アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第13章 世界宗教 ⑫プルシャとプラクリティ

2011-05-20 20:33:22 | 第13章 世界宗教
筆者がババジのクリヤー・ヨーガの教えに感銘を受け、過去半年間に亘ってその実習を行ってきたことは、本ブログを読み進んできた方にはお判り頂いているものと思うが、一方で本章のタイトルである世界宗教(普遍宗教)を提唱しているラーマ・クリシュナや、ヴィヴェーカナンダに就いても相当の紙幅を割いて説明してきている。そこで、インド哲学に精通した読者のなかには、筆者は一体どちらの立場を支持しているのか良く判らないと考えている方も居るのではないかと思う。というのも、ヒンズー教(六派哲学)の中における夫々の学派は、明らかに異なっていると思うからである。即ち、甚だ大掴みながら、ババジのクリヤー・ヨーガはヨーガ学派(サーンキヤ学派)の一派に分類され、ラーマ・クリシュナ・ミッションの教えは、ヴェーダーンタ学派の教えを中心に構成されていると思われる。そこで、これらの異なる教えが、現在筆者の中でどのように整理されているのか、簡潔に説明しておく必要がある。

そこで本稿では、先ずはババジのクリヤー・ヨーガが拠って立つヨーガ学派(サーンキヤ哲学)の特徴的な考え方である、プルシャ(純粋精神)とプラクリティ(根本物質)に就いて説明しておきたい(因みに、以前第12章⑩にて説明したバガヴァッド・ギーターを読み進めるに際し、予めこの概念を理解しておくと判り易いと思う)。以下、島岩氏の『シャンカラ』からの引用である。

「インド哲学における因果論は、基本的には世界原因とその結果である世界の関係を説明する理論である。それには三種類あり、そのそれぞれが三種の宇宙と対応している。先ず第一は因中有果論である。これは原因の中に結果が既に存在しているとする学説である。例えば、粘土から壺ができたとすると、壺は、それが発生する以前にすでに、まだ壺という形をとっていないものの、粘土の中に内在していたと考える。すなわち逆に言えば、壺とは、壺という形に変容した粘土にすぎないのだと考えるのである。つまり、粘土と壺は質的に連続しているのである。この因果論に基づくのが、六つの哲学学派の中ではサーンキヤ学派とヨーガとヴェーダーンタであり、また後世のタントリズムもそうである。だがその中でも、代表的なのがサーンキヤ学派である。」
「サーンキヤ学派は、世界を根本物質(プラクリティ)から展開したものだと考えた。世界原因であるこの根本物質は、純質(知性・輝き)と激質(経験・動力)と暗質(慣性・暗黒)の三つの要素(筆者註:グナ)からなる。この三要素が均衡状態にあるときには、世界がいまだ展開を始めていない、根本物質の未顕現な状態である。世界への展開は、この三要素の均衡が崩れたときに起きる。均衡が崩れる契機は、純粋精神プルシャが根本物質を見つめる視線である。プルシャに見つめられると、激質(動力)の働きが活性化されるのである。また、プルシャに見つめられて開始される世界展開は、プルシャの独存という救済論的目的を持ったものである。即ち、根本物質(プラクリティ)は、プルシャが世界の展開を観照し、そののち本来の独存状態(根本物質と全く無関係な状態)に戻れるように、世界へと展開していくのである。つまり、根本物質を見つめる前の、根本物質とは無関係な状態のプルシャが、無自覚の悟りの状態にあるのだとすると、それに世界の展開を観照させるという形で迷い(筆者註:ヒンズー教でいうマーヤー)の世界を一度くぐりぬけさせたのち、プルシャを自覚的な悟りへと導こうとして、根本物質は世界へと展開するのである。」

「その展開の過程は次の通りである。まず根本物質から統覚機能が生ずる。次に統覚機能から自我意識が生ずる。前者は人間の真理・精神・認識活動の根源をなすもので、後者は“私”という意識の根源をなすものだが、まだ個体へと分かれる以前のものである。個体と対象世界へと分かれるのは、その次の段階である。自我意識の中で、純質(知性・輝き)の要素が強いときには五感覚器官(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と五行動器官(発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官)と両者の連結点となる思考器官という、個体を構成する要素が展開してくる。他方暗室(慣性・暗闇)が強いときには、先ず五微細元素(音声・感触・色形・味・香)という自然界の種子が展開し、それからさらに自然界を構成する五大元素(虚空・風・火・水・地)が展開する。なお激質は、このような展開を引き起こす動力である。このように、世界の展開を引き起こす動力も世界を形成する質料(素材)も共に、根本物質(プラクリティ)の中に含まれているという意味で、根本物質は世界の動力因であると同時に質料因でもあるのである。これがサーンキヤ学派の展開説である。そしてこの展開説では、それぞれ後に展開してきた結果は、まだ顕現しない状態で原因の中に内在していたと考えられており、世界とは世界という形に変容した根本物質に他ならないのである。」

「このサーンキヤ学派の展開説は、現代の我々には奇妙に思えるものである。だが、前章で述べたように、この説をヨーガ学派も共有していたということを思い起こしていただきたい。つまり、この展開説はヨーガの瞑想を前提として理解すべきなのである。即ち、その意味するところは次のようなことである。私は本来は物質世界とは無縁の純粋精神プルシャである。だが現実には、物質的世界の中に束縛されて存在している。それは右記(上記)のような世界の展開の中に巻き込まれてしまったからだ。だとすれば、純粋精神プルシャが巻き込まれた世界の展開の過程を逆にたどれば、私は物質的世界の束縛から解放されるはずである。おそらくこのように考えたのであろう(筆者註:ヴィヴェーカナンダの『ラージャ・ヨーガ』においても、同様の説明がなされている)。そのため、ヨーガの瞑想の中で世界の展開の過程をたどり、その後その過程を逆にさかのぼることによって、プルシャの独存(解脱)へと至ろうとしたのである。このように、現代の我々には奇妙に思えるサーンキヤ学派の世界展開の過程は、ヨーガの瞑想を前提として作り上げられたものなのである。」

以上の文章を読んだだけでは判り難いかも知れないが、重要な点について筆者流の解釈を試みたい。

先ずこの説の最も重要な点は、世界をプルシャ(純粋精神)とプラクリティ(根本物質)に分けた点であり、これは画期的な見解である。しかし、上記の島氏の説明で抜け落ちているのは、果たしてプルシャとプラクリティは両方とも実在か否かという議論である。筆者はサーンキヤ哲学を深く勉強したわけではないが、これはしばしば二元論として引用されることが多いので、その意味では夫々が実在と考えられているのではないかと思う。すると、この世界も肉体も心も目に見える物質も全てプラクリティから構成されているのであるから、実在であるということになる。しかし、筆者は、これを二元論としてではなく、一元論的に解釈すべきなのではないかと思っている。即ちプルシャ(神)のみが実在であり、プラクリティはあくまで実在から展開した‘現象’に過ぎないと考える。つまり万物がそれから展開したというプラクリティ自体も、元をただせばプルシャから展開している(或いは投影されている)と考えるのである。そうすれば、この世界はプラクリティから構成されているが、プラクリティもその大本をたどればプルシャから展開したものであるから、それ自体はあくまでも‘現象’であり、極論すれば幻影(マーヤー)だと言い切って差し支えないのである(註:『ラーマ・クリシュナの福音、下巻』P26には、“神が実在、他のすべては幻である、と見る者だけが利口なのである。”との言葉が記録されている。又、筆者も第6章‘投影された世界’で説明した通り、この世界はあくまでも投影されたものであり、実在ではないとの立場を一貫して取っている)。

以上から、論理は次のように展開して行く。即ち次に重要な点は、サーンキヤ哲学においては統覚機能や自我意識(これには五感も含まれると考える)もプラクリティであると言っている点である。即ち、これらがプラクリティであるということは、プルシャ(実在)ではないのであるから、自我意識は勿論、統覚機能ですら“実在”即ち“真我”(アートマン)ではないということになる。シャンカラの不二一元論(本章⑤を参照)を借りれば、自我意識や統覚機能は、あくまでもアートマンの光が顕現(アーバーサ)し、それを知覚主体が自分自身だと勘違いしている状態であり、これが相互附託(無明)なのである。尚、般若心経に出てくる“無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色聲香味触法、無眼界乃至無意識界”はこのことを説明しているものだと筆者は考える。それらは全て在るかの如く見えながら、実際には‘無い’のである。
そして、『ヨーガスートラ』の偉大な著者、パタンジャリも言っている通り、ヨーガの要諦は、自分の知覚主体すら真我では無いことを認識し、心の動きを止めることで自己即ちアートマンがプルシャと一体化することである(因みに、これはヨーガスートラI章の第2節と3節と同じ意味である。この部分はかなり難解であり、別途改めて詳しく説明する必要があると思う)。

もう一つの重要な点は、プラクリティを三つの構成要素(グナ)即ち純質(サットヴァ)、激質(ラジャス)及び暗質(タマス)に分けている点である。これは逆に言うと、殆ど全てのものがこれら単独或いはこれらが混ざり合った形で顕現しているということであり、それは我々人類においてすら同様であるということである。そして、この考え方が或る意味で、古来インドにおいてはカースト制度にも影響しているとも言えるので、その部分を上村勝彦氏の『バガヴァッド・ギーター』から引用する。

「バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの行為は(それぞれの)本性より生ずる要素(筆者註:グナ)に応じて配分されている。」(ギーター第18章41節)に対する注釈が以下である。
「ラーマーヌジャ(筆者註:南インドの聖者、哲学者で、限定非二元論の創始者)は、バラモンの本性からは純質が他のグナより優勢なものとして生じ、クシャトリヤの本性からは激質が他のグナより優勢なものとして生じ、ヴァイシャの本性からは暗質が他のグナより優勢なものとして生じ、シュードラの本性からは暗質がこの上なく優勢なものとして生ずるとする。・・・個我は三グナよりなるプラクリティと結びついて本性を決定する。」

そして面白いことに、このように‘そもそも人は(グナの構成要素や配分が異なる為)夫々その本性が異なる’という認識から出発しているのがヴィヴェーカナンダの説く普遍宗教なのであるが、その説明は次回に譲ることとし、簡単に本稿の纏めに入りたい。

ヨーガ学派の考え方と限りなく近いサーンキヤ哲学に於いて、プルシャとプラクリティを分けて考えること自体、ヴェーダーンタ哲学の不二一元論と一見矛盾しているようにも思えるが、筆者の考えはプルシャのみが実在で、プラクリティはプルシャの展開したものであるとの立場である。即ち、プラクリティ(或いはそのグナの組み合わせ)として多様に展開している世界は現象(或いは幻影)に過ぎないもので、そう云う意味では実在はプルシャ(ブラフマン)のみであり、換言すればこの世界も含め、在るかの如く見える全ては一者(神)の展開である。従って、ヴィヴェーカナンダの説を支持しながら一方でヨーガを実習することは筆者の中では何ら矛盾するものではない。

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