アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第13章 世界宗教 ⑭カルマ・ヨーガ

2011-06-03 06:00:00 | 第13章 世界宗教
ヒンズー教徒の人生の送り方のモデルとして、四人生期という考え方がある。島岩氏の『シャンカラ』に拠ると、四人生期とは学生期、家住期、森棲期、遊行期のことで、学生期とは師のもとで学生としてヴェーダ聖典を学び、ダルマを修得する期間、そして家住期とは、学生期を終えた後、結婚して家庭の祭火を守りながら、家長として生活する期間である。次に森棲期は妻と共に、或いは一人で森に棲む期間、遊行期は世俗を離れて一人で遍歴する期間である。これらは、人生の中では隠居(或いは出家)の時期と対応している。
ところが、ヴィヴェーカナンダの『カルマ・ヨーガ』(以下、同書)によると、「インドにおける人生の四つの段階は後世になって、家住者と出家者の二つに省略されました。家住者は結婚して市民としての義務を遂行します。後者の義務は彼のエネルギーを完全に宗教に、神を説き神を礼拝することに、捧げることです。」とされている。
ということは、現代を生きる多くの人々にとって、出家者になるという選択肢は殆ど無いのであるから、家住者として如何に生きるかが最も問題になるのであり、その為の指針を示したのが同書であると言える。因みに、同書はヒンズー教の聖典、バガヴァッド・ギーター(以下、ギーター。第12章⑩参照)に含まれている真理の教えをそのまま現代語で表現したもの、と言われている(同書‘まえがき’より)。それではヴィヴェーカナンダ(以下、著者)の説くカルマ・ヨーガとはどのようなものなのか、同書からの引用に拠って説明して行こう。先ず著者は人の‘性格’についてこのように説明している。

「快楽と苦痛とが魂の前を通り過ぎるとき、それらは異なる絵姿をその上に残し、これらの印象の組み合わせの結果が、人の‘性格’とよばれるものとなります。誰のであれ、人間の性格を取り上げるなら、それは実は、様々の性質の集合体、つまりその人の心の傾向の総計に他なりません。皆さんは、不幸と幸福がその性格の形成の等しい要素であることを見出すでしょう。善と悪とは性格形成には等しい役割を持っており、ある場合には、不幸は幸福よりも偉大な教師であります。私はあえて言います。世界が生んだ偉大な人格を研究すると、大方の場合、幸福よりもっと多くを教えたのは不幸であったことが、富よりもっと多くを教えたのは貧しさであったことが、称賛よりもっと多く、彼等の内なる火を燃え立たせたのは打撃であったことが、見出されるでしょう。・・・これら全ての打撃を集めたものが、カルマ、つまり働き、行為、と呼ばれているのです。魂に与えられる、心と肉体のあらゆる打撃―いわばそれによってそこに火がつけられ、それによってそれ自らの力と知識が発見されるのですが―それがカルマ、この言葉が最も広い意味に使われた場合のカルマです。・・・この世界に我々が見る全ての活動、人間社会に見られる全ての働き、我々の周囲にある全ての働きは、単に人の思いの表現、意思の表れに過ぎません。機械または道具、もろもろの都市、船舶又は軍艦、これらすべては単に、人の意思の現れです。そしてこの意思は性格から生じ、性格はカルマによってつくられます。カルマの通りに意思の表現はなされるのです。・・・この全ては、カルマすなわち働きによって決定されます。人は、自分で稼ぐのでなければ何一つ、手にいれることは出来ません。・・・馬鹿者が世界中の書物を買い集めて自分の書庫に並べたとしても、彼は彼相応のものしか読むことはできないでしょう。そして彼の読めるものは、カルマから生まれます。・・・我々のカルマが、我々が、わがものとし得るもの、理解し得るものを決定するのです。自分の今の状態に対する責任は自分にあります。・・・もし自分の状態が過去の行為の結果であるなら、当然、自分が望んでいる将来の状態は、自分の現在の行動によって生み出されるはずです。ですから我々はどのように行為すべきか学ばなければなりません。」

「皆さんはおっしゃるでしょう、“どう働くか、などということを学んで何になるか。この世では誰も彼もが何とかかんとかして働いているではないか”と。しかし、エネルギーをチビチビ浪費してしまう、というようなこともあります。カルマ・ヨーガについて、ギーターは、それは仕事を賢く、科学として行うことである、どのように働くかを知ることに拠って、人は最大の結果を得ることができるのだ、と言ってます。皆さんは、全ての働きは要するに、すでにそこにある心の力を引き出すためのもの、魂を呼び覚ますためのものであることを覚えていなければなりません。」

「働きのための働き。どこの国にも、ほんとうに地の塩であって、働きの為に働く人びと、名声にも栄誉にも頓着せず、天国に行くことすら考えない人々がいるものです。彼等はただ、それから善いことが出来るから働くのです。又、貧しい人々のために善いことをし、さらに高い動機から人類を助ける人々がいます。彼等は善を行うことを信じ、善を愛しているのです。名声を求めて働く場合には、原則として、それらが直ちにやって来ることはまれです。その人が老い、殆ど生涯を終わるころにやってくるのです。若し人が何の利己的な動機も持たないで働いたら、彼は何ものも得ないでしょうか。いいえ、彼は最高のものを得ます。無私の態度はもっと大きな報いを得るのです。」

ここで、インドに於ける家住者の‘義務’について詳しく述べておきたい。以下も同書からの引用である。

「私は、この問題を扱っている‘マハー・ニルヴァーナ・タントラ’の数節を読んでお聞かせしましょう(筆者註:この本は講演の速記録と思われる)。人にとって家住者となり、しかも彼の義務を完全に果たすのがどんなに難しいことであるか、お判りになるでしょう。“家住者は神に献身しなければならない。神を知ることを人生の目標としなければならない。しかも彼は絶えず働いてあらゆる義務を果たさなければならず、その活動の果実は全て神に捧げなければならない。”」
「働いてしかもその結果を意に介しないこと、人を助けても、自分は感謝されるべきであるなどとは決して考えない事、何か良い仕事をしても、それが自分に名声をもたらすか、それとも何にもならないか、などは一切気にしない事 ― これらはこの世界で最も難しいことであります。・・・同胞の賞賛を気にとめることなく不断に善をなす、ということは、実に人が行い得る最高の犠牲です。・・・自分の生涯は神に仕え、貧しい人々に仕えるためにあるのだ、ということを忘れてはなりません。」

続いて両親に対する義務、妻に対する義務、兄弟・親類に対する義務、彼の敵に対する義務、悪人に敬意を示さないこと、交際に関する注意事項、仮に金持ちであったとしても富を誇らないこと等が記されているが、続いて、「富を得るために努力しない家住者は不道徳です」との表現があり、「富を得てそれを高貴な形で費やすのは、彼にとっては一つの礼拝です」、としている。但し、夫々の人の義務はその置かれた立場に拠って異なっており、「夫々の義務がそれ自身の場所を持っており、我々は、自分の置かれている環境にしたがって、自分の義務を果たさなければならないのです。」と結んでいる。

しかし著者は後に章を改めて、この義務に客観的な定義を与えることは完全に不可能である、ということを説明しつつ、一方で主観的な側から見た義務があるとも云う。それは、
「我々を神に近付かせる行為は善い行為であり、我々の義務です。どんな行為であれ、我々を堕落させる行為は悪い行為であり、我々の義務ではありません。主観的な立場から見れば、我々を向上させ、高貴にする傾向を持つある種の行為があるかと思うと、我々を堕落させ獣的にする傾向を持つ行為も有ります。」

そしていよいよ最後にギーターの主題である‘無執着’に就いての説明である。

「我々はバガヴァッド・ギーターの中で繰り返し、我々は皆、絶えず働かなければならない、ということを読みます。すべての働きは本来、善と悪とから成り立っています。我々は、どこかで何か善いことをしないような働きをすることは出来ません。また、どこかで何かの害を起こさないような働きはあり得ません。あらゆる働きは必然的に、善と悪との混合です。それでも我々は、不断に働くよう命ぜられているのです。善と悪は共に、その結果をもたらすでしょう。つまり彼等のカルマを生み出すでしょう。善い行動は善い結果を、悪い行動は悪い結果を残すでしょう。しかし、善も悪もともに、魂の束縛であります。この束縛をもたらす働きの性質についてギーターの中で到達されている解決法は、もし我々が、自分が行う働きに執着しないなら、それは決して我々の魂を束縛しないであろう、というものです。この働きへの‘無執着’とは何を意味するのか理解するように努めてみましょう。」
「これはギーターに現れている一つの中心理念です ― 絶えず働け、しかしそれに執着はするな。‘サムスカーラ’という言葉は、生まれつきの傾向と訳したら一番近いでしょう。心を湖にたとえるなら、一つひとつのさざ波、心に起こる一つひとつの波は、引いた時にも完全に消え去るものではなく、そこに一つの印と、その波が将来に再び現れる可能性を残します。その波が再び現れる可能性を伴うこの印が、サムスカーラと呼ばれるものなのです。我々が行う全ての働き、肉体の一つひとつの動き、我々が思うそれぞれの思いは、心の実質の上にそのような印象を残し、そのような印象は表面にはっきり現れていないときでも、下層において潜在意識として働くだけの力を持っています。各瞬間における我々の存在は、心に刻まれたこれらの印象の総計によって決まるのです。まさにこの瞬間に私があるものは、私の過去の生涯の全ての印象の総計の結果です。これが本当に性格と言われているものなのです。各人の性格は、これらの印象の総計に拠って決まります。もし善い印象が優勢であれば性格はよくなり、悪ければ悪くなるのです。・・・もし人が善い思いを思い、善い働きをするなら、これらの印象の総計は善であって、それらは同じような形で、たとえ彼がすまいと思っても、善いことをせずにはいられないようにしむけます。人が、内部に善をなそうという、抵抗し難い傾向を持つようになるほど、多くの善い働きをし、多くの善い思いを思い続けた時、彼の傾向の総計である心は、彼の意思に拘らず、たとえ彼が何か悪いことをしようと思っても、そうすることを許さないでしょう。その傾向が彼を引き戻すでしょう。彼は完全に善い傾向の支配下にあるのです。・・・カメがその頭と足を甲羅の中にひっこめ、殺されてそれが粉々に砕かれても出てこないのと丁度同じように、自分の動機と感覚器官を制御し得た人の性格は、変わらぬ状態を確立しています。彼は自分の内なる力を支配し、何ものも、彼の意思に反してそれらを引き出すことはできません。心の表面を動いている善い思い、善い印象の不断の反映によって、善をなそうという傾向は強くなり、その結果、我々は、インドリヤス(内的感覚器官、神経中枢)を制御できることを感じます。こうなって初めて性格は確立し、その時に初めて、人は真理に到達するのです。・・・この善い傾向を持つ状態よりもっと高い状態があります。それは解脱への願望です。皆さんは、魂の自由が全てのヨーガの目標であり、それぞれのヨーガが同等に同じ結果に到達するのである、ということを覚えていなければなりません。働きだけによって人々は、仏陀が主として瞑想により、キリストが祈りによって得た境地に到達するでありましょう。仏陀は働くジュニヤーニ(筆者註:ジュニヤーナ・ヨーガの行者)でした。キリストはバクタ(筆者註:バクタ・ヨーガの行者)でした。しかし二人ともが同一の目標に到達しました。」
「ここに困難があります。解脱とは、完全な自由のこと、つまり悪の束縛から解放されると同時に、善の束縛からも解放されることなのです。黄金の鎖も鉄の鎖と同様に鎖です。私の手の指にとげがささったとします。私はもう一本のとげを持ってきて、それで取ります。取れたら、とげは二本とも捨てるでしょう。第二のとげをとっておく必要はありません。結局どちらもとげなのです。そのように、悪い傾向は善い傾向に拠って中和されるべきであり、心に刻まれた悪い印象は、殆ど消えてしまうか、または弱められて心の片隅に小さくなるまで、善い印象の新しい波によって除かれなければなりません。しかしそのあとで、善い傾向もまた征服されなければならないのです。このようにして、執着している人々が、無執着の人々になるのです。お働きなさい、しかし活動または思いをして、心に深い印象を刻ませてはなりません。さざ波は、立たせ、そして行かしめよ。筋肉と頭脳から巨大な活動を起こさせよ。しかしそれらをして、魂にいかなる深い印象も、刻ませてはなりません。」

ここで著者は、どのようにしたら無執着たり得るのか、そのこつのようなものを伝受しているのであるが、この部分は説明を要すると思う。先ず同書からの引用である。

「サーンキヤ哲学のあの偉大な言葉を思い出して下さい。“自然界全体は魂の為に存在する。魂が自然界の為にあるのではない”自然界の存在の理由はまさに魂を教育するため、であります。他に意味はありません。魂は知識を持ち、知識を通じて自らを解放しなければならない、それだから自然がそこにあるのです。」

この‘自然界全体’とは何を指しているのか。もしそれを、自然環境のことだと考えたら、多分この言葉はそれほど偉大な言葉とは思えないであろう。何故なら、この世が魂の修行の場所であるなら、この世の一部である自然環境は魂を教育するためにあるのに決まっているからである。
ここで本章⑫‘プルシャとプラクリティ’を思い起こして頂きたい。そこでは、プラクリティは根本物質と訳されているが、これは自然そのものと言っても良い(現にプラクリティを自然と訳している本もある)、即ち上記の自然界ということばは、魂即ちプルシャに対置された言葉であるから、これはプラクリティを指した言葉であるというのが、筆者の見解である。そうであれば、プラクリティとは、自身の肉体とか心全てを含む概念なのであるから、自然環境や社会環境のみならず、それが自分自身であると思っているところの肉体や心さえも、魂即ちプルシャの為に在るものであり、実在ではないと考えることが、無執着の要諦だと言っているのである。

続いて同書から、‘無執着’に関わる結論とも言える著者の言葉を引用しておきたい。

「クリシュナは言います。“私を見よ、アルジュナ!もし私が一瞬間働くのをやめたら、全宇宙は死ぬだろう。私は働いても何ひとつ得るわけではない。私は宇宙の唯一の主である。それなのになぜ働くのか。それは私が世界を愛するからである”と。神は無執着です、なぜなら彼は愛するから。その真の愛が、我々を無執着にするのです。・・・この無執着の境地に達するということは、殆ど生涯の仕事です。しかしこの一点に達した時、我々は愛の目標に到達して自由を得たのです。・・・慈悲は天国そのものです。善良であるためには我々はすべて、慈悲深くなければなりません。正義と権利すら、慈悲心に立脚したものでなければなりません。自分が行った働きの報いを受けようという思いは全て、我々の霊性の開発を妨げます。いや、ついには不幸をもたらします。」
「ここに、この慈悲と無私というアイデアを実践しやすくする、もう一つの道があります。もしわれわれが人格神を信じているなら、働きを“礼拝”とみなすのです。この場合、我々は自分の働きの収穫の全てを神に捧げます。このような形で主を礼拝すれば、我々は自分の行った働きに対して、人類からはいかなる報いを期待する権利も持ってはいません。・・・」
「たとえ死に瀕しても、とやかく言わず誰でもを助けるのです。百万べんだまされても、決して問い質すな、また自分が何をしているかを考えるな。決して、貧しい人への施しを自慢したり、彼等からの感謝を期待したりはするな。むしろ慈善を行う機会を与えてくれたことに対して感謝せよ、というのです。これで、理想的な家住者であることは理想的なサンニャーシン(筆者註:出家者)であるよりはるかに困難な仕事だ、ということは明らかでしょう。本当の働きの生活は、おなじ程度に本当の放棄の生活に比べて、もっと難しいとは言えないまでも、同程度には難しいのです。」

最後は、久々に『バシャール』⑧の言葉を引用して締め括りたい。

「自分が一番ワクワクすることを行動に起こすのだ、ということに忠実でいてください。でも、豊かさがどのようにやってくるか、その形は“期待”しないでください。なぜなら、“期待”を手放すとき、あなたは本当に豊かになるからです。」

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