていう。カーストに当たるサンスクリット語は二つある。一つはヴァルナで、インドの古代から存在したといわれる四大階級をさしている。もう一つはジャーティで、そのほかの雑多の社会集団をさしている。ヴァルナはアーリア族がインドに侵入して、先住のドラヴィディア族を南に追ったときには、既に発生していたものである。『リグ・ヴェーダ』の讃歌には、この四大カースト(バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラ)のことがのっている。ヴァルナの発生原因については、ヴァルナが色という意味の言語であるところから、先住種族と皮膚の色を異にすることがあげられているが、労働の分業説もある。紀元前二世紀ごろに成立した『マヌの法典』によって、この四大カーストの職務が詳しく決められている。ジャーティの発生についても、ヴァルナ制度の分割細分化説などがあるが、定説はないようである。現在、ヴァルナ、ジャーティを含めて、約三千のカーストがあるが、カーストは生まれによって決定ずみであり、出世してもこれには影響を及ぼさない。カースト別に職業が一定されており、食事、社交についても厳格な規則が定められている。また、洗濯、歯の磨きかた、衣服、座りかた、横たわりかたにも、カースト別にそれぞれ規則がある。他のカーストとの結婚は許されないが、血族間の結婚の範囲も定められている。・・・なお、カーストで問題になるのは、多数のインド人をアウトカーストとして、カースト外に追放し、非人間的扱いをしていることである。ガンジーは、分業制度としてのカースト制度に絶対反対ではなかったが、このアウトカースト制度の存在に強く反対し、その撤廃の為に後半生を捧げた。
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 ここで蠟山氏は、「ガンジーは、分業制度としてのカースト制度に絶対反対ではなかったが、このアウトカースト制度の存在に強く反対し」たと書いており、このアウトカーストへの反対については、当然ながら同書でも取り上げられているところであるが、前半の「カースト制度に絶対反対ではなかった」という点は、もう少し吟味してみる必要があるかと思う。

 参考までに、このインドの社会を特徴付けるカースト制度に就いては、筆者も南インド巡礼に行った際、その厳密さを垣間見たような気がした。巡礼の後半で、ブラーミン(バラモン)だけが住んでいる昔ながらの村を訪問した処、古い家屋の家並みに交じって近代的なマンションが建っているのを見つけた。どうやらそのマンションは、開発業者がそこに住んでいた何人かのバラモンの土地を纏めて買い上げ、新たにマンションを建設したものだということだが、入居者を募集するに際し、「バラモンに限る」との条件が付けられたそうだ。このようにカースト毎の居住区まで指定されている村が他にあるかどうかまでは現地の案内人に尋ねなかったので不明であるし、実際に大きな都市で今もそのようなことが可能だとは思われないが、カーストに関する「純潔主義」的な考えは未だインドに根強くあるように感じた次第である。

 続いて、カーストが輪廻転生観と密接に関わっているとの説をウィキより引用する。

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 カーストは一般に基本的な分類(ヴァルナ - varṇa)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、誕生後にカーストの変更はできない。ただし、現在の人生の結果によっては次の生で高いカーストに上がれる。現在のカーストは過去生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。まさにカーストとは、ヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる。
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 筆者も、このウィキが紹介している説は、正鵠を射ているように思う。というのも、ヒンドゥー教の聖典であるバガヴァッド・ギーターで、クリシュナは次のように言っているからである。

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・私は要素(グナ)と行為を配分して、四種姓を創造した。私はその作者であるが、しかも行為しない不変のものであると知れ。(4章-13)
・地上においても天の神々においても、プラクリティ(根本原質)より生じた三要素(グナ)から解放された生類はいない。(18章-40)
・バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、及びシュードラの行為は[それぞれの]本性より生じた要素に応じて配分されている。(18章-41)
・寂滅、自制、苦行、清浄、忍耐、廉直、理論値と実践知、信仰。以上は本性より生ずるバラモンの行為である。(18章-42)
・勇猛、威光、堅固(沈着)、敏腕、戦闘において退かぬこと、布施、君主の資質。以上は本性より生ずるクシャトリアの行為である。
・農業と牧畜と商業は、本性より生ずるヴァイシャの行為であり。シュードラの本性より生じた行為は、[他の種姓に]使えることよりなる。(18章-44)
・各自の行為にいそしむ人は成就(筆者註:悟り)を得る。自己の行為にいそしむ人がどのようにして成就を見出すか、それを聞くがよい。(18章-45)
・彼(筆者註:ブラフマン或は至高神)から万物の活動があり、彼によってこの全世界が遍く満たさている者、彼を自己の行為により崇拝して、人は成就を見出す。(18章-46)
・自己の義務(ダルマ)の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。本性により定められた行為をすれば、人は罪に至ることはない。(18章-47)
・生まれつきの行為は、たとい欠陥があっても、捨てるべきではない。アルジュナよ。実に、すべての企ては欠陥に覆われているのだ。非が煙に覆われるように。(18章-48)
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 つまり、簡単に纏めると、自分の本性(性格など)に応じて、人は基本的にそのカーストの一員として生を享ける。したがって、クリシュナがそのカーストで定めた仕事にいそしむために人は生まれて来るのだから、それ以外のカーストの仕事を仮にうまくできたとしても、自分のカーストの仕事を捨ててはならない。そのように、自分のカーストの義務を果たすことで人は悟りを得て、次のより良いカーストに生まれ変わる(転生する)のだという意味であろう。これは、ウィキで指摘されている通り、まさに輪廻転生を前提とし、我々には想像もつかないほど長い時間軸に立った考え方であり、特に「人生は一度限り」であると思っている殆どの人には到底受け入れられない考え方であろう。

 但し、ここで注意しなければならないのは、クリシュナは四種姓を定めたと言ってはいるが、それはあくまでも本人の持つプラクリティ(本性)に基づいて定めたものであるとしているのであり、「生まれた家庭のカースト」によるものだとは言っていない。従ってクリシュナの言葉に忠実に従うのであれば、自分が生れた家庭のカーストではなく、本来はその者が持って生まれた「本性、或いは性格」などによって、職業(カースト)が定められるべきなのではないかと思う。
 というのも、別途改めてこの点に就いて詳しく論ずるつもりではいるが、実は、仏教はバラモンの堕落に対するアンチテーゼのような形で起こっているのである。ここでは中村元氏の『ブッダの教え』から、その論拠を引用しよう。先ずは、ブッダが説法を開始する前に起こった、「バラモンの堕落」について、 『スッタニパータ』(南伝大蔵経)から。

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 かつてバラモンたちは名声を持ち、みずからのつとめにはげみ、彼らのいるあいだは、この世の人々は栄え、幸せであった。時代がたつにつれ、かれらに誤った見解が起こった。王族の栄華とその女人たちの装い、駿馬の馬車、広壮な邸宅を見てバラモンたちもかれらのように享楽を得る事を熱望した。そしてかれらは「ヴェーダ」の聖典を編集して王にまみえ、祭祀を行い、供養をなし、多くの財物を布施するよう求めた。こうして富を持つバラモンたちが現れた。・・・ 多くの家畜が祭祀のために犠牲となった。そのために人々の間に九十八種の病がはびこった。さらに王族の争いが起き、シュードラとヴァイシャも争い、夫婦もいさかいが絶えず、みな欲望に支配される社会となってきた。
◇◇◇

 このように、バラモンの堕落は疫病を流行らせたばかりでなく、争いを助長し、皆が欲望に支配されるようになったと伝えている。 そして、ブッダは「真実のバラモンとは何か」を説くため、次のように説いた。

◇◇◇
 われは、[バラモン女の]胎からうまれ、[バラモンの]母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。・・・無一物であって執著の無いひと - かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。全ての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、 - かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。・・・
◇◇◇

以下、バラモンの資質或いは本性に基づく、行動様式が続いて説明されるが、このように清浄な行いにより、身に徳性をそなえた人こそバラモンを呼ばれるべきことを様々に説いている。そして、更に続ける。

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生れによって<バラモン>となるのではない。生まれによって<バラモンならざる者>となるのでもない。行為によって<バラモン>なのである。行為によって<バラモンならざる者>なのである。
行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人(筆者註:ここまではいずれもヴァイシャ)となるのである。行為によって雇人(筆者註:シュードラ)となるのである。・・・
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このようにブッダは、バラモンの家に生まれた者がバラモンなのではなく、行為によってバラモンになるのであると主張し、当時のバラモンを中心としたカースト社会に敢然として挑戦したのである。そういう意味からして、仏教はその説法開始当初から、或る意味で、当時の堕落したバラモン中心の社会を否定する、或る意味で「過激」な教えであったと言える。

その後、仏教がインドの社会の中で、どのようになって行ったかについて、ウィキから引用しておこう。

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紀元前5世紀の仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタは、カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことが出来たが(筆者註:アショーカ王の頃が仏教の全盛期だと理解している)、5世紀以後に勢力を失って行ったため、カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけて行き、カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。
仏教は、衰退して行く過程でヒンドゥー教の一部として取り込まれた。仏教の開祖の釈迦はヴィシュヌ神の生まれ変わりの一人であるとされ、彼は「人々を混乱させるためにやって来た」ことになっている。その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれて行ったと言われる。ヒンドゥーの庇護のもとに生活をすることを避けられなかったためである。
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このように見てみると、インドの社会において、カースト制度は、あのブッダをもってしても永遠に葬り去ることができないほど強くかつ深く、社会全体に根をおろしていたのであろう。そして現在も事情はさして変わっていないのかも知れない。
最後に、同書からガンジーの文章を引用する。英国に留学していた当時の彼の心境から始まる。

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キリスト教徒の敬虔な生活は、ほかの信仰を持つ人の生活が与えてくれなかったと同じように、何もわたしに与えてくれなかった。わたしは、かつてキリスト教徒の間に起こったと聞いている改革と同じことを、他宗徒の生活ででも見つけたのであった。哲学的にいえば、キリスト教徒の諸原理のなかには、何も変わったものはない。犠牲の点からいうと、ヒンドゥー教徒のほうが、はるかにキリスト教徒をしのいでいる。
このように、わたしはキリスト教を完全無欠、あるいは最も偉大な宗教であると考えることはできなかったが、そうかといって、わたしは、ヒンドゥー教も完全無欠で偉大な宗教であるとは信じられない。ヒンドゥー教のもろもろの欠点は、わたしには明らかすぎるほど明らかである。もしアウトカースト制がヒンドゥー主義の一部であるとすれば、それは腐敗した部分か、あるいは無用の長物と言うより他はない。わたしには、数ある宗派やカーストの存在理由が判らないのである。『ヴェーダ』が神から授かった言葉である、というのはどういう意味なのか。それらが神の霊感によるものならば、聖書もコーランもまた、そうではないのか。・・・
◇◇◇

以上の文章を読む限り、蠟山氏がいうように、ガンジーは「カースト制度に絶対反対ではなかった」というより、「カースト」自体が聖典、即ち「神の言葉」で創られたものであることに、大いなる疑問を持ち、非条理を感じていたのではないかと筆者には思え、ここに何らか、一種の救いのようなものを感じる。


PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
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