アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第13章 世界宗教 ⑦インドの光

2011-04-15 06:20:14 | 第13章 世界宗教
「天つ真清水 ながれきて
 あまねく世をぞ うるおせる
 ながく かわきし わが魂も
 くみて いのちに かえりけり」

「インド四千年の宗教思想史には、数え切れないほどの、聖者(ムニ)、覚者(ブッダ)、哲学者(ジュニヤーニ)が現れ、ヒマラヤ山脈のような壮観さで世界を圧倒している。そして、その山なみのなかで、ひときわ高くそびえる三大巨峰は、
 ゴータマ仏陀(お釈迦さま)
 シャンカラ大師(ヴェーダーンタ哲学を大成した人)
 ラーマクリシュナ大覚者(1836-86)
である。」

以上は、田中嫺玉氏の著した『インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯』(以下、同書)の“はじめに”からの引用である。筆者はこの書き出し、特に詩の格調の高さに感じ入り、すっかり同書に惹き込まれてしまったので、ここに引用したが、続いてその先からも少し紹介したい。

「先に紹介した詩は、私の大好きな讃美歌の一節だが、ラーマクリシュナの言行録『不滅の言葉(コタムリト)』は私にとってまさに、天つ真清水―観音の甘露の法雨そのものだった。人生や宗教に対するさまざまな疑問や不安が、真理の太陽をあびて、あとかたなく消え去ったからである。先の詩の中の、普遍的(あまねく)という言葉が肝心なのである。ラーマクリシュナの思想は、アジアだけの光ではない。白色人種だけの光ではない。一宗教だけの光ではない。普遍的福音(ユニバーサルゴスペル)なのだ。彼の精神はヒンドゥー教徒としての、純粋熱烈な修行を通して、ついに宇宙の大原理―一なる真理を悟り、XX教(なになに教)という建物の屋根を突き破って、大宇宙に輝きわたったのである。」

さて、田中嫺玉氏の心をこれほどまでに惹き付けるラーマクリシュナとは一体どのような人物なのか。それを知るためには、同書を読んで頂くのが勿論一番良いのだが、本稿を読み進める読者のために、ここで簡単に説明しておきたい。

彼は、1836年、インドの西ベンガル州の小さな村のバラモンの子として生まれ、幼児のころから突然サマーディ状態を経験するといった神秘体験を繰り返した後、二十歳前後には兄が主僧を務めるカルカッタのドッキネーショル寺院(この寺の主神はカーリー女神であり、カーリー寺とも云う)に移り住むようになる。この寺で勤行している内に、彼はカーリー女神、大実母(以下、マー)の姿を見たくてたまらなくなり、狂ったような祈りと修行を続ける内に、大歓喜の海原に漂っているような境地を体験する。しかし彼は自分独自の方法で修行を続けた為に心身共に病んだようになってしまうのであるが、その後この寺を訪れたヨーガの女行者、ヨーゲスワリに導かれてヨーガとタントラを体得し、その後さらにトータプリと云う行者からアドヴァイター(不二一元論)のヴェーダーンタ哲学を学ぶ。更にその後、カーリー寺を訪れたゴヴィンダと名乗るイスラム教徒からイスラム教を学び、僅か3日でマホメッドに会うという体験をする。また、更にその8年後にはキリスト教においても同様の体験をしたと云われている。
彼は本を書かなかったが、彼の下に集まった信者が彼の日常を文章に残し、それが『不滅の言葉(コタムリト)』或いは『ラーマクリシュナの福音』として伝わっている他、彼の高弟のヴィヴェーカナンダ(ラーマクリシュナ・ミッションの創設者)は世界各地で講演を行なったので、その教えに関する記録も多数残されている。

このように、彼はヨーガ、タントラ、ヴェーダーンタ哲学、イスラム教、キリスト教を全て体得してしまったので、田中嫺玉氏は同書の中で、次のように述べている。

「彼と話をしたイスラム教徒は、“ラーマクリシュナはイスラム教の聖者だ”と言う。クリスチャンは、“ラーマクリシュナはキリスト教の聖人だ”と言う。ヒンズー教のなかの各派の信者たちは皆、“ラーマクリシュナは私と同じ宗派の大覚者(パラマハンサ)だ”と言う。そして、それぞれに自分の信仰を深め、浄めていった。古今東西、こんな“宗教家”があっただろうか?私は聞いたことがない(仏教についていえば、インドでは仏教はヒンズー教の一派とみなされている)。」
「何故、こんなにたくさんの宗教宗派があり、おのおのが“この道だけが正しい。他の道は間違っている”と言いあっているのか、私は若いころから不思議だった。どれも信用できない気がした。『不滅の言葉(コタムリト)』は答える。-真理は一つ。神は一つ。- 一なる神が、民族や宗教の違いによって、様々な名で呼ばれている。ゴッド、アッラー、大日如来、天御中主神。-各宗教の教義が、真理(かみ)に至る様々な道だ。きれいで楽な道もあるし、危険いっぱいの道もある。表参道。裏参道。近道。廻り道。いろいろだ。“道は無限にある。一人ひとりで違うからだ。理解能力と、性格によって人は自分の道を選ぶ。他人の道を悪く言ってはいけない。まじめに登ってさえいれば(真理を求めて努力していれば)どの道でも必ず頂上に着くのだから”」
「神は存在するとか、しないとか、 そんなことはラーマクリシュナにとって問題にもならない。-“わたしは、今あんたと会って話をしているのと同じように、神様に会って話をするんだよ。年中、つきあっているんだよ”五歳の子供のように、天真爛漫な大覚者は、来る人は誰にでも会った。相手の社会的地位、宗教の違い、学歴、年齢の別なく、誰に対しても親しい友人のように接した。純粋で正直な人、信仰深い人を愛し、勘定高い人やウソツキを極端に嫌った。『不滅の言葉(コタムリト)』五巻は、インド精神文化の精華と言われている。」

ということで、ラーマクリシュナによれば、どんな教えによっても、真理を求めて努力をすれば山の頂上まで登り着くことが出来る。筆者は改めて自分がクリヤー・ヨーガを選択したことに意を強くしたのであるが、今回はこのラーマクリシュナとヨーガの関わりを同書から紹介しておきたい。

「インドには古代から精神統一の方法を組織的に研究した体系がある。仏陀在世当時すなわち西暦前五百年ごろ、この方法の研究が一般に行われていて、仏陀自身も二人の師についてこれを学んだといわれている。その後、仏教をはじめ、各学派各宗派においてそれぞれ研究が続けられ、師資相伝したが、特にパタンジャリ(筆者註:『ヨーガスートラ』の著者)を開祖とすると言われているヨーガ派は、この研究及び実践を主要な目的とするものである。すなわち、外面的には体の種々の姿勢、呼吸の調整、内面的には精神の集中を実習し、心身の向上高揚をはかるのである。この派の根本聖典『ヨーガスートラ』は、学者の研究によれば五世紀始めころの成立にかかると言われるが、その資料となっているものは、ずっと古い起源に遡るものが多い。仏教に於いては、ヨーガ、三昧(サマーディ)、禅定(ディヤーナ)を同義語として用いているが、ヨーガ派では、全体の名称として“ヨーガ”を用い、一定以上の段階についてサマーディということになっている。」
「ヨーガを実践する人を、“ヨーギ”と言うが、ヨーギは必ず与えられた道程をとって修行を進めなければならない。一定の秩序を守らず、勝手に先に進むものは、いわば足の慣れない子牛が新しい草を求めて遠方へ行く場合のように、道を失う危険があると云われる。(筆者註:これはクンダリニ覚醒へと導くための正しい手順を踏まないと危険を伴うからである。第12章⑥クンダリニ昇華を参照)故にヨーガを正しく行うには、適当な師につくことが必要であるとされている。」

「ヨーガのもう一つの特徴は、それが超自然的な能力(筆者註:以前第12章⑥で説明したシッディのこと)をもたらすと信ぜられていることである。ヨーガを完成した人は、例えば空中を馳せるとか(筆者註:空中浮揚の話は良くきくところである。又よくテレビ番組に登場するセロは、風船一つで空中に浮かびあがってしまうが、もしかしたらこの能力を開発したのではないかと筆者は密かに思っている)、水上を歩く(筆者註:聖書によればキリストもこれが出来た)とか、病気を癒すとか、その他のいわゆる神通力を備えるようになると言われる。・・・しかし、古来、偉大なヨーギと仰がれている聖者は、仏陀をはじめとして、すべてこの不思議な能力を誇示したり濫用したりしないと言われている。ゴダドル、後のラーマクリシュナも、その一人である。」

「1862年の或る日、一人の背の高い美しい婦人が舟で来て石段から寺の正面に登ってきた。年は四十前後で神を長くたらし、赫土色の衣をつけたところから見れば、密教(以下、タントラ)の女行者である。花園で花を摘んでいたゴダドル(筆者註:ラーマクリシュナのこと)は、この婦人を一目みると急いで自室に戻り、フリダイ(筆者註:ラーマクリシュナの甥で身辺の世話などをしていた)を呼んで、今、寺に着いた女行者をここへよんでくるようにと言いつけた。“わたしの名を言ってお願いしてくれ。必ずここに来てくれるから・・・”フリダイの頼みを聞くと、女行者はすぐ部屋にやってきた。そして、ゴダドルの顔をみると喜びの声をあげ、はらはらと涙を流してこういう - “まあ、私の息子、ここにいたの!ガンジス河の岸辺の、どこかにいるとは知っていたのですが、随分長い間さがしていたんですよ。とうとう会えました!”どうして自分のことを知っていたのかと、ゴダドルが尋ねると、“ずっと昔、大実母(カーリー女神のこと、以下マー)が私におっしゃったのです。お前はこれから三人の息子に会って修行を助けなさい、と。二人はもうとっくに東ベンガルで会いました。最後の一人にここで会ったというわけです”」
「ゴダドルは彼女の膝もとに慕いより、子供が母に訴えるように、自分が経験している全てのことを打ち明けて話し、教えを乞うた。神に精神を集中すると外部の意識を失ってしまうこと。一般の人には見えない様々なものが見えること。時々体が燃えるように感じること。眠れないこと。自分の行動を見て、人々が気違いだと言っていること・・・。“お母さん、わたしは本当に気違いになったのでしょうか? マーをあまり熱心に求めたので頭の病気になったのでしょうか?” 女行者は聞き終わると、やさしく、しかも力強く彼をはげましてくれた。 “息子よ、何でお前が気狂いなものですか。そういう世間の人たちの方が本当の気狂いなのですよ。あの連中は、財産とか名誉とか女とか、くだらない塵芥のために気狂いになっている。はかない幻を追い求めているのです。ところがお前は永遠不壊の歓喜を求めている。これ以上まともなことはありません。世間の大部分の人達は愚かなのでお前の境地を理解することができないのです。”」

「この女行者はバラモンの出で、名前をヨーゲスワリといって、タントラ派その他の聖典に精通していた。ゴダドルが体験しているのは『信仰の書』のなかでマハーバーヴァ(大恍惚)と説明されているもので、これはクリシュナの愛人ラーダーと、近世では聖チャイタニヤが経験した神聖な愛の高揚状態であると保証し、彼が苦しんでいた肉体的苦痛も、すべて古(いにしえ)の聖者の場合と一致すると言って、ヴィシューヌ派の聖典の写本を示して証明してくれた。インドにおいては物事を論証する場合、古書の権威に訴えることが最も重要な方法の一つである。ゴダドルは彼女を精神的な母として心から信頼し尊敬し、この後、一年余りの間にタントラの知識を授けられ、ヨーガの実習を指導してもらった。肉体上の違和も彼女は聖典の指示に従って治療してくれた。」
「心から信頼している女行者ヨーゲスワリから、タントラの修行を勧められたとき、ゴダドルはいつものようにカーリー・マー(筆者註:カーリー寺の祭神)に相談する。マーは許可してくれた。五聖樹の杜で、また境内の北端にあるベルの樹蔭で、彼は熱心に修行し、タントラ64種の奥義を次つぎと究めて行く。この優秀な弟子は、その一つの行法の成果を得るのに三日以上はかからなかった。ヨーゲスワリは、驚嘆し、喜び、満足の目で弟子の進歩を見守っていた。」
「この修行法によると、感覚的享楽の対象物を眼前におき、これを神の顕現と見ることによって、感覚的欲望を神への愛にまで高めるのである。したがってこの方法はややもすれば、人を誘惑に陥れ堕落させる危険がある。例えば、或る種の行法では、師はどこから連れてきたのか、夜中に妙齢のすばらしい美人をゴダドルのところに連れてきて、“さあ、この女を女神として拝みなさい”と命じた。礼拝が終わると、“膝の上に座ってジャパ(称名)しなさい”と命ずる(筆者註:筆者が行じているクリヤー・ヨーガに於いては、少なくも二段階目のイニシエーションまでこの種の修行法は含まれていなかったし、おそらく三段階目でも含まれないと思う)。 後年、彼は弟子たちによく話した。“わたしはマーのお恵みで、幸いにも一度もつまずくことなく、全ての修行を完成したが、お前たちは決してあんな危険な修行をしてはいけない。たいていの人は堕落してしまう。”」
「この派(筆者註:ヨーガ学派の中でも、タントラに重きを置く分派と思われる)の実習は多くの誘惑の危険を伴い、そのため、しばしばその真意が失われて堕落した教えのように見られがちであるが(左道派)、一方では、絶えずそれを匡正して行こうとする努力(右道派)も行われてきた。元来、ベンガル地方には左道派の勢力が盛んであったから、この女行者ヨーゲスワリも恐らくそれに属していたことと思われる。いずれにせよゴダドルの場合は、幸運な成功と言わなければならない。」

「“カーリーの性(さが)と相(すがた)を知るは誰ぞ 六派の哲学はるかに及ばず”と賛歌の一節にある“六派哲学”は、大乗仏教を除いて、インドにおける最も完成した哲学体系であり、インド思想の精髄ともいうべきものである。ミーマーンサー派、ヴェーダーンタ派、サーンキヤ派(数論派)、ヨーガ派、ヴァイシェーシカ派(勝論派)、ニヤーヤ派(正理派)の六つのうち、ヨーガ派は他の五派に較べて哲学的に独立した特徴がない。というのは、ヨーガというのは修行法であってそれはウパニシャッド以降、インドの宗教全てに共通したものだからである。 インド哲学は机上の空論ではない。必ずその哲理を体現具現し、最終目的たる大悟解脱に至るという知行合一主義によって裏打ちされているのである。ヨーガは正にそのために古来から研究されてきた方法であるから、五感を制し、雑念を除いて瞑想するのが本質である。後世になって、その道中の副産物にしか過ぎない神通力(筆者註:前述、シッディーのこと)や治病効果のみを宣伝する堕落したヨーギのため、大そう品位を落としてしまったが、ヨーガはあくまで心身を清浄にして外界の執着を離れ、人間の最高目的に達する為の道順なのである。」

「・・・この修行期間の終わりころ、ビルボの樹の下で瞑想しているとき、ゴダドルはブラフマヨーニ(至聖の子宮)を見た。 それは巨大な光の三角で、活きて呼吸していた。一呼吸毎に無数の世界を産み出していた。彼はまた、宇宙全体が梵音オームの響きを発しているのを聞いた。オームは全ての音の総計である。そしてまた、あらゆる動物の鳴き声の意味を理解することが出来た。彼は自分に不思議な力が具わっているのに気付く。その一つは、自ら意思すれば肉体が原子ほども微小になるのである。しかし前にも述べたように、彼はいわゆる“神通力”なるものが、解脱―神と合一するためには百害あって一益もないことを悟っていたから、こうした能力には全くとりあわなかった。“法(ダルマ)の道はまことに厳しい。欲望が一つでもあると至聖(かみ)に届くことはできない。針に糸を通すのに、一つでもケバがあったらだめだ。ギーターのなかで、クリシュナ神がアルジュナにおっしゃっている-私(神)のところに来ようと思ったら、八大神通力(筆者註:六神通とも云う。天眼通、天耳通、神足通、他心通、宿命通など)の一つでも持っていてはだめだ、と。どうしてか、わかるかね? 神通力などを持っていると、人間は必ず高慢になる。高慢、増上慢、これが神を忘れされるのだ。超自然能力とか霊能力とか、ああいうものにとらわれていたら迷妄(マーヤー)から抜けることはできない。我執が深まるばかりだ” 『不滅の言葉(コタムリト)』より。」

以上が、同書に紹介されたラーマクリシュナとヨーガとの関わりであるが、最後の部分で大変に難しい問題が修行者に投げかけられている。即ち、筆者も含め、覚醒に至る為に修行を続ける者は、やがてその過程でクンダリニ覚醒を経験することになっており(勿論全員がそれを経験出来る訳ではないが)、それに伴って何らかの神通力(シッディーとも云う)を得ると言われている。しかしこの神通力があると最終目標である神人合一の境地に至ることは出来ないとラーマクリシュナは言う。しかし良く考えてみると、ラーマクリシュナ自身も肉体を原子程の大きさに変える能力を持っていた訳であるから、神通力を持つこと即大悟解脱の妨げとは限らないということである。従って肝心なのは、それを得ること自体に執着しないこと、また仮にそれを得たとしても、自慢したりひけらかしたりしない(増上慢にならない)ことなのであろう。これは筆者としても良く肝に銘じておかなければならないことである。勿論今後クンダリニ昇華を経験できれば、の話であるが・・・。

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