アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑩イデアの世界 (その二)

2012-11-23 09:16:55 | 第18章 真理
先ずは、前稿にて『あるヨギの自叙伝』、“スリ・ユクテスワの復活”から引用した内容の要点を整理しておきたい。
(A) 地上での人間の体は、大きく肉体、幽体、観念体の三つの体から構成されている
(B) 地上での生活を終えた魂は、幽体と観念体を保持したまま幽界に移行して修行を続け、更にそこでのカルマを解消すると、観念界に進む
(C) 魂が三つの体による三段階の迷いから完全に脱すると、それはついに、個性をもったまま、無限なるおかたと一つになる(観念界から脱し、完全な解脱を達成する)

筆者が、このイデアの世界に興味をもったきっかけが、プラトンのイデア論と谷口雅春師が説く「実相の世界」であることは前稿の書き出しで触れた通りである。それでは、彼らの説く「イデアの世界」や「実相の世界」は、スリ・ユクテスワ師が伝えた話しのどの部分に相当するのか、という問題を考えて見たい。当初筆者は「観念界」を指すのではないかと思って読んでいたのであるが、スリ・ユクテスワ師は「一つでも体を持っていると言うことは、満たされぬ欲望を持っている」と述べている。即ち、観念界においても魂は何らかの欲望を保持し、それによって体(観念体)を表しているということなので、「イデアの世界」とは、おそらくスリ・ユクテスワ師が言うところの観念界ではなく、更にその先にある、「無限なるお方と一つになった状態」を指すのではないかと思う。
このことはつまり、我々の魂は地上での修行によって肉体レベルのカルマを解消したとしても、幽界では更なる修行が待ち受けており、そこでの修行を終えて漸く観念界に進むことができる。そして最終的にはその観念界での修行を終えて初めて「無限なるお方と一つになった状態」、即ち完全な解脱の境地に到ることが出来るということになる。
実は、このように仮に今生において悟りを開いたとしても、その先果てしない修行が続くことをJ.D.ストーン博士も、『完全アセンション・マニュアル』の中で示している。それは必ずしも幽界、観念界と進む道筋を示している訳ではないが、本ブログ第11章限りない光への道、⑤イニシエーションの階梯で触れているので、再掲になるが以下に引用する。

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・第一イニシエーション:ここでは上級レベルの肉体統御能力を得、肉欲にまつわる罪悪は抑制されている。もはや暴飲暴食や飲酒や道楽に溺れてはならない。第一イニシエーションは卒業と新たなる開始を意味し、正当な生活と思考と自己統御の為の一定の構造が達成されたことになる。・・・イエスの生涯においては、このイニシエーションを意味したのはキリストの誕生、即ちキリストとしての生の始まりであった。第一イニシエーションの秘儀参入者の生活は、徐々にキリスト意識の司る部分が多くなっていく。キリスト意識とは、責任と無条件の愛、そして奉仕の精神を云う。

・第二イニシエーションの中心的課題は、アストラル体或いは感情体に精通することである。第二イニシエーションは、欲望を捨て去り、殺すことでなされる。低次元の性質は早急に統御されつつある。アストラル体のエレメンタルの抑制により、感情体が純化され、透明な落ち着きを得るようになる。イエス・キリストの生涯では、この第二イニシエーションはバプティズムに相当する。第二イニシエーションの三つの主眼点は、献身、自己幻惑、帰依である。

・第三イニシエーションはメンタル体の自己統御に関連するが、それゆえに三つの部分(肉体、アストラル体または感情体、メンタル体)からなる“人格”の自己統御にも関わってくる。このイニシエーションは、魂との融合として言及されることもある。修行者が高次自己と混ざり合うことで融合を遂げ、魂が注ぎ込まれた“人格”となるのはこのイニシエーションにおいてであり、その“人格”全体が高次からの光で満たされる。修行者はもはや低次元の思考や願望に支配されることはなく、その“人格”の波動は極めて高次のものとなる。第三イニシエーションは初の主要イニシエーションと見なされる。心識(マインド)は主として魂からの閃きや直感や刺激に対して敏感になる。修行者は魂や、当人が属するアシュラム、或いは霊的聖師団そのものからエネルギーを受け取る。・・・第三イニシエーションでは、修行者は想念物質をうまく扱う能力に精通し、創造的想念構築における決まりごとの学びを完了する。イエスの生涯においては、第三イニシエーションは山上のキリストの変容として言及されている。このイニシエーションで活性化されるのは第三の眼のチャクラであり、サナート・クマラが司祭役及び解説者を務める。それぞれのイニシエーションごとに、修行者はより高次のレベルへと成極することになる。第一イニシエーションでは肉体に、第二イニシエーションではアストラル体ないし感情体に成極していたが、この第三イニシエーションにおいては、メンタル体に成極する。

・第四イニシエーション:第四イニシエーションは放下と克己或いは磔上死のイニシエーションとも呼ばれる。これはすべての私利私欲から解放され、より大きな全体の利益のために個人的生活を放棄することに関係する。魂の意識さえもその重要性を譲り、より霊(スピリット)の気付きに近い、より普遍的な気付きが魂の意識に代わるのである。たいてい第四イニシエーションを通過する者は、多大な犠牲、時には受難を伴う生涯を送る。秘儀参入者はその完成された人格さえも含むすべてを、生贄の供物台に横たえる。当人はその友人、財産、名声、性格、世間での地位や信用、家族そして人生そのものまで全て放棄しているのである。第四イニシエーションを通過する時点で、秘儀参入者は輪廻転生からの解放を遂げたことになる。コーザル体即ち魂体が炎上し、魂がモナドに再び融合するのも、このイニシエーションにおいてである。それ以降、秘儀参入者への指導は、主としてモナド或いは“我臨在なり”から発せられる。

・第五イニシエーション:第三イニシエーションが自身の魂或いは高次自己との融合に関わるものであったように、第五イニシエーションはモナドとの融合に関わるものである。第五イニシエーションでは自身の意識が、自身のモナドと霊(スピリット)とに融合する。また第五イニシエーションは盲目状態からの解放であり、秘儀参入者は新しい視野の獲得が可能となる。第五イニシエーションは、キリスト教用語においては黙示或いは復活として言及される。このイニシエーションを経たマスターは、「アデプト(超人)」と呼ばれる。第五イニシエーションは最初の宇宙レベルのイニシエーションである。

・第六イニシエーション:第六イニシエーション:とはアセンション“次元上昇”の達成をいい、すなわち「アセンションしたマスター」になることである。このイニシエーションは本質的には、アデプトがモナドの光との融合を果たした時に行われ、肉体も衣服も、アデプトの存在全体が光に変容するのである。その肉体はただ消え失せ、ライトボディに取って代わられる。かつてアセンションは霊的世界への移行を意味した言葉であったが、今日ではアセンションしたマスターを地上に残し、その奉仕の継続を見守る「霊的聖師団」という新しい趨勢が認められる。また最近の神的制度においては、アセンションの際に必ずしも肉体を伴う必要がなくなっており、このことによりアセンションがわずかながら容易になった。この点に関してはアデプトの選択に委ねられている。アセンションとはキリスト意識の成就であり、完成された仏陀(覚者)となることである。・・・アセンションするためのさらなる必要条件は、当人自身のだるま、或いは地上での使命を全うしていることである。アセンションの意識とは、純粋な歓喜と無条件の愛そのものであり、それと同時に自らが神であること、行き会う人の全てが地上を歩く神であることを完璧に認識するものである。
◇◇◇

尚、第一イニシエーションの前に“試補の道”という段階が示されているが割愛した。更に、『完全アセンション・マニュアル』には、この先に第七イニシエーションが記載されているのだが、第11章⑤においては割愛しているので、参考までに引用する。

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第七イニシエーションは地球で経ることのできる最も高次のイニシエーションである。第七イニシエーションは、地球での生が関わる七階層の、現象的生の支配から自由になることである。これは実際には宇宙レベルの物質界から、その上に引き上げられることであり、神的すなわちロゴス的意識界層との融合をいう。当のマスターの意思は、惑星ロゴスのそれと完全なる融合をみる。そして神の息子ないし娘は、みずからの源である父へと続く帰路を見いだすのであるが、この時の存在状態を「シャンバラ」という。・・・
◇◇◇

全般的に使っている言葉は異なるものの、「神的すなわちロゴス的意識界層との融合」という表現は、多分「イデアの世界」に溶け込んだような状態を指すのではないかと思われる。

更に、起信論においても、このような修行の段階あるいは菩薩の境地の階梯を示す内容が示されている。即ち、菩薩の初地として浄心地、第二地として具戒地といった具合に進み、第十地は菩薩の最後の段階を表す菩薩尽地、そして最終的に如来地まで進むことになっている(起信論P169)が、この如来地こそ、「イデアの世界」に達した状態ではないかと思われる。この間の詳しい説明が「実践に入る道程の解説」として本文に説明されているので引用する。

◇◇◇
実践に入る道程の解説とは、即ちかつて一切諸仏が実現したところの悟りに向けて、一切の菩薩達が発心し、修行して歩みを進めるという意味でいうのである。この発心は纏めると三種ある。どんな三種か。第一は信心の成就を通じて、悟りに向けて発心すること。第二は予備的な修行道を通じて発心すること、第三は[法身]を体得しておこす発心である。◇◇◇

ということで、各段階の発心の説明が続くが、第三の発心のみ引用すると、

◇◇◇
次に<[法身を]体得しておこす発心>は[菩薩の階位で言うと]浄心地(筆者註:初地)からはじまって、菩薩の究竟地(すなわち菩薩尽地)に到るまでに相当する。[この段階は「体得して発心する」とよばれるが]一体何を体得して発心するというのかといえば、それはものの真実のあり方(真如)を体得するのである(筆者註:我々が考えている、「悟りを開いた状態」を指すのであろう)。真実のあり方は、一応、日常的な主観の働きに拠って知る限りは[そこに客観(すなわち概念内容)として現れるので、]「対象」(境界)と呼ぶけれども、実際にはこの体得においては[対象と一つになることであるから]対象は存在せず、あるのは唯真実のあり方を知る智恵(真如智)だけであって、その意味で、[真実のあり方を知るものを]<法すなわち真実のあり方を身体とするもの>(法身)と名付けるのである。さて、この段階の菩薩は、一瞬の間に十方世界の諸仏のみもとに赴いて、諸仏を供養して法を説くように請うが、これはひとえに衆生を導いて利益を得させたいと願うからである。・・・また、この段階の菩薩は、その修行によって徳性が完成するときに[三界のうちで、肉体を具えていても欲望を持たない世界と言われる]色界の中の最高処(色究竟処)において、世間のあらゆる身体を具えたものの中で最高の大きな身を現わす。即ち、悟りの瞬間に結び付く智慧の働きで、根元的無知をたちまちに滅するので、これを<あらゆる種類のことを知る智>(一切種智)と名付ける。[それによって(さとりに応じて、そのあと)]自然に働く不思議な働きを十方世界に現わして、能く衆生を利益するのである。◇◇◇

因みに、途中省略したが、“菩薩としては皆一様に、[さとりを得るまでに(筆者註:この場合のさとりとは、おそらく如来地の意味だと思う]三アサーンキャ劫(筆者註:アサーンキャは阿僧祇のことで、無限の数を現わす。起信論では、ガンジス河の砂の数に喩えられていたと記憶している。劫は生まれ変わり、即ち輪廻のこと)を要することに決まっているからである。”と記されてる。 
このように考えると、仮に地上において、一定レベルの悟りを開くことが出来たとしても、最終ゴールである「イデアの世界」(或いは如来地)に行き着くまでは、幽界などにおいて更なる修行が待っており、無限に近い回数の生まれ変わりが必要であることが判る。

最後に、谷口雅春師の説く「実相の世界」に関連する箇所を、同師の名著『神真理を告げ給う』から引用したい。因みに、この本では、神が全てを語っている形式を取るので、本文中の一人称である“わたし”は“神”を意味している。

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霊的世界といっても、いろいろの段階があり、幽界と称する肉体死後間もなくの霊魂の世界もあれば、それら霊魂が浄化されて高級霊となった者たちが棲む高級霊界もある。その霊界の更に奥に、実相世界―即ち本当の実在の世界があるのである。
◇◇◇

以上の部分は、前稿にて引用した、スリ・ユクテスワが肉体として復活し、ヨガナンダに語った内容、即ち、幽界、観念界、そしてその先の世界へと進んで行くという話と略一致していることがお判り頂けるものと思う。他にも関連する箇所を引用する。

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時間及び空間というものは本来ない。実相世界は超時空的存在の世界であるからである。時間の観念、空間の観念は物質的存在を心に描くための謂わば“画布”(カンバス)として必要なので、“わたし”が人間に与えたところの架空的観念である。
◇◇◇

以上は、かつてヴィヴェーカナンダの説明として引用した(と記憶している)内容と類似しているが、それが具体的に本ブログのどの章であったか、思いだせない。
続いてイデア(理念)の説明である。

◇◇◇
人間は、神の最高の自己顕現であるから、その顕現の姿がどのようなものであろうとも、また顕現は変化したり、生滅したりするけれども、顕現のおくにある人間の“実相”は“霊”なのである(筆者註:ここで著者は、“霊”を真我即ちアートマンの意味に使っている)。“霊”とは非物質であり、“超エネルギー”であり、“心”以上のものであり、“個性以上”のものであるが、物質とも顕現し、エネルギーとも顕現し、“心”とも顕現し、“個性”とも顕現するものである(筆者註:ここは、汎神論的な説明になっている)。全て顕現(あらわれ)は生滅し、変化するが、顕現の本体であるところの“霊”は、それ自身のうちに万象を“理念”の姿で内臓するのである。それは朝顔の種子の中に、双葉から諸々の葉の形、蔓の形、蕾の形、華の形・・・等々の一切が内包されているようにである。それは“時間”“空間”を越えた姿であること、恰も、巻き収めた一握りの映画のフィルムの中に、あらゆる場面と数十年の色々の光景が、まだ映写せずにそのまま蓄えられているのにも似ているのである。
◇◇◇

最後に、人類のアセンションを連想させるような表現もあるので紹介しておきたい。

◇◇◇
高級な一群の霊魂は、地球生活学校(筆者註:著者は、地球は霊魂の修養の為の場であるとの見解を有し、それを学校になぞらえている)を卒業したら、地球から去って一層高級な天体に転生することになっている。その時には人口が自然に減る。その人口の移動が太平洋の真中にあった“ムー大陸”や大西洋上の“アトランチス大陸”が物質文明の最盛期に海中に没し去ったような一大地変(筆者註:本ブログ第三章、レムリアとアトランティスを参照)によるのか、戦争という人間の不幸なる争闘によるのか、その両方であるかは今それを言うことはできないが、高級霊が地上を卒業して去るときには地球上の人口が調節せられて自然に激減するから、今から、人間の浅墓な考えで人間(胎児も人間である)を殺して置かなければならぬなどということは阿保の人間の言うことである(筆者註:筆者は優生保護法、即ち堕胎を認めることに反対している)。
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前回のスリ・ユクテスワの復活に続き、今回はJ.D.ストーン博士の『完全アセンション・マニュアル』や、大乗起信論、更に谷口雅春師の『神真理を告げ給う』からの引用を中心に「イデアの世界」に関わる部分を引用したが、いずれもその説くところは極めて類似していることに納得して頂けたものと思う。即ち、「イデアの世界」こそわれわれ魂の最終目的地ということのようである。
次回は、イデア論の元祖とも言えるプラトンの説とも対比してみたい。

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