今日は着付けのお稽古日。
今日習ったのは、立て矢系の『飛蝶の舞』
振袖に合わせる帯結びです。
私が通う学校では、年間に数十種の創作帯結びを習います。
最初は基本形の文庫や立て矢を懸命に習って、練習して。
なんとか形にするのが精一杯です。
習い進んでいくうちに、基本形のバリエーションをいくつもいくつも習います。
正直、「この前習ったのと同じ...?」と一瞬思うことも。
それを繰り返している時期に、ふと、
「こんな微妙な差しかないものをいっぱい習ってどうするんだろう?」
という疑問が心に浮かんだことがありました。
人生ってほんとに不思議なもので、そういう疑問を持った時期に、
先生から「答え」になるような話を聞きました。
「手を慣らすためにいろんな帯結びを練習するのよ。
帯結びを練習するうちに、『きものの手』になってきて、
きものも帯もきれいに着れるようになるんだから。
だから、面倒くさいと思っちゃだめ。
家で練習できなくても、一回一回のお稽古が、『きものの手』を作るのよ。」
はっと目が覚めました。
「この帯結びはできた」、「ここまで進んだ」というのは
目標じゃないんだ。
近道はないんだな。ちょっとずつちょっとずつ、進むしかない。
でも、もちろん、その道の間にご褒美があって、
きものを着るときの華やいだ気持ちや、
新しい帯結びが上手にできた!っていう達成感だったりする。
でもそれらは「ご褒美」
最終目標は、先生のいう、『きものの手』を作ること。
そして、きっと、
自分の手でも、なにかを作り出すことができる、
ということを学ぶこと。
きものを着るようになってから、手で作り出すものに
以前より強く魅力を感じるようになりました。
学校で、和裁や染色を勉強している人たちに囲まれているからかもしれません。
手づくりの仕事のクリエイティビティはすばらしい!
無の状態から、手のひらでお花を咲かせているようなものです
私は着付けしか習ってないけれど、着付けも手で作り出す仕事。
きものに手を通し、下前と上前を打ち合わせるとき、
ああ自分はきものを着てるんだな、と実感することがよくあります。
きものは手で着姿を作る。
洋服ときもの、どちらも同じ「着る」という動作。
一番違うのは自分で帯やきものを形作ることにあると思います。
洋服のおしゃれも大好きだけど、自分の手で「着ること」を作り出す喜びは
きものに勝ることはありません。
手で作り出すものについて書いた、画家バルテュスの夫人である
節子・クロソフスカ・ド・ローラさんの言葉に共感したので紹介します。
「手は、その主(ぬし)なる人の心の使者であり、
手で作られたものは心の覚えなのです。
印刷された文字と筆書の書、
機械で切られた木と鉋(かんな)で削られた木、
缶詰の食べ物と手料理、それぞれの違いは、
人の心と直接のかかわりを持っているか否か、
手のぬくもりのうちに生まれたか否かの違いです。
手を通して作られたものの中には、
生きているものがこめられているが故に温かいのです。」
「『和』をつくる美」より
※ヨコ書きでも読みやすくするために、
適宜改行と( )内の読みを追加しました(Litty)
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