アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ⑭七つの燭台

2012-12-21 06:48:20 | 第18章 真理
今回は、ヨハネ黙示録の引用から入りたい(1章9~20)。

◇◇◇
あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難を御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言(ことば)とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
ところが、わたしは、主の日に御霊(みたま)に感じた。そして、わたしの後ろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。
その声はこう言った。「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい。
そこでわたしは、わたしに呼び掛けたその声を見ようとしてふりむいた。振り向くと、七つの金の燭台が目についた。
それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
その足は、炉で精錬されて光輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎが突き出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
わたしは彼を見たとき、その足元に倒れて死人のようになった。すると、かれは右手をわたしの上において言った。「恐れるな。わたしは始めであり、終わりであり、また生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ころうとすることを、書きとめなさい。
あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使いであり、七つの燭台は七つの教会である。
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ヨハネの黙示録は全体として極めて難解だと思うが、特に黙示録の最初にいきなり出て来る、「7つの金の燭台」の部分を読んで、首を傾げた方も多いことと思う。筆者もご多分に漏れず、同様であったが、『聖なる科学』(同書)を読み、これが意味していることが漸く判ったように思う。
以下、話は多少前後するが、同書から順を追って説明する。先ずサンスクリットのスートラから(以後、「 」内の引用は原則としてサンスクリットのスートラから)。

◇◇◇
「この宇宙は、十四の領域に分けられる。それは、七つのスワルガと、七つのパーターラである」

このように、不生不滅の永遠の実体である神から始まって粗雑な物質界に至るこの宇宙は、七つの次元の世界(スワルガ、ローカ)に区分される。
サティヤ・ローカ―第七次元の世界
まず最上位は、サティヤ・ローカ(究極の真の実体である父なる神の世界)である。この世界は、いかなる闇の被造物も、又光の被造物も、これを説明することができず、名前の付けようがない。それゆえ、ここをアナーマ(名前のない世界)という。
タポ・ローカ―第六次元の世界
次に位するのが、タポ・ローカ(聖霊の世界)である。聖霊は、いかなる有限の観念にも、永遠にその普遍性を妨げられたいため、‘永遠不変の忍耐’といわれる。ここは、神の子といえども、そのままでは近づくことができないため、アガマ(近づきがたい世界)という。
ジャナ・ローカ―第五次元の世界
次が、ジャナ・ローカ(聖霊の反映である神の子の世界)で、‘個別感をもつ自己’の観念が、この世界からはじめて生ずる。この世界は、マーヤの支配下にある被造物にとっては理解することができないので、アラクシャ(理解しがたい世界)という。
マハー・ローカ―第四次元の世界
次が、マハー・ローカ(宇宙原子の世界)で、マーヤの想像活動がここから始まり、この上を聖霊が照らして、光を反映させている。この世界は、聖なる霊の世界と現象(マーヤ)の世界とを結ぶ通路のようなもので、ダシャマドワーラ(門)といわれる。
スワー・ローカ―第三次元の世界
宇宙原子のすぐ外側にあるのが、スワー・ローカ(宇宙電気とその磁気的属性の世界)である。この世界には、まだ物質はもとより精妙な被造物(幽体)も全く存在していないため、マハシュニヤ(超真空の世界)という。
ブーヴァ・ローカ―第二次元の世界
次が、ブーヴァ・ローカ(宇宙電気の電気的属性の世界)である。この世界には、精妙な被造物はあるが、粗雑な被造物(物質)は何も存在しないため、シュニヤ(真空の世界)という。
ブー・ローカ―第一次元の世界
最後の最も低い次元の世界が、ブー・ローカ(最も粗雑な属性である物質の世界)で、われわれが普段見ている世界である。
◇◇◇

ということで、先ずは七つのスワルガを説明した後、サプタ・パーターラ(七つの教会)に就いて説明している。

◇◇◇
神は人を、御自身の姿に似せて創られたので、人間のからだは、この宇宙の姿に似ている。人間のからだの中には、パーターラと呼ばれる七つの生命力の中枢がある。人は、内なる‘自己’(筆者註:真我を指す)に向かって正しい道筋をたどって進んで行くと、これらの場所に、聖なる霊光を見るようになる。これらの場所は、聖書の中で、‘七つの燭台’または‘七つの教会’として述べられ、また‘星’のように見えるその光は、‘七人のみ使い’と記されている。 (以下、同書においては黙示録からの引用が続くが、冒頭引用済みなので省略)
◇◇◇

この部分は、同書第4章「実現」(即ち、真我実現の段階を述べた章)において、更に詳しく記述されているので、そちらの少し手前(P82)から引用する。

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「ヤマ(禁戒)とニヤマ(勧戒)を実行していると、心の八つのゆがみが消えて、徳性が現れてくる。こうして彼はサーダカ(真の弟子)となり、救いが受けられるようになる」

前章(筆者註:同書第3章‘手順’を指す)で述べたように、ヤマとニヤマを実行していると心の八つのゆがみ(筆者註:憎悪、恥辱、恐怖、悲嘆、非難、人種的偏見、血統的優越感、虚飾を指す、同書P59より)が消えて、おおらかな心が現れてくる。そこではじめて、人は、忍耐力の鍛錬や、そのほかサット・グルが指導してくれる、解脱(救い)に至るための行法を実習する用意が出来上がる。そして、それらの行法の実習を続けることによって真の弟子となる。

「彼は、しだいに神性を取り戻し、聖音オームを聞き、シッダ(聖者)となる」

弟子がいろいろな段階を通過しながらどのようにして物事の正しい概念を把握することができるようになるか、そして、瞑想を通じてどのようにして進歩してゆくか、そして最後に、注意力を‘内なる感覚中枢’(スシュムナドワーラ)に集中するときどのようにして独特の聖なる音(プラナヴァ・シャブタ)が聞こえ、それにつれて自我意識(アハンカーラ:人の子)がその聖音の河の中に溶け込んで心が純化され、ついにシッダとなるか、については、第3章に述べた通りである。
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この引用文の最後の部分は、第3章で次のように記載されている(同書P66、P73)。

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自己意識を内部の感覚中枢(スシュムナドワーラ)に集中するこのサンヤマ(筆者註:意識の完全な集中、本ブログ第17章⑳参照)によって、求道者は、聖音オームの中に溶け込んでゆく。この聖音の河による‘洗礼’(自己意識の浄化)をバクティ・ヨーガという。こうして彼は‘悔い改める’―すなわち、外の物質世界に向けていた意識を内に振り向け、自分が‘落ちて来る’前のふるさとである‘父のもと(真の自己)’に向かって上昇を始める。そして、内部世界への門である感覚中枢を通って、内なる世界ブーヴァ・ローカ(筆者註:精妙な素材で出来ている幽界)にはいる・・・と、ドウィジャ(‘第二の誕生’をした者)と呼ばれる階級に属する。この段階で、彼は、自分の内部の‘電気的力’すなわち‘創造物の精妙な第二の部分’を理解する。彼は、外界(物質界)の諸現象が実質的には存在しないものであり、それらは単に‘宇宙電気’のタマスの属性である感覚対象(タンマートラ)と、同じくサットワの属性である感覚器官(ギヤネンドリア)とが、中和性(ラジャス)の属性である行為器官(カルメンドリヤ)の仲介で、感覚意識(マナス)の命ずるままに結合して現れたものに過ぎないことを理解する(筆者註:このくだりには、唯識の考え方と共通している部分がある)。
◇◇◇

再度本論である、パーターラと呼ばれる七つの生命力の中枢に戻る(P83)。

◇◇◇
「すると彼は、聖霊の現れを見る。そして、七つのパーターラ・ローカ(脊髄の中枢)を通るとき、七人のリシ(筆者註:聖賢などと訳される)を見る」 

洗礼を受けながら(自我意識を聖なる宇宙音:プラナヴァ・シャブタに溶け込ませるスーラタ・シャブタ・ヨーガ即ちバクティ・ヨーガを行じながら)、人は悔い改め(自己意識を浄化し)、‘自己’を外側の世界である物質界から引き揚げて、内側の世界である幽界(ブーヴァ・ローカ)にはいる。そこで彼は、幽体の七つの中枢に七つの星のように輝いている聖霊の現れ(‘まことの光’)を見る。聖書では、この七つの中枢を‘七つの金の燭台’または ‘七つの教会’に喩えている。また、‘七つの星(聖霊の光)’は、‘み使い’またはリシとも言われ、‘人の子’の‘右手’(神に至る正しい道筋)に次々と現れる。
‘七つの金の燭台’と呼ばれる、幽体の‘輝いた場所’は、脳の中枢(サハスラーラ)、延髄の中枢(アジュナ)、及び五つの脊髄中枢―頸椎(ヴィシュッディ)、胸椎(アナハタ)、腰椎(マニプラ)、仙骨(スァディシュターナ)、尾骨(ムーラダーラ)の各中枢―として知られ、ここに聖霊の光が現れている。これら七つの中枢を通って、人の子(自我意識)は、神に向かって上昇してゆくのである。
◇◇◇

ということで、スリ・ユクテスワ師によると、黙示録における‘七つの金の燭台’とは、我々の七つのチャクラを現わしているということである。これは非常に重要なポイントであり、人の意識が覚醒に導かれる時には、これらのチャクラを全て開いて、クンダリニ・エネルギーを上昇させる必要があるというヨーガの教えと略同様のことが、キリスト教においても、ヨハネの黙示録に示されていたことになる、というのも、どうやらヨハネの黙示録は、将来の出来ごとを予言しているだけではなく、人が覚醒に至る過程を暗示的に示しているものとも思われるからである。それでは、キリスト教徒は、このことに気付いているのであろうか?
そこで筆者は、20世紀最高の預言者とも言われる、エドガー・ケイシーの『黙示録の解読』(本書)を読んでみたのであるが、「体内の七つの霊的センター」に関するくだり(P31以下)に次のように書かれていた。因みに、本書はケイシー氏と会員との会話を引用する形で書かれている。

◇◇◇
ケイシー氏  会として、個人としての「喜びの奉仕者」と、彼らのしてきた『黙示録』の研究がここにある。各自は、愛する人が、なぜ、どのようにして、そのような性格のメッセージを使ったかを考えるように。まず、キリストの体は、世界に対して、父への通り道、扉、瞑想を表した。そのため、これは、物質世界、精神世界、霊世界との関係で自分を研究する材料になる。それは、一人ひとりが、その経験の中で、この書とキリストの生活を追うようできる道として設けられたものである。
問1  「七つの教会」を「体内の七つの霊的センター」と解釈して差し支えないでしょうか。
答1  よい。
問2  それらは正しい配置になっていますか。読み上げますので、各中枢に関係する各自の発達と経験について述べて下さい。生殖腺―エペソ。ライデン腺―スミルナ。太陽神経叢―ペルガモ。胸腺―テアテラ。甲状腺―サルデス。松下体―フィラデルフィヤ。脳下垂体―ラオデキヤ。
答2  説明するより、これらが正しい配置になっている必要がある。一人ひとりが得て来た私的経験は異なる。ある中枢の開放や活動が、これこれのものを誘発し、意味し、応用するとすれば、機械的なものになる。全ての中で、全てを通して、自己の働きは水路に過ぎないと知りなさい。神が、個人に最も相応しい方法で、そこに理解と向上を加えて下さる。決まった活動や結果が型通りに期待されるのではない。そのどれもが、個人の理解に応じて解放される機会を表し、提供すると解釈すべきである。人には自由意思が与えられているので、どう活かすかは各自の問題である。父の意思のまま、完璧に、活発に活かされるときこそ、まさしく、キリストの生き方に等しいものとなる。
問3  どれが体内で最高の腺でしょうか。松下体か脳下垂体か。
答3  脳下垂体(筆者註:サハスラーラに対応する腺)
◇◇◇

当時エドガー・ケイシーがチャクラの名称に通じていたかどうかは知る由もないが、本書のP33に示された各腺の位置と夫々のチャクラの位置は略対応しているので、「体内の霊的センター」として示されているのは、所謂チャクラに相当するものと考えて間違い無いと思う。
因みに、本書の訳者(林陽氏)あとがきには次のように書かれている。

◇◇◇
・・・しかし、エドガー・ケイシーによれば、この書はヨハネが瞑想経験において体・心・霊を新生させる経過を記したものであり、個人の集合体として世界が新生する経過が、同時に予言されているといいます。この解釈を理解するには、『黙示録』だけ取り上げるのではなく、『創世記』との対比で見る必要があると思われます。
『創世記』は人間の創造、堕落、その結果としての世界史の展開を描く物語であり、『黙示録』は、キリストの贖罪を通して堕落前の純粋な魂の状態を回復する物語です。
『創世記』において、人は七つの創造の段階を経て、今見るからだとなり、「パラダイス」と呼ばれる神との交わりの境地に住みました。人は、神の生き写しとして、「神の形」と呼ばれました。二つの選択が示されたときに、人は自我の道を選び、その結果、善悪の構想の歴史が展開しました。
この果てしない善悪の循環を逆転させる方法が、最終的にキリストによって与えられました。キリストは福音書のなかで、神人合一の境地を説き、同じ境地になれることを弟子たちに約束しています。その教えの奥義は、最後に使徒ヨハネに示され、『黙示録』となって結果しました。
『黙示録』では七つの意識の段階を通して人は心身ともに純化を受け、最後に「神の形」を取り戻し、神とともに棲む「パラダイス」(筆者註:本章⑨以下で先に述べたイデアの世界とも解釈できる)を回復します。『創世記』において失われた「いのちの木」がそこにあります。これは死後に託する望みではなく、生きている、今、意識において経験できるというのです。『黙示録』はヨハネを雛型として示された、意識覚醒の奥義書であり、キリストを範として道を歩もうとする誰にとっても有益な霊的指導書といえるでしょう。
◇◇◇

再度同書の続きに戻る。

◇◇◇
人の子(自我意識)は、こうして洗礼を受けながら(バクティ・ヨーガを行じながら)、前述の七つの場所を次々と通り抜けるごとに、それらについての知識を得る。そして、それらのすべてを通り抜けた時、彼は、この宇宙の実相を会得する。彼は、‘自己’を幽界(ブーヴァ・ローカ)から引き揚げると、幽界と物質界の源泉である根源界(スワー・ローカ)に入る。(筆者註:『あるヨギの自叙伝』、スリ・ユクテスワの復活に於いて、‘ヒラニャローカ’と記されていた世界とは異なるようである)。そこで彼は、創造主(聖霊)の‘み座’である自分の心(チッタ)のまわりに輝いている霊妙な磁気的からだを見る。それは五つの宇宙電気(パンチャ・タットワ)と、二つの磁極(感覚意識と理性)から成っており、七色の虹のように見える。あらゆる喜びを経験するための感覚器官(ギヤネンドリヤ)、行為器官(カルメンドリヤ)、感覚対象(タンマートラ)の根源である、この宇宙電気と感覚意識と理性の世界で、人は、あらゆる欲望を経験して完全に満足し、また、それらに関するあらゆる知識を得る。そこで前述の霊妙なからだ(五つの宇宙電気と二つの磁極の七つの部分から成る根源体)を聖書は、‘七つの封印のある巻物’といっている。
 「また、み座のまわりには虹が現れていた」 (ヨハネ黙示録4:3)
 「わたしはまた、み座にいます方の右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側
  にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった」 (同上5:1)
◇◇◇

最後は、修行者がシッディを獲得して解脱に至る経緯を引用し(P86)、本稿の締め括りとしたい。

◇◇◇
「それから彼は、ヨーガの知識と力によって、七つのスワルガ(世界、天)を支配する能力を得る。彼は最初の(万物を生み出す基になった)四つの観念(マヌ)を会得することによって解脱(救い)に至る」

人の子は、このスワー・ローカを通り過ぎると、宇宙磁石(霊化した宇宙原子)の世界、マハー・ローカに入る。これを構成するものは、顕現(コトバ:波動)、時間、空間、粒子(宇宙原子)の四つの観念である。第1章で述べたように、このマハー・ローカは、無知(アヴィディヤ)の現れであり、無知は、自己を個別的存在として認識する観念、自我意識(人の子)の根源である。このように、人は無知から生まれ、無知は前述の四つの観念の現れであることから、これら四つの観念を、四つのマヌ(人の起源)という。

「こうして、マーヤとアヴィディヤの力を征服すると、人は神と一体になる」

宇宙磁石(宇宙原子)の世界であるマハー・ローカは、現象世界と神の国との間の門(グラフマランドラ、ダシャマドワーラ)である。人の子(自我意識)がこの門まで来ると、聖霊の光を体験し、その中で聖霊による洗礼(浄化)を受ける。そして、この門を通りぬけると、彼は、観念の創りだした幻影(マーヤ)の世界(現象世界)を脱出して、聖なる霊の世界に入り、聖霊の光を受け入れて、神の子となる。こうして、人は神の子となると、マーヤのあらゆる束縛を克服し、アイシュワリヤ(神通自在力)を身につけるようになる。アイシュワリヤには八種類ある。
1.アニマ:自分の体でも、その他何でも、いくらでも小さく―原子の大きさにまでも―
することができる能力
2.マヒマ:自分の体でも、その他何でも、自由に幾らでも大きくすることができる能力
3.ラギマ:同様に、いくらでも軽くすることができる能力
4.ガリマ:同様に、いくらでも重くすることができる能力
5.プラプティ:何でも欲するものを手にいれることができる能力
6.ワシットワ:何でも思いのままに支配することができる能力
7.プラカミヤ:不屈の意思の力によって、あらゆる欲望を満足させることができる能力
8.イシットワ:すべてのものの主になることができる能力

 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信ずる者もまた、わたしのわざをなすで
  あろう。そればかりか、もっと大きなわざをなすであろう。わたしが父のみもとに
  行くからである」 (ヨハネによる福音書14:12)

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