アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第13章 世界宗教 ⑨ヴィヴェーカナンダ

2011-04-29 07:13:07 | 第13章 世界宗教
二週間に亘ってラーマクリシュナがヨーガ(タントラ)やヴェーダーンタ哲学の真髄を体得したエピソードを説明してきたが、本稿ではそのラーマクリシュナに最も愛された弟子、ナレンドラ(後のヴィヴェーカナンダ)について紹介しておきたい。以下「 」内は、田中嫺玉氏の『インドの光』(同書)からの引用である。

ナレンドラはクシャトリヤの名門、ダット家の長男であり、その母はインド叙事詩に精通した婦人で、父も進歩的な自由思想家で弁護士を営んでいた。18歳でカルカッタ大学の学生であったとき、ある知人の家でのパーティーでラーマクリシュナの眼にとまり、後日一人でカーリー寺院(ラーマクリシュナの居所)を訪れるように告げられる。

ナレンドラは「近代主義、合理主義の洗礼を受け」、「当時世界を風靡した哲学者ハーバード・スペンサーの説を批評して堂々と直接著者に所信を伝え」たほどの知性の持ち主であり、強い宗教的な関心を持ちながらも、「明白な証拠によるのでなければ何事も信じない」タイプの現代的な青年であった。そのため、カーリー寺院でラーマクリシュナの話を聞いても、なかなか納得せず、逆に鋭い質問で師に問い詰めるようなこともしばしばあったようである(同書に書かれたこの間の経緯も非常に興味深い)。以下は、何回目かの訪問の際に起こったエピソードで、同書からの引用である。

「或る日、ラーマクリシュナは不二一元論の哲学に就いて話して聞かせた。しかしナレンドラには理解できなかった。隣の部屋にいって、そこに居合わせた一人の理屈っぽい人物を相手に、タバコをふかしながら話す―“神以外に何ものも存在しないなんて・・・。この水差しも神。このコップも神。見るものすべて、私もあなたも、われわれ皆が神だなんて、およそ信じられますか? バカバカしい!” そして二人で大声で笑った。そこへラーマクリシュナは前三昧の恍惚とした表情で入って来て二人に近付き、やさしくほほえみながら、“二人で何をおもしろそうに話しているの?”と言いざま、ナレンドラの体に触り、そのまま三昧に入ってしまったのである。後にナレンドラは人に語った―。」

「その瞬間、私の心は完全に転回した。全宇宙のことごとくが神に見えた。こんな状態がいつまで続くのかと思いながら、私は黙っていた。家に帰ったが、その状態は変わらない。見るもの全て神であった。食卓についたが、食物も、皿も、給仕している召使も、私と同様に光りかがやく神なのだ! 私は一口二口食べただけで止め、じーっと坐っていた。“どうしたの? なぜ食べないでジッとしているの?” という母の声で、また食べはじめた。あの期間は手足も無感覚になり、ものを食べていても、誰か別の人が食べているような感じがした。食事の最中にねころんでしまったり、何日か平常の倍も食べたりしたが、別に腹もこわさない。母が心配して、“お前、きっとひどい病気にかかっているんですよ”と言ったり、“もうこの子は長いことないかもしれない”などと言っていた。この状態が少し薄らぐと、世界そのものが夢のように思われた。散歩のとき道端の鉄柵に頭をうちつけてみて、本物の柵か、幻なのか試そうとした。手足の感覚がないので、神経麻痺にかかったのではないかと思ったりした。数日の間、私はこの譬えようのない状態から抜けだせなかった。しかし、平常に戻った時、私はあの状態が不二一元論の智識の前ぶれなのだと確信し―聖典に書いてあることは決してでたらめではないと、つくづく思った。あの経験以来、私は不二一元ヴェーダーンタの真理を疑ったことはない」

その後ナレンドラの父が急死し、一家は貧乏のどん底に沈む。ナレンドラは出家を決意するが、師に止められて思い止まる。ナレンドラは家族の生活をかなり心配していたのであるが、それもその後なんとか立ちゆくようになる。
その翌年(1885)4月頃からラーマクリシュナは喉に痛みを感じるようにるが、医者の指示に従わず、讃歌を歌っては人々に神を語り、又三昧に入るという生活を続けたため、とうとう喉から出血し癌であると診断される。
1886年の夏、ラーマクリシュナの病気はいよいよ重くなり、立ちあがる力もなくなるが、或る日ナレンドラを傍らに呼び、他の者を部屋から出して三昧に入って行く。ナレンドラは体に電流が流れたような感じと共に意識を失ってしまうが、気がつくと師の顔が涙に濡れていた。「今日、私の持っていた力を全部、お前に渡したよ。私はもう、ただの托鉢僧だ。もう何も持っていない。その力で、お前は世界に大きな善をしておくれ。その仕事が終わってから、私のところへ帰って来なさい」
「この時から、師と弟子は一体になったのである。ラーマクリシュナは最後までナレンドラを傍らから離さなかった。ナレンドラは膝の上に師の足をのせて、さすり続けた。師は何度も何度も繰り返して言った―。 “みんなのことを頼むよ。面倒を見てやっておくれ” 8月16日、午前一時二分、ラーマクリシュナは生涯の愛人、カーリーの名を澄み切った声で三度となえ、横になった。最後の三昧―頭髪が逆立ち、眼は鼻頭に釘付けになり、顔は歓喜に輝いた。そのまま、この神の如き人は、五十年の生涯を人類に与え尽くし、彼は枯葉のようになった体を捨てて帰って行った。」

以下は、ラーマクリシュナ亡きあとのナレンドラの活躍である。

「・・・一軒の家に、師の教えを世界に宣布する決心をした若きし獅子たちのグループは集まった。ナレンドラは彼等に瞑想と勉学の指導をし、討論のためには比較宗教、哲学、科学、歴史等の諸問題をとりあげ、彼等の知性を高め、見識を拡げることに努力する。後に彼がヴィヴェーカナンダという名で世界に披歴する壮大な思想の大部分は、既にこのときに準備されていたのである。やがて、師の遺骨も守るため一人だけをのこして、彼等はインド全国に向かって托鉢修行の旅に出て行った。ナレンドラはそれから約6年間に亘って、ある時は山中で瞑想思索に過ごし、また町へ出て上下あらゆる階級の人々に接して自分の智識を教え、かつ実に多くの事柄を学んだ。その足どりはヒマラヤからコモリン岬にまで及び、仏教を学ぶためチベットを訪れたとも言われている。彼は行く先々で一目につき、接した人に生涯忘れられない強烈な印象を与えた。彼のためにならどんなことでもしようと申し出る讃仰者や友人たちが次々と現れたが、なかでもマドラスの献身的な弟子の一団と、ケトリのマハラージャはその代表的なものである。」
「1893年に、アメリカで世界宗教会議が催されるという話が伝わったとき、彼の弟子や友人たちは資金を集め、彼にその会へ出席するようにと勧めた。ケトリのマハラージャが船の切符をとってくれ、美しい緋の衣と、ヴィヴェーカナンダという法名をはなむけてくれた。別にその名前が特に気に入ったわけでもなかったのだが、数ヵ月後にはアメリカとインドであまりにも有名になってしまったので、生涯この名を変更することができなかったのである。会議の開催日時や参加条件も問い合わせず、彼は自分の都合の良い時に出かけて行った。・・・ 道中であらかた旅費を使い果たし、開催地のシカゴに着いてみると出席者の申込期間はすでに過ぎていた上に、名の知れた団体の身元保証がなければ参加できないという。マドラスに電報を打ってある宗教団体に援助を頼んだが、相手にされない。やむなく運を天に任せ、僅かに残っていたドルで汽車の切符を買って、生活費が安いと聞いていたボストンに向かった。ところが、車中で、彼の容姿と応答が一人の金持ちの婦人を惹きつけ、その婦人は彼の話をきいてハーバード大学のライト教授に紹介する。教授はこの無名の青年の天才に驚嘆し、さっそく会議の委員長に手紙を書いて、彼をヒンズー教代表として出席させるべきだと主張し、彼にはシカゴまでの乗車券を買い与え、宿舎の手配までしてくれたのである。」

「宗教会議は9月11日から27日まで続いた。その間にヴィヴェーカナンダは約10回ほど講演したが、第一回目の講演からこの招かれざる無名の一青年はたちまち満場の人気をかっさらった。1.8メートルを超える筋骨たくましい体に緋の衣をまとい、漆黒の髪に黄金色のターバンを巻き、オリーブ色の顔は美しく気品に満ち、やや突き出た大きな目―その眼差しの魔力には何人も抵抗できない。そして口を開けば耳新しいヒンズーイズムを紹介し、大胆にも“あらゆる宗教の真理は同一である”と論ずる声はチェロのように荘重に響いて数千の聴衆を魅了する。他の代表たちは自宗の教義について自宗の神について語ったが、ヴィヴェーカナンダは万人共通の神を語り、人種、国境、宗派を超えた普遍的福音(ユニヴァーサルゴスペル)を説いた。」
「当時の新聞は、“ヴィヴェーカナンダは疑いも無く宗教会議における最大の人物である。彼の話を聞いた以上は、この学識ある国民のもとに宣教師を派遣することの愚かさを痛感する”といって、彼等の宣教師の無智とヒンズーイズムの高さとの対照を正直に告白している。この宗教会議を開催した意図が何れにあったにせよ、東洋の一角から現れたこの“異教徒”が会議全体の空気を指導し、あらゆる宗教の間の平和と愛情を確認し、普遍的な宗教真理を確立し、会議に重要な一大結論を与えたことは、恐らく主催者側の予想しなかった成果であろう。彼は堂々と論じた。」
「“キリスト教徒はヒンズー教や仏教に改宗すべきではない。ヒンズーや仏教徒はキリスト教に改宗すべきではない。しかし各人は、他の人々の精神を同化しながらも自分の個性を保存し、かつ生長の法則に随って生長しなければならない・・・。もし宗教会議が世界に対して何か示したことがあるとすれば、それはこういうことである。即ち、この会議は、神聖、純粋、および慈悲ということは世界におけるどの教団の専有物でもないこと、および何れの組織も最も高い人格を持つ男女を生んだということを、世界に対して証明したのである。この証拠があるにもかかわらず、若し誰かが、ただ自分の宗教のみが正しくて永久に存続し、他の宗教は破滅すると夢想しているならば、私はその人を心底から憐み、彼にこういう事実を指摘しよう。それは、たとい誰が抗議しようとも、いずれの宗教の旗幟の上にも間もなく、‘互いに扶け合い、戦わず’‘理解して、破壊せず’‘調和して、不毛の論争をせず’とかかれるであろうということである”」
「会議終了後、彼はアメリカ各地及びヨーロッパで、インドの文化と哲学、宗教について講義講演し、1896年2月にはニューヨークでおこなった“わが師”という素晴らしい講演で、ラーマクリシュナを全世界に紹介した。そして師の体験と言葉を欧米人に理解しやすいように西洋哲学の論法を付加しながら合理的、組織的に敷衍していったのである。」

「・・・彼の名声が高まるにつれて、宗教者間の、世の常の嫉妬に拠る中傷は絶えなかったが、さし昇る太陽の如き人格は各方面から優れた人々を吸い寄せ、行く先々で誠実な友人や献身的な弟子を得た。この人たちはその後の彼の事業の最も積極的な助力者となり、また各都市にヴェーダーンタ協会が設立されて、欧米における“永遠の真理(サナータダルマ)”宣布の基礎が次々と出来ていった。」
「1897年1月15日、ヴィヴェーカナンダは数名の西洋人の弟子たちを従えて、凱旋将軍の如くにコロンボに上陸した。国民的英雄として到るところ群衆から熱狂的な歓迎を受け、ある藩主などは彼の車にすがって道中の供をしたほどである。イギリスの植民地として奴隷状態にあったインド国民は、彼の大成功を見て狂喜し、自国の文化に対する自信を取り戻した。以後インドの青年はその宗教の如何を問わず、こぞって『ヴィヴェーカナンダ講演集』や著述を愛読し、彼の獅子吼に拠って精神を鼓舞され、これが独立運動の心的底流となったことは前にも述べた通りである。」
「同年5月1日、ラーマクリシュナ・ミッションが設立された。このミッションは、ラーマクリシュナが身を以って表現した精神修行の方法を、カルマ・ヨーガ(奉仕行)、バクティ・ヨーガ(信愛行)、ジュニャーナ(ギャーナ)ヨーガ(智識行)、ラージャ・ヨーガ(精神統御)の四つの道を通して行うことを定め、僧院の人々を錬成して、ラーマクリシュナの生涯と教義に基づいてヴェーダーンタの宗教を実践し宣伝せしめ、異なれる諸宗教の信者を和合せしめ、階級、民族、国境を超えて悩める人類に奉仕することを目的とした。」
「政治に一切関与しないというのも、このミッションの重要な特徴である。東西の信者からの寄付で、広大な敷地を購入して僧院を建て、永久資金を備えた。その支部は全インドに欧米に年を追って増加し、慈善事業、教育、出版事業は拡大の一途をたどり現在に至っている。」

「1901年日本の岡倉天心が仏教僧織田得能と共に来て、日本で催される宗教会議に出席してくれるよう懇請したが、ヴィヴェーカナンダはその当時既に過労のため健康を害しており、遂に日本に行くことは出来なかったが、岡倉とは互いに意気投合し、二人でブッダガヤ(筆者註:釈迦が悟りを開いたと言われる聖地)に参詣した。」
「“師が臨終近くに、お前に私の一切の力を与えた、と言ったその‘力’が私を働かせつづけて仕事が完成するまで休ませてくれない”と周囲の者に言っていたヴィヴェーカナンダは、ミッションの組織をゆるぎないものにしてから、39歳の若さで世を去った。弟子たちに、“もうこれで十分だ。私は千五百年分を与えた”と話していたという。」

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