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黒田官兵衛 天下の奇策 ・ 備中高松城 水攻め in 岡山市・高松

2014年07月06日 00時00分00秒 | 城、城跡

黒田官兵衛 天下の奇策 ・ 備中高松城 水攻め

岡山市北区高松

 

 

NHK 大河ドラマ 軍師官兵衛で

備中高松城の水攻めが今日放送されます。

それに先立って私もブログに取り上げてみました。

  

中国地方の大大名となっていた毛利と

天下人を目指す織田との軍事対決で、

備中国 南東部(岡山市西部)において本格的な合戦がが展開されました。

織田側は羽柴秀吉を大将とする2万と

備前国(岡山)の戦国大名宇喜多の1万を併せた兵力で、

毛利が備中国境に整備していた7城の攻略を始めました。

7城のうち

4城(宮路山城、冠山城、鴨庄城、日幡城)は攻略されましたが

中核をなした

備中高松城は沼地に囲まれ、容易に突破することが出来ませんでした。

秀吉は備中高松城主 清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが

義を重んじる宗治はこれに応じなかった。

そこで羽柴秀吉は黒田官兵衛の進言で「水攻め」を断行、

備中高松城を湖の孤城すべく、兵糧攻めを行った。

水攻めのために築いた堤防は

長さ2.7キロ 高さが7m、幅底部24m・上部10m

工事期間は12日で周辺のお百姓の力をお金や米と引き換えに利用した。

丁度、梅雨の時期で大雨が降り、

増水した足守川の水は お城に向かって勢いよく流れこんだ。

最近の説では

蛙ケ鼻から備中高松駅付近までの300m、

高さ2m程度の堤防だったという説が有力になってきていますh。

 数冊のパンフレットを参考にしました

 

蛙ケ鼻

ここに築いた堤防の一部が残っています

 

 

高さ表示板

一番上から

現存築堤高 8.4m

本丸 最上段高さ 7.0m

 

配置図

赤はすべて羽柴陣営

左側名、前の消えているところが加藤清正の陣

毛利側はずっと手前に陣がある

 

羽柴秀吉 本陣は向こうに見える山に

 

加藤清正の陣は西の山(左側)に

 

毛利側 小早川隆景は3万の兵がありながら

手も足も出ず、ずっと手前(配置図)で見守るしかなかった。

 

孤立する備中高松城

6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた

秀吉はこれを秘めて毛利方の軍師、安国寺恵瓊と和睦を提言

今日中に和を結べば

宗治の首級だけで城兵の命も毛利の領土とらないと条件を出した。

宗治は主家の安泰と部下5千の命が助かるならば、明4日に切腹すると自刃を承諾。

毛利方は本能寺の変を知らないままに

秀吉が出した船の上で城主清水宗治は一指しの舞を見せて

兄、月清入道、毛利の軍監である末近左衛門とともに自刃しました。

敵味方7万の兵が見守る湖上での最後は

あっぱれ武士の鏡と、今に伝えられています。

 宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったため、

それ以降、模範とされ 切腹が名誉ある行為という認識が広まった。

 

清水宗治 自刃塚

 

 

浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」と

辞世の歌を残して 46歳で見事自刃した。

 

こうやぶ遺跡

宗治の後を追って家臣が刺し違えて殉死した。

 

首級のない胴体遺体が葬られています。

 

 

現在は高松城址公園になっています

 

 

 

 

 

本丸跡には宗治公首塚があります

 

首塚

清水宗治切腹の後、秀吉が家臣に供養塔をつくらせた。

 

 

二の丸跡、三の丸跡

 

高松城址公園の水辺を整備すると、蓮が自然に生えてきました

満開になると綺麗ですよ。

 

これは数年前の写真です。

空がこんなにも綺麗

 

 

清水宗治陶像

(資料館内)

 

本丸横にある清鏡庵

お土産にどうぞ

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

   明日も 皆様のお越しをお待ちしております。

 

   7月以降は体調を考えて
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