アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第13章 世界宗教 ⑧ラーマクリシュナとヴェーダーンタ

2011-04-22 06:02:40 | 第13章 世界宗教
本章③“インド哲学の中のヨーガ学派”で引用した島岩氏の『シャンカラ』には、インド思想史の概要が示されており、それに拠れば、西欧近代との出会いを契機とした19世紀インドにおけるヴェーダ聖典への回帰の動きは“ヒンズー・ルネサンス”と呼ばれている。この運動としては、ヒンズー社会の近代的改革(カースト差別や偶像崇拝の廃止)に貢献したアーリア協会とブラフマ協会が有名であるが、それらとは別に、「純粋に宗教的世界に没入しながらも、当時の社会に大きな影響を与えた思想家も存在していた」として、次のように続けている。

「たとえば、東インドのラーマクリシュナとオーロビンド、南インドのラマナ=マハルシなどがそうである。そして、彼等の思想の背後に共通して認められるのが、シャンカラ的な一元論(不二一元論)なのである。ラーマクリシュナ=パラマハンサ(1836-86)は、自らの神秘的体験を通して、シャンカラ的な不二一元論とイスラム教とキリスト教の精髄を会得して、“全ての宗教は究極的には一つである”とする普遍主義的な教えを説いた。その教えは、弟子のヴィヴェーカナンダ(1863-1902)によって欧米にも広められ、彼が設立したラーマクリシュナ・ミッションは、全世界に広がる100以上のセンターで、現在でも活発に活動を繰り広げている。オーロビンド=ゴーシュ(1872-1950)は、シャンカラ的な不二一元論に基づいて、絶対者ブラフマンを有・知・歓喜の統合されたものと考え、この絶対者をヨーガによって体験することによって、自己が変容して超人になれると説いた。そして、このような超人が数多く生まれることで、世界が救済されるのだと考えたのである(オーロビンドに就いては、『ババジと18人のシッダ』にも比較的詳しく説明されている)。ラマナ=マハルシ(1879-1950)は、シャンカラ的な不二一元論を学ぶことなく、自らの神秘体験を通して独自にシャンカラ的な一元論思想に到達し、インド内外の多くの人々に影響を与えた。・・・」

そこで本稿においては、不二一元論の要諦とラーマクリシュナがそれを学んだ経緯を、再び田中嫺玉氏の『インドの光』から紹介しておきたい。

「ここにトータプリという名の筋骨たくましい苦行者がいた。パンジャブ州の人である。ヴェーダーンタの哲理を体得すべく、数十年の修行の末、ついに無分別三昧(ニルヴィカルパ・サマーディ)に入ってブラフマン智を獲得 ― 即ち大悟解脱した。彼の奉じたのはシャンカラの説く不二一元ヴェーダーンタ哲学で、これによると、宇宙の根本原理ブラフマン(梵)のみが実在であり、世界は迷妄、錯覚にすぎない、そして自己の本性即ち真我(アートマン)は、根本においてブラフマンと同一である(梵我一如)という。」

「万有 それによりて生じ
 生じたるもの それによりて住し
 万有 滅して それに帰す
 それ 即ち ブラフマンなり (『タイッティーリヤ・ウパニシャッド』3-1)」

「“それ即ち我なり”というのがヴェーダーンタのきまり文句であって、“それ”を悟る為にこの学派は“否定(ネーティ)の道”をとる。一名、知識の道(ジュニヤーナ・ヨーガ)とも云う。真実ならぬものを厳密に識別して、徹底的に捨ててゆく。相対世界の一切を否定し、放棄したぎりぎりのところで、行者の意識は三昧の最高状態である無分別三昧(ニルヴィカルパ・サマーディ)に達し、永遠絶対の実在(サット)・智識(チット)・歓喜(アーナンダ)であるブラフマンに溶け入る。時間と空間は一つになって、誕生と死、原因と結果は夢と消え去る。知るもの、知られるものは円満完全な智慧の大海に流れ入って一味となる。愛するもの、愛されるものは等しく限りなき歓喜の大洋に溶け去る。 - この三昧に入っている間、その人の肉体と精神とは機能を止め、生命の試験には全く反応しない。傍の人から見ると、死体と同じである。無分別三昧を経験した人の意識は、現象の変化にも、苦楽にも、全く反応を示さなくなり、肉体は21日で枯葉のように朽ち果てると言われている。“個”であることを卒業してしまったからである。ただ、人類への特別の使命をもって生まれた人は、この目もくらむブラフマンの高所から日常の意識へと無事に戻ることができる。この人は人類の霊的向上のために活動する。」

「1864年の末ころ、寺院の正面階段を上がってきたトータプリの眼は、一人の男に注がれた。その辺に大勢いる男たちと同じような格好で、階段の隅にボンヤリ座っている男である。顔を見た瞬間、この男こそが自分が獲たブラフマン智を伝授する値打ちがある、と直感した。
“ほう!密教(タントラ)ばやりのベンガルにも、これほどの人間がいたのか・・・”
喜びと驚きにつつまれて、彼はゴダドル(ラーマクリシュナ)に近付き、しげしげと観察した後で声をかけた。
“あんた、好い素質を持っているね。どうだ、ヴェーダーンタの修行をする気はないか?”
ゴダドルはこの背の高いモジャモジャ髪の、裸の男を見上げた。
“わたしは、そういうことをしていいのか悪いのか、わからない。マー(筆者註:カーリー女神のこと)が何でも知っている。わたしはマーの言う通りのことをするだけです”
“じゃあ、マーの所へ行って相談してきなさい。早く!俺は三日しかここにいないからね”
ゴダドルはゆっくり立ちあがって、カーリー堂に入って行く。大実母(マー)は応答えた。
“行って、教えてもらいなさい。あの坊さんは、お前にそれを教えるためにここに来たんだよ”
嬉しそうに承知の返事をする男の顔を見て、トータプリは憐みの微小をうかべ、心の中でつぶやいた。-“マーというのは、カーリーマーの神像のことか・・・。仕様のないやつだ。無智と迷信―このおれがすぐ打ち砕いてやるぞ。” ヴェーダーンタの修行をするには、まず正式に出家入門する必要がある。そこで吉日を卜し、夜が明ける二時間前の吉祥の時間に、五聖樹の杜にある草葺の小屋の前で聖火をたき、その明りの下で儀式は行われた。ゴダドルは親の付けてくれた名前を捨て、この時から、ラーマクリシュナという法名に改めた。そして最高梵(パラブラフマン)に達するために、他のあらゆるものを捨離する誓いの真言(マントラ)を唱える。肉体を構成する五つの元素―五蘊を清浄にする真言。体内の五気を浄化する真言。バラモンの印としてつけていた髪束を刈り、聖糸をはずして聖火にくべ、改めて師から出家(サンニャーシン)の印である黄衣と下帯が授けられる。又さまざまなの尊い真言を唱えて出家入門の式は終了した。こうしてゴダドル改めラーマクリシュナは、一生涯出家として暮らすことになったのである。」
「インドにおいては、出家となった人は、家庭、財産、カースト、装飾、世俗の仕事、金銭及び結婚を放棄する。ラーマクリシュナはこのとき、自分が既に結婚式をあげてしまったことを完全に忘れていたのである。師は弟子に究極の真理を授けはじめた。ヴェーダーンタとは奥義書(ウパニシャッド)の別名であって、奥義書を基礎にした哲学である。木村泰賢博士の著書、『印度六派哲学』のなかから二、三引用してみたい。」

「この思想たるや奥義書の精髄を咀嚼し、諸学派の粋を吸収して出来たもので、極めて微妙優秀な点を含み、大乗仏教の教理と相呼応し、ドイツの唯心論系の哲学と規則を通ずる(筆者註:ドイツの哲学の方がヴェーダーンタから影響を受けたものと思う、13章②を参照)所があり、優に世界思想史における大偉観を失わぬ」(P455)
「全宇宙を貫通する絶対的生命と吾ら自身の生命とが根底に於いて連なっているという大自覚の上に立って、しかもそれを生活の上に表そうとする努力である。故にこの点よりすれば、梵(ブラフマン)より万有が顕れて来る次第を説くのはただ理論上のことで、実際は寧ろその逆に、万有は梵を最終原因(理想の標的)として、その方に進み行く経過を説いたものと見るところに真の人生観上の意義が存すといわねばならぬ。この意義において吾人はタゴールの見解を甚だ面白く思う。“梵(ブラフマン)は梵で‘ある’。彼は完全に対する無窮の理想で‘ある’。されども吾人は未だ真にあるべき吾人の地位に至らぬ。吾人は不断に真と‘ならね’ばならぬ。不断に梵と‘ならね’ばならぬ。この‘ある’ことと‘なる’こととの間には愛の無限の奏楽あり。しかしてこの秘密の底に創造の限りなき進行を支えるあらゆる真と美との根元がある” ヴェーダーンタ思想が今なおインドの信仰界を支配し、進んで世界の光となろうとする実際的意義もここにあると解せねばならぬ。」(P488)

「トータプリはラーマクリシュナに言った。“ブラフマンは、時間、空間、因果律を超越し、永遠に清浄、永遠に目覚めている唯一の実在である。それは絶対の‘真理(サット)・智慧(チット)・歓喜(アーナンダ)’である。これのみが唯一つの実在だ。その他のものはすべて肉体も心も我も迷妄のあらわれである。現象の存在―全ての名と形は無明(本源的無知)の織りなした幻影に過ぎない。故に、最高の三昧においては、時間、空間、名と形のかけらなりとも感知しない。どんなものでも、いやしくも名と形にしばられているものは決して真の実在ではない。それを捨てよ。名と形の檻を、強き獅子となって打ち破り、出て来い! お前の本性である真我(アートマン)に深く沈潜せよ。そして三昧の中で‘それ’と一つになれ。そのときは名と形で出来ている宇宙は消滅して真空となり、微小なる我は無限大の我に融合する。そしてお前は直ぐに、完全円満なるブラフマンと自分の本性(アートマン)とが同一であると覚るであろう”」
「ラーマクリシュナは師の指示に従って、その精神をあらゆる感覚の対象から斥け、自分自身の真空神聖なる本性に集中すべく瞑想の座に着いた。彼はすぐに全ての事物から精神を切り離す。この程度のことは彼にとっては簡単であった。だが・・・、その先、どんなに努力しても“無相の大実在”なる真我(アートマン)に体面することができない。いま一歩というときになると、必ずあの馴染み深いカーリーマーの光輝く美しい姿が現れて、にっこりとほほ笑むのである。何度かやり直ししてみても同じであった。彼はがっかりして師に告白した。 “だめです。わたしには出来ません。どうしてもマーが・・・” “なに、出来ない? バカ! お前は、するんだ、どうしても、そうするんだ!” 師は近くに落ちていたガラスの破片を取り上げ、弟子の眉間につきたて、 “それ、ここに精神を集中しろ!” と命じた。 その雷のような叫びにはげまされて、こんどは必至の全力をふりしぼって瞑想し、ついに、カーリーマーの姿があらわれるや智慧の剣を持って真っ二つに切り裂いた。彼の精神を支えていた最後の足場が無くなり、たちまち彼は“無相の実在”の底無き深みに溶け入り-無分別三昧(ニルヴィカルパサマーディ)に入った-。“宇宙は消滅した。空間それ自体が最早無い。はじめのうちは、思想の影が精神の暗い深みのなかに浮かんでいた。やがてこれも融け去り、あとには我の意識の単調な鼓動が残った。それも止まった。魂はアートマンの中に没した。二元論は消えた-言葉を超え、思想を超えて、二なき一、ブラフマンに到達した”」
「師のトータプリは四十年の苦行をして、この境地に達した。この師の指導によって、弟子はたった一日で同じ高みに上がった。三日の間ラーマクリシュナは無分別三昧に入っていた。トータプリは讃嘆し驚愕し、茫然としてこの弟子の、屍のように身動きもしない体を見守っていた。三日後、師の助けをかりて、弟子の心は相対界に降りて来た。トータプリは言った。 “あんたは、もう私の弟子ではない。勝れた友だ。”」

「・・・およそこの二人の見真(神)者はまことに対象的であった。トータプリは体も精神も鉄のように強く、天性の智者である。シャンカラの説く正統的ヴェーダーンタの教理が、彼にとっては唯一至上の真理であった。“真に実在するものは一なる超越意識=絶対精神のみであり、これをブラフマンと呼んでも真我(アートマン)と言ってもいい。そのほかは、生物も世界も神も一切は存在しない。在るかの如く見えるのは無明(本源的無知)の織りなした迷妄の影である。こういうものについて、ああだこうだと‘ある’かの如く議論するのがそもそも愚かなことであって、ただ‘消え失せろ’と一括すればいいのだ”」
「だから彼は、情熱とか欲望とかいう迷いのために苦しむ人間に対して、一片の同情も示さない。もちろん、寺の行事や勤行のようなものに何の価値も認めなかった。余計な事をする暇に、真に実在(あるもの)を見よ。そのまま円満完全にして清浄なる自己の本性に精神を集中せよ!無分別三昧を通してブラフマン智を体得したラーマクリシュナが、その後もまだ毎日いそいそとカーリー堂に行き、神前で手を拍ちながら称名するのを見て彼は笑った。“今更、何をしているのかね。もういいかげんに、くだらん真似はやめたらどうだ” だがラーマクリシュナは止めない。相変わらず、美しい甘いこえで大実母(マー)を讃える歌をうたう。彼は導師(グル)のトータプリと違って、体もやせて弱く、その精神はまことにデリケートで、わずかなことにも敏感に反応する。彼はカーリーマーのお蔭でブラフマン智を得たのだと信じている。マーがグルをここへよこしてくれ、ヴェーダーンタを習えと言ってくれたのだ。」
「ラーマクリシュナは無分別三昧によって、ブラフマンとカーリーが一体であることを大悟したのである。ブラフマンとカーリー即ち造化力(シャクティ)との関係は、‘火’と‘燃える力’のようなもの。牛乳と、牛乳の白さのようなもの。離れては存在しえない。蜘蛛は自らの体内から糸を出して網を張り、そこに住んでいる。カーリーは宇宙を吐き出し、また吸い込む。彼女は宇宙となり、あらゆる生物となって現れ、永遠に遊戯(リーラ)する。彼女の遊戯(リーラ)は、現象(マーヤー)は千差万別一つとして同じものはなく、千変万化一時も休みなく活動している。解脱した魂―見真した聖者でも、肉体を持っているかぎり、わずかでも‘我(アハン)’の意識があるかぎり、この相対界の女帝、カーリーの支配下にある。トータプリは彼女に宣戦を布告し、正面から闘いを挑んで、征服したつもりである。ラーマクリシュナは彼女を敵にまわすどころか、味方にし・・・、いや、母として慕い、尊敬し、賛めたたえ、その無限の美を楽しむ。何もかも捨てて、全身全霊で彼女を愛することによって、彼女と一体になり、ブラフマンに溶け込む。」

「・・・間もなく彼(トータプリ)は赤痢にかかってしまう。いままで病気などしたことはなかったのに、パンジャブ育ちの体には、はじめて滞在するこのベンガルの気候風土は適応の限界を超えていたのであろう。病は日増しに重く、肉体的苦痛のため、どうしてもブラフマンに精神を集中することができない。トータプリは自分の肉体に対して腹を立てた。解脱した魂にとっては、肉体などあっても無くてもよいのだ。こう邪魔になっては捨てた方がよろしい。彼は肉体をガンジス河で溺死させようと決心し、河の中へ入っていく・・・。ところが、どうしたことか河の水はいつまでたっても膝より深くならないのである。向こう岸近くまで歩いて行って茫然として立ち止まり、振り返ったときには、この勇ましい大智者はもう、肉体を溺死させようとする意志も力も持たなかった。このとき、彼はラーマクリシュナの言っていることをはっきりと理解した。彼はブラフマンと造化力(シャクティ、或いは創造現象)が一つのものであることを認めたのである。その夜、彼は造化力(シャクティ)の権化であるカーリーマーを瞑想して過ごした。“ブラフマンの中には汝もなく我もなく神もない。それはあらゆる言語や思想を超越している。しかし、相対性のごく小さな粒でも残っている以上は、言い換えれば、どんなに僅かでも‘我(アハン)’の意識がある間は、絶対者は思想と言語の内部にある。精神の範囲内にある。そしてその精神は宇宙の精神・意識に従属しているのだ。この一切知の宇宙意識が、ラーマクリシュナにとってはカーリーマーであり、神なのである”」

「翌朝、トータプリはラーマクリシュナと共にカーリー堂へ行き、大実母の像の前にひれ伏した。赤痢は洗い流したようにさっぱりと治っていた。彼はベンガルに来て、ラーマクリシュナと十一カ月共に暮らしたことによって、一段と高く明るい境地に達したのである。1865年の末ごろ、トータプリは、もと門人であり、友であり、終いには内心、師とも思っているラーマクリシュナに別れを告げ、自分の旅を続けた。」

「実在(それ)を不動のものとして考えるとき、わたしはそれをブラフマン(梵)と言い、またプルシャ(神我)、無人格的神と名付ける。それが創造し、維持し、破壊する-即ち活動すると考えるとき、造化力(シャクティ)、現象(マーヤー)、またはプラクリティ(原自然、大生命力)、人格的神と名付ける。一方なくして他方を考えることはできない。無人格的なものと人格的なものは同じ実在であり、たとえば乳とその白さ、ダイヤモンドとその輝き、蛇とそのうねりのようなもの。宇宙の大実母とブラフマンは一つである。」

尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。



最新の画像もっと見る