アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑯華厳経とキリスト教

2013-01-04 06:52:13 | 第18章 真理
インド哲学の大家、中村元先生の書いた『華厳経』『楞伽経』(東京書籍)いう本を読んだところ、その最後に付録が付いており、「特論 人類の思想史における『華厳経』」という題で、華厳経とジャイナ教、或いはキリスト教を含む西洋思想の関係が論じられていた。華厳経の内容や、中観の思想を或る程度理解しないと判り難いかも知れないが、非常に興味深い説なので、その概要を紹介したい。

先ずは、縁起の説明である。

◇◇◇
・・・『華厳経』は偉大な経典で、いろいろのことが説かれている。したがって、その思想を一つで纏めることはひじょうに困難であるが、縁起の理法が中心の思想と考えられる。この縁起は仏教の中心思想で、いろいろと説き方があるのであるが、縁起は縁って起こるという意味で、いかなるものも孤立して存在しないということを表す思想である。すべてのものは相依って存在する。これを華厳では法界縁起という。
また、この縁起の網は、人と人とのあいだに限らない。人と物においてもそうで、それは更に日本だけに限らない。たとえば私の着ている洋服に使われている羊毛が、はるかかなたのオーストラリアの羊の毛であれば、この羊毛を運んでくれた人、羊の毛を切った人の努力と、羊を育てた牧草、太陽の恵みが考えられ・・・一匹の名も無い羊は原野にいる存在ばかりでなく、遠いかなたの太陽の恩恵を受けているわけであり、私達はこの太陽を縁として全宇宙ともつながりを持つわけである。
この道理を華厳の経学では、「芥子、須弥を入る」という。須弥とは須弥山のことで、神話的な大きな高い山で世界の中心をなすと考えられている。芥子のようなきわめて小さいものが、このように素晴らしく大きなものを包容するということは、どんな小さいものでも偉大な宇宙を含むということを表現したもので、このことは空間的にいえるばかりでなく、時間的にもいえることである。
すなわち、私たちはじつは目に見えないところで、無限の昔から祖先の恩恵を受けている。無限の過去を背負っているのである。突然に出てきたものではない。また、現在から未来が生まれる。現在生きている人は、無限の過去を背負い、また無限の未来の可能性をはらみ、無限を含む。そしてそこにこだわりがない。そして、これを華厳教学では事事無礙といっている。事は現象、事実で、理に対することばである。・・・個々の事実、個々の現象はお互いに影響しあって滞ることがない。真理の世界からみると、すべてのものは依って起こっているのである。従って華厳の思想も、突然に出て来たものではなく、やはり縁起の理によって過去を背負って現れ出たものなのである。
◇◇◇

十二因縁説の比較

◇◇◇
さて、縁起の思想は仏教の最初からあり、仏教の中心思想であるが、すでに仏教以前に縁起の思想はジャイナ経において説かれていた。ジャイナ教の典籍と仏典の縁起説を比較することにより、仏教の縁起思想はいっそう明らかになる。また、仏教は突然に現れたものではなく、やはり縁起の理により今までの思想を背景としてそれを批判的に扱い、取り入れることにより成立したわけであるから、仏教以前の思想と比較することも大切である。
・・・釈尊と同時代にマハーヴィーラ(偉大な勝利者の意)という宗教家がいた。かれは煩悩に打ち克った人であるが、煩悩に打ち克つのは戦場で千人の敵を倒すよりも、もっと難しいことなので、かれを偉大な勝利者と呼んだわけである。
ジャイナ教と仏教とは、非常に良く似ているが、違うところは、ジャイナ教は煩悩をなくすために身を苦しめる苦行を行じ、重んじるわけであるが、仏教は苦行を説かず、非苦非楽の中道を説く。
ジャイナ教の経典のなかに、次のようなことが述べられている。
「・・・迷いのなくなった人には苦しみは消滅している。妄執(渇愛)のなくなった人には、迷いは消滅している。貪りのなくなった人には、妄執(渇愛)が消滅している。何ものも所有しない人には貪りが消滅している」。(Uttarajihaya,32,6-8)
次に貪愛と嫌悪と迷いの三つを完全に除去しようと欲する修行者の実践すべき諸方法を順次に説明している。この貪愛と嫌悪と迷いは、仏教でいる貪瞋痴であるが、仏教ではこれらを三毒ともよんでいる。・・・仏教では迷いの根元は、この渇愛であるといい、これにあたることをジャイナ教でも説いているわけである。
仏教の縁起説は、複雑な発展をとげてきた。ふつう、仏教の縁起説というと十二因縁をいう。これは「無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死」の十二であるが、このように十二を立てていうのは最初からあったわけではない。
原始仏教の経典は、パーリ語で残っており・・・なかでも非常に古い『スッタニパータ』(経集)には、まだ十二縁起は説かれておらず、それ以前のいろいろなかたちの縁起説が説かれている。そのなかの一つに、「我々が迷うのはなぜか。それは生死があるから。生死があるのはなぜか。それは生存一般があるから・・・」といって、最後に「妄執(渇愛)があるから」というのがある。これはかなり古く、おそらくもとのかたちであったろうと思われる。これが少し発展すると、さらにこの奥に何かないかということになり、その奥の奥には、すなわちその根本には、無明(真理に関する無知)があるということになって、この見解が発展して十二因縁になったものと考えられる。それで、十二因縁の一番はじめは無明であるとなったわけである。・・・
原始仏教の因縁説について、『華厳経』で説かれているような説を持ち込んで解釈する学者もいるが、そのような解釈は『華厳経』ではじめてはっきり解明されたもので、原始仏教ではむしろ人間のあり方の基礎づけの説明であったものと思われる。
それが大乗仏教の中観派になって、あらゆるものは相依って存在するということが説かれるようになった。中観派とは、ナーガールジュナの説を伝える一派で、前述のように相互依存を解き、それが哲学的に深められた。たとえば、長いという観念は、短いという観念に依存して成立し、また短いという観念は、長いといる観念に依存して成立する。作用は作者(さしゃ、行動主体)によって成立し、また作者は作用によって成立している。悪の否定に拠って善が成立し、善の否定によって悪が成立している。以上のようのことを、ナーガールジュナは『中論』のなかで説いたのである。
このような原子仏教の縁起説の基本的観念が、中観派の哲学において理論化され、明確化され、続いて華厳の教学において哲学的な、深い幽玄なることわりに高められた。このようなステップを経て、縁起説は発展したと言えるであろう。・・・
仏教の縁起説は、必ずしもジャイナ教からのみとったとはいえないが、しかし、ジャイナ教を含むインドの宗教的思惟が仏教に影響を及ぼしたことは確かであるといえるであろう。縁起の形式の説は当時のインドの宗教哲学でも述べられていたもので、仏教だけの特色ではないが、ジャイナ教が、縁起を発展させなかったのにたいして、仏教は縁起を発展させ、経典にもその類型がかなり多く出されている。
◇◇◇

インドにおける華厳教学の基礎

◇◇◇
また、中観派で説くようなことをジャイナ教でも説いている。中観派では(華厳によく似た思想であるが)、
 「一によって一切を知る。一つのものを知ることによって一切を知る。一つのもの
  によって一切を見る。一人の化人(幻術によってつくられた人)が語るとき、
  全ての化人が語る。一人が沈黙するとき、じつに全ての人が沈黙する」。
と説いている。これは大乗仏教において、すなわち中観派に始まり、華厳の教学において大成された思想と考えられているが、原始ジャイナ教でもすでに次のようにいっている。
 「一つのものを知る人は、一切のものを知る。一切のものを知るひとは、一つのもの
  を知る。一つの煩悩を避ける人は、一切の煩悩を避ける。一切の煩悩を避ける人は
  一つの煩悩を避ける」。
次に中道思想―これは言葉としては、ジャイナ教聖典にも出ているが、『スッタニパータ』では、
 「かれは極端を知りつくして、よく考えて、[両極端にも]中間にも汚されない。かれを、
  私は<偉大な人>とよぶ」。
といっている。しかし、この両極端は何を意味するか、はっきりしない。ジャイナ教の古い韻文でも、
 「二つの極端によって見ることなく、賢者はそれを知って世界を克ちえた」。
と同様のことを述べている。
こうして部分的にはインドの他の宗教思想を取り入れ、やがて仏教独自の思想として展開し、それを深めて奥深い真理を明らかにしたもの―これが華厳の教学であると言えるであろう。このように華厳教学の諸思想にはインドのいろいろの観念を取り入れ、それを深め、発展させ、奥深い道理を明らかにしたものがたいへん多いといえる。・・・
◇◇◇

西洋の哲学への影響

◇◇◇
次に、華厳の思想が世界の思想史の中でどのような意味をもつかということをみていこう。華厳の思想と良く似た思想を述べたひとはいないかというと、プローティノスの哲学は割合にそれに近いといえる。また中国の宋代の儒学の体系に、やはり対応する思想が見られる。
プローティノス(Plotinos 205~270)は、新プラトン派の偉大な哲学者で、究極の原理は、「唯一なるもの」(筆者註:ブラフマンを指すものと思われる)であると説く。この「唯一なるもの」は言葉で説明できない、唯一者に関しては、如何なる言葉を用いるよりも沈黙においてより多く心理が表現されるという。このような思想は、インドではヴェーダーンタ学派の哲学者の説くもので、プローティノスの思想には華厳思想を思われるものがある。
プローティノスは、次のようにいっている。
 「それぞれのものが、一切のものを有し、また一切のものであり、一切のものとともに
  世界にあるのであるが、世界においてはいかなる個物も全体から隔絶していない」。
華厳の用語でいえば、隔歴(きゃくりゃく)を否定しているといえる。隔歴は隔てることで、プローティノスはこれを否定しているのである。そして、彼は感覚の世界は感覚しうる世界に可能なかぎりの善さをもっていると主張し、感覚によって知覚される諸々の事物の美しさを認めている。しかし、これはまさに蓮華蔵世界の思想である。プローティノスは感覚によって知覚される諸々の事物の美しさを、次のように強く感じていたのである。

 「知的調和を真に認知する人が、もし音楽に少しでも趣味をもっているとすれば、
  感覚しうる音響の調和にどうして感応しないことがあろうか? どのような幾何
  学者、あるいは算術学者が、見うる諸事物に観察される対象や対応、秩序の諸原理
  に喜びを感じないであろうか? 絵画という事例も考えてみるといい。肉体的な感覚
  によって、絵画術の所産を眺める人々は、一つのものをただ一つのやり方で眺めて
  いるのではない。かれらは、眼に映じて来る諸対象のなかに、イデアのなかに横
  たわるものの呈示を認めて、深く感動し、また、そのことによって、真理の回想
  へ呼び覚まされるのである。それはまさに、愛が発生してくるところの経験なので
  ある。さて、人間の顔の上にみごとに再現された美を見ることが、人の心をして愛
  という他の領域へ駆り立てるのであれば、愛らしさを眺めている人々は、たしかに
  感覚の世界で無駄な時を浪費しているわけではない。この広大な秩序、星辰が
  はなはだしい遠方においてさえ発揮しているこの形相、それらのすべてに有頂天
  になって真理の回想に導かれ、偉大さから派生するそれら偉大なるもののすべてを
  思索するうちに畏敬の虜になってしまう、というようなことがないほどに愚かで
  無感動な人はありえないのである。このような反応を示さない人は、この世界の
  深みを探ったことがない、或いは他の世界の幻視を些かも持ったことがない
  人なのだ」。(Enneades,Ⅱ,9,16 ラッセル著、市井三郎訳『古代西洋哲学史』

中国の華厳宗の表現をもってするならば、ここではプローティノスは「事」を「事」として見ているのではなくて、「事」のうちに、「理」を認めているのである。そして、これは『華厳経』そのもののうちに見出される思想である。

 「衆生が法器に非ずんば、諸仏を見ること能わず。若し心に楽(ねが)う者あらば、
  一切の処に皆仏を見たてまつる。一一の刹土(国土)の中に各々仏ありて世に興る。
  一切の刹(くに)の中の仏は、億数にして不思議なり。この中の一一の仏は無量
  の神変を現ず」。(唐訳『華厳経』第十一巻)

のみならず、プローティノスは事事無礙の道理も主張している。すなわち、また知的な美を扱った章において次のように説いている。

 「『安楽に暮らす』ということがあそこにはある。そしてこれらの神的な諸存在に
  とっては、真理は母であり乳母であり、存在を支える糊口でもある。神的な諸存在
  は、過程に属さず真正の存在に属するすべてのものを、その総体にわたって視て
  いるのである。なぜならそのすべては、透き通って全く暗さをとどめず、また抵抗
  を示さないからである。すべての存在は、その幅と深みにおいて、相互に明瞭に
  知られるのだ。光は光を貫いて走る。しかもそのおのおのは、自らの内に全てを
  含み、同時に相互の中に全てを視る。従って、至る処に全てがあり、全てが
  全てであり、それぞれが全てであり、無限の栄光である。そのおのおのが偉大であり、
  その小さきものも偉大であり、あそこにいる太陽は星辰の全てであり、星辰の
  おのおのは星辰の全てであり、太陽でもある。なんらかの存在様式がそのおのおの
  を支配しているが、全ては他のおのおのに映像されているのである」。

西洋ではこのような思想はその後ときどき唱えられている。プローティノスのあとでは、プロクロス(Proklos 412から485年)もまた主張した。―「全てのものは全てのもののうちに存在するのであるが、しかしそれの特性に従っておのおのの内に存在する」(Enneades,Ⅲ,2,1)と。
これに対応する説明は『華厳経』の中のいたるところに説かれている。それはいわばこの経典の中心思想である。

 「一切の国土が一つの国土に、また一つの国土が一切の国土に入る」。(唐訳華厳教)
 「如来が一切世界を一つの身体をもって遍満する神変という不思議がある。一切の
  如来が一つの身体の内に入り、一切の仏国の荘厳が入り込む神力を示現することが
  不思議である。・・・」

また「微細な対象において広大な国土を現ずる智」「広大な対象において微細なものを[現ずる]智」も説かれている。・・・一つの毛孔の中に、一切の国土の原子の数ほどもある、海のように多い仏国土が含まれている、そして「一念の中において一切処に遍ず」、即ち時間的に限定されている一つの刹那に宇宙の一切を包含する意義を認めているのである。・・・
尚、プロクロスの言葉の補いをしておこう。プロクロスは万物の相関性を説いたあとで、「存在者の内には、生命と叡智とが存し、生命の内には存在者と叡智とが存し、叡智の内には生存者と生命とが存する。しかし、すべてのものはある時は理性として、ある時は生命として、あるときは生存者として存在するのである」と言っている。
このようにほぼ同時期に、東と西とで存在の深みに沈潜するような思想が説かれたのである。プローティノスと『華厳経』とは、ほぼ同時代であるが、華厳の思想のほうがやや古いかもしれない。
また『華厳経』では「十」を円数で完全な数であるとして重んじるが、この考え方は西洋にもあるのではないかと思い、文献では確かめられなかったので、ドイツのポール・ティリッヒという神学者に聞いたところ、ほぼこの時代の小ソクラテス派において現れていると言われた。
私は、華厳の思想がアレクサンドリアに伝わって、西洋の前述のような思想家を出現させたと考えている。これは単に空想ではなく、西暦一~三世紀のころ、東と西との間に密接な交渉が現実にあったと考えられるからである。
◇◇◇

ということで、いよいよ本題に入る。

◇◇◇
それは、カトリックの儀式のかなり多くのものは、仏教の儀式からきているという事実である。本シリーズの別の巻でも少し触れたが、例を上げて考えてみよう。
(一) お香を焚く。お香を身体に浴びるということはカトリックでもする。
(二) 仏教では寺院の中に仏、 菩薩の像が並んでいて、これを礼拝するが、カトリック
   教でも教会に多くの聖者の像が並んでいて、信徒はこれを礼拝する。
(三) 鐘―古い時代の西洋には鐘はない。ユダヤの伝統にもない。これも仏教と共通で、
   東から伝わったものである。
(四) 合掌―カトリックでも仏教と同じようにする。これも西洋の古い時代にはない習慣
   である。キリスト教はユダヤ教の分派であるが、そのユダヤ教にも合掌の習慣は
   ない。・・・
(五) 仏教ではおつとめのとき、右肩を向けて散花しながら須弥壇の回りを回る。これは
   ギリシア正教でも行う。尚、ギリシア正協では三回回るが、カトリックでは一回に
   省略されている。このように右肩を向けて回るのは、もとはインドの習俗である。・・・
(六) 数珠―これもインドから入ったものと考えられる。カトリックではロザリオと言う
   が、それはなぜかというと、インドでは数珠のことを、ジャパマーラーという。
   ジャパは念誦、マーラーは輪という意味である。ところが西洋人はこのジャパを
   ジャパーと聞いたのである。ジャパーとは薔薇のこと。そこで薔薇の輪、ローザリー
   すなわりロザリオとなったと言われる。
◇◇◇

この後、中村氏は華厳思想とエックハルトの思想の類似性、或いはライプニッツの思想との類似性に触れた上で、インドラ網の譬えについて触れている。

◇◇◇
ライプニッツの思想もそうであるが、西洋中世の神秘家たちは、めいめいの人のもっている純粋の智慧を、鏡や燈火に喩える。これは華厳の教学と相通じるものがある。華厳ではインドラ網の譬えというものがあり、帝釈天の創った網の結び目の一つ一つに鏡があり、それが互いに映発しあうというものである。
◇◇◇

このインドラ網の譬えは、『バシャール』でも読んだ記憶があり、そこでの表現を紹介しようと思って全8巻を見直してみたのだが、捜し出すことができなかった。

最後に、以上から筆者が感じたことを纏めておきたい。先ず、筆者が直観的に思ったのは、カトリックへの『華厳経』の影響と中村氏は言うが、実際にはイエス御自身がヨーガ(或いはインドにおける当時の仏教或いはヴェーダなど)から様々な影響を受けて、それがカトリック教会の土台になったのではないかと言う推測である。というのも、筆者は以前『完全アセンション・マニュアル』を読み、そこに書かれていた内容を、本ブログ第11章③に、「イエスの実像(?)」として纏めている。そこでの内容と重複するが、エドガー・ケイシーによるリーディングの部分を再掲する。

「ケイシーによると、イエスは十二歳に届かぬうちにすでにユダヤ律法に精通しており、十二歳から十五・六歳になるまでの間は、カルメル山にあるユデトの館で預言を学んでいたという。その後、イエスはエジプトに赴き、それからインドに行って三年留まり、続いてペルシャでさらに叡智を深めた。イエスはペルシャにいた時に、父ヨセフの死を知らされ、一旦家に呼び戻される。その後イエスは教師となるための課程を全て修了するため、再びエジプトに赴いたのである。・・・バプテスマのヨハネは、エジプトに居たイエスと明らかにエジプト滞在の一時期を共にしている。両者は聖職者になるための試験を受け、資格を取るためにエジプトの都市ヘリオポリスに滞在していたのである。リバイ氏による“宝瓶宮福音書”には、イエスが受けた七つのレベルのイニシエーションの説明がある。大ピラミッドは、大いなる白色同胞団のイニシエーションの寺院として建立されたが、イエスも大ピラミッドの中で最後のイニシエーションを通過している。それが聖書では、墓の中での三日三晩という記述になっているのである。“宝瓶宮福音書”によれば、イエスはインドにおいてバラモン教やヴェーダも学んでいるという。イエスはまた、ネパール、チベット、シリア、ギリシャ等といった土地にも在留している。」
「ケイシー、リバイ、そしてジュワル・クールによるチャネリング情報は、いずれもイエスの十八年間に及ぶ東洋紀行を記録している。しかし何より素晴らしいのは、20世紀になってインドとチベットで見つかった古文書に、イエスがそうした場所を訪れていたことを立証する記述が確認されたことであろう。1800年代の終わりにチベットを旅していたニコラス・ノートヴィッチというロシア人ジャーナリストは、チベットの首都ラサにある記録保管所で、そこに預言者イエスの存在を論じた古代の巻物が数千巻眠っていることをラマ僧から伝えきいている(東洋においてイエスは“預言者イッサ”と呼ばれている)。1894年、ノートヴィッチは通訳を介して読み上げられたという文章を出版しているが、それらの記録のなかには、イスラエルの子供たちや、インドの人々に対して、聖なる教義を伝道する覚者イッサの生きざまの描写を見出すことができるのである。・・・1922年にはスワミ・アビダナンダがチベットのヒミスの大僧院に赴き、ノートヴィッチの話の内容を再確認した。彼はラマ僧の助けを借りて、同じ文章を翻訳したものを、後にノートヴィッチの英語翻訳版と一緒に上梓している。」

尚、『華厳経』の成立は紀元四世紀と言われている。前後関係から云っても、華厳教がカトリックに影響を与えたとするよりも、イエス御自身が仏教或いはヨーガなどから影響を受けたと考えた方が自然に思える。

このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。


最新の画像もっと見る