ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

バート・イシュルからのハイキング (1) ― カトリン

2012-10-29 00:10:03 | バート・イシュル
第1日目 カトリン  Katrin




バート・イシュルからのハイキング・コース、第1日目はカトリンです。
ロープウェイ乗り場までバスが出ていますが、停留所や時間を気にするよりは、宿泊ホテルがどこかによって、むしろ歩いていく方が便利だろうし、森の中を散歩をかねて歩いていけば、町の中心からおよそ1.5kmほどですから、30分もかかりません。
カトリンは山頂に電波塔がたっているし、町のどこからも見えています。


2009年7月30日撮影
ジリウスコーゲル山頂から見たカトリン山頂

カトリン・ロープウェイは1959年につくられました。2011年から夏だけの運転になってしまったようです。
5月1日~9月4日まで、始発9:00~最終17:00

   
カトリン・ロープウェイの谷側駅待合室にはカトリンの水が訪れる客をもてなしています 2011年8月8日撮影
「太古の昔からこの谷側駅の直ぐ近くにあるヴィルデンシュタイン Wildenstein の泉から水が湧き出ています。この泉は1895年からバート・イシュル市に生活用水の大半を供給しています。お客様各位、どうぞここでこの素晴らしい泉の水を一口召し上がれ」

標高470mの谷側駅から標高1,413mの山頂駅まで、943メートルのぼります。


2009年7月30日撮影 カトリン・ロープウェイ
画像右奥に見える山の麓にトラウン川がやがてトラウン湖に流れ込む入口、エーベンゼーの町があります



2009年7月30日撮影 カトリン・ロープウェイ山頂駅のレストラン・テラス、ダハシュタインの山塊と眼下にはハルシュタット湖

山頂駅を出ると、直ぐ左手に展望所がありますが、山に登るつもりであれば、特にわざわざそこに上がって時間を使う必要はありません (ロープウェイのなかから見えていた景色とあまり変わりません)。
ただ駅舎に隣接するレストラン・テラスの前からはハルシュタット湖とダハシュタイン、そしてそのさらに右手にゴーザウカムが一望でき、写真撮影のベスト・ポイントとなっていますので、少しゆっくり時間をとって眺望を楽しむのがよいかと思われます。



2012年8月14日撮影 この枠の中に入って撮影してもらえば、ベスト・ポイントにいる自分が記録として残ります^^


ここからスタートするハイキングのコースとしてロープウェイ会社のホームページに掲載されている下の図を参考にして下さい。

駅から右手に伸びる広い道をまっすぐ進んでいくのが898と記されているルートです。
とにかくカトリン山頂を目指す場合は、少し広い道を進んで、直ちに狭い登り道を上がって行きます。地図ではじぐざぐにしるされているコースです。


2009年7月30日撮影


標高1,413mの山頂駅から目標とする電波塔のある、標高1,542mカトリン山頂との標高差は129メートルですから、ほとんどハイキング気分で登っていける場所ですが、最初はずっと急な登りなので、やはりそれなりに靴は登山用のものを着用することをお勧めします。


ハイキング・ルート

このルートの最大の魅力は、前半、ずっとダハシュタインの姿を見ることができる点です。
コースはよく整備され、途中にたくさんベンチが置かれていますが、最近どうやらそのベンチから眺められる湖の名前が記されるようになりました。
ロープウェイ会社の「売り」としてこのコースを全部まわると7つの湖が眺められる、としてそれぞれの湖のビューポイントに設置してあるベンチに何湖が見えているのか、説明が書かれるようになったと言うわけです。

7つの湖
① ハルシュタット湖
② トラウン湖
③ ヴォルフガング湖
④ フシュル湖
⑤ ヌッセン湖
⑥ シュヴァルツェン湖
⑦ タヒンガー湖

私たちが実際に確認できたものについて書くと、カトリン山頂を目指して歩いていく途中で見えているのは、①と②です。
コースにあわせて、7つの湖の順は、ロープウェイ会社のホームページに掲載された順とは入れ替えてあります。



2009年8月20日 
ダハシュタインと右端にゴーザウカム

バート・ガスタイン側から見たときと、反転して並んでいます。
この景色は最初の上りが終わるまでずっと続き、折に触れてベスト・スポットを探し、写真撮影することが可能です。



2009年8月20日撮影 
ダハシュタイン 拡大
やはりこちら側から見たときの方が氷河が見えています。



2009年8月20日撮影 
ゴーザウカム 拡大



2009年7月30日撮影
ハルシュタット湖と眼下に広がるバート・ゴイぜルン Bad Goisern
トラウン川がハルシュタット湖から流れ出て、バート・ゴイぜルン、ラウフェン、バート・イシュルを経て、エーベンゼーに至り、トラウン湖と結ばれる

しばらくして登りが終わると、心地よい稜線歩きです。でもダハシュタインならびにハルシュタット湖とはいったんお別れとなります。

途中で一度、エルファーコーゲルへの分岐点を通りますが、ここではまっ直ぐカトリン山頂を目指していきます。もう山頂は見えています。いったん下って、もう一度上がって行くと山頂です。


2012年8月14日撮影 カトリン山頂 (1,542m)


2009年7月30日撮影 カトリン山頂の十字架 Kaiser-Franz-Josef-Gipfelkreuz

十字架の先をもう少し進んでいくと本当の崖っぷちになります。


2012年8月14日撮影 十字架の先にここで亡くなられた方を慰霊した碑がありました

無茶をすればどんな山でも危険です。と思っていたら、ここはロッククライミングの場所として最近整備されたらしく、麓から登ってくる人がちらりほらり、まさか崖の下から人の顔が出てくるなんて想像もしていないので、びっくりしました。
Katrin-Klettersteig (カトリン山のロッククライミングコース) は2011年9月に整備された新しいアトラクションのようです。上ってきた人に聞くと、疲れるけれど、鎖が整備されているので安全だとこともなげでした。女性も結構いました。ヨハンはごめんこうむります。

さきほどの慰霊碑をさらに回り込むように進んでいくと、今度はザンクト・ヴォルフガングが一望できます。
湖③


2009年7月30日撮影 カトリン山頂からの眺め (シャーフベルクとヴォルフガング湖)
十字架を過ぎて、崖っぷちの慰霊碑まで進んでいき、回り込むように左手に進むとこの景色です



2012年8月14日撮影 カトリン山頂からシャーフベルクを眺めると、画像右端のシャーフベルク山頂(1,782m)を目指して登山鉄道が煙をあげて登って行くのが、天気が良いと山のはを移動していく煙(画像左端)で分かります。

ここからフシュル湖 Fuschlsee が見えると、案内板に書いてなければ、探してみる気にもならなかっでしょうが、書いてあったので、必死に目をこらして探してみました。

見えました~♪

写真はありませんが (めんぼくない)、位置関係からして、ヴォルフガング湖の上の方を丹念に探してみると、一部ですがフシュルが見えています。

ヨハンは2009年に一人でここに登った時には、帰途先ほどの分岐点でエルファーコーゲルを目指して歩いてみました。


   
エルファーコーゲル山頂 Elferkpgel (1,601m) 2009年7月30日撮影


登りのきつさとかの問題は全くありません。
ただロープウェイの山頂駅に戻るコース、先ほどのルート・マップの898、ヨハンはもうひとつある山頂 Hainzen には行かないで、エルファーコーゲルから直ぐに898につながる道を歩いて、898に出たのですが
この道は、崖の壁にできた細い道を進んでいくので、高所恐怖症気味の人には無理かもしれません。

ハインツェンまで歩くコース、全部をすればヌッセン湖 Nussensee (湖⑤) も見えたのかも知れません。あるいは2009年に歩いた時にすでに途中で見えていたのかも知れませんが、当時は7つの湖コースなどという案内板もなかったので、気づかず仕舞となったのかもしれません。

残る2つの湖、シュヴァルツェンゼー Schwarzensee (これは地図ではヴォルフガング湖の北東上にありますから、多分見えていたのかもしれません) と、もうひとつのタヒンガーゼー Tachinger See については地図でもまだどこにあるのかさえ見つけられずにいます。
 (注) ロープウェイ会社のホームページで確認すると、タヒンガーゼーがあるのはドイツのバイエルンのようです。位置としてはフシュルのさらに上の方に、本当に天気に恵まれたときに、見えると言うことです。つまりは、まあ、見えないものと思っていた方がよさそうです。


でも、このハイキングコースは、ダハシュタインとザンクト・ヴォルフガングだけで気持ちは十分すぎるほど満足してしまいます。

もちろん、天気が悪い日にはすべての印象がまったく変わってしまうので、ご注意くださいね。


カトリン山頂までの往復のショートコースでしたら、2時間もみれば十分すぎるほどです。
戻ってきたら、駅舎から少し先を下っていくところにあるアルムの小屋レストランでもよし、駅舎のレストランでもよし、美味しいランチとデザートを召し上がれ。(ただ天気が良い日は今度は席を見つけるのに苦労するほどここはお客さんが多い人気のハイキングコースです)

   
2009年7月30日撮影 
この日はあいにくあまり天気はよくなくて、駅舎レストランのテラスはお客さんもいなくて、独占状態でした。食事が終わるや、ウェイトレスのお姉さんがすかさずやってきて、お決まりの「うまかったか?」(これは皿を下げていいか、という意味ですが、一応「大変美味しくいただきました」と答えます)、オーストリアでは次に必ず、「何かデザート(といっても Nachspeise ですから、ケーキのことです) を食べるか?」と聞かれます。2009年はそれ以前に過ごしてきたスイスも、フランスでも、ドイツでもそんなことは聞かれなくて済みましたが、オーストリアに入った日から、特にこうして山にでも来れば、必ず食事の後にまだデザートは何にするか、と聞かれてしまいます。にこやかな笑顔に向かって、「いらない!」なんて答えられないじゃないですか。2009年ヨハンは日本をでるときに2つ目標を立てました。フランス語を熱心に勉強することと、毎日最低1,5000歩は歩くことです。その甲斐あってパリからドイツに移動した時点でヨハンは体調もフランス語も絶好調になっていました。しかし、オーストリアに入ってから、日に日に体型が元のもくあみ、重くなっていくのが分かるのでした。





今回ご紹介したコースは半日コースで、午前中にロープウェイでのぼって、山頂駅でお昼をとっても、まだ時間には余裕があることと思いますから、ロープウェイを下ってきたら、もと来た道を町に戻らずに、駅から向かって右方向に進んでいくと、500メートルほどのところに下のフランツ・ヨーゼフの狩りの像があるので、是非これも見に行くことをお勧めします。

パンフレットなどで見るイメージとはことなり、かなり大きな像です。





ヨハン 2012/10/14

皇帝が愛し、皇帝を愛したビーダーマイヤーの町 ― バート・イシュル (下)

2012-10-29 00:04:20 | バート・イシュル

Trinkhalle ( 画像の背後左端に見えるのが郵便局 ) 2009年7月30日撮影

トリンク・ハレ ( 飲泉場 ) が建つ場所はアウベク広場 Auböckplatz です。ギリシャ神殿風の柱に飾られた建物は最初からのデザインで、建築後20年経って大幅な改修をする際にもこのデザインは維持されました。
1829年、ウィーンの建築家レスル Franz Xaver Lössl によって建てられ、1831年開業されました。
 (注) すでにこれ以前の1823年に塩泉療法医師ゲルツ Josef Goerz によってイシュル最初の Badestube ( 温泉浴のためのキャビン ) がつくられています。

こちらの画像の Trinkhalle の方は、皇室の侍医で、イシュルを温浴治療の町として確立させ、名を知らしめたヴィーラー博士 Dr. Franz Wirer 注) の主導により建てられたもので、ヴィーラー温泉場 Wirerbad ( あるいは Solbad 塩温泉場 ) と呼ばれました。温泉浴と同時に Molke ( 乳しょう ) を飲む療法も行われました。
 注) 前回の記事に出てきた Hoftheater もヴィーラーの主導で建てられました。バートが肉体を、劇場は心を癒す、というコンセプトからです。

これらを調べていて、以前このブログでドイツ、アウグスブルクのゲッギンゲン・クアハウス Kurhaus Göggingen (1886年完成) で書いたことを思い出しました。こちらの方は Milchkur ( 牛乳を飲むことによる肉体療養 ) と施設に併設された劇場で精神を解放する心の療養が一体となっていました 詳しくは→ 「『ヴィクトーリアと軽騎兵』 ― オペレッタに登場した日本人モガ」をお読みください。

ヴィーラーはフランツ・ヨーゼフⅠ世の侍医もつとめ、イシュルの名を避暑と湯治の場として確立させました。
ゾフィーが子宝に恵まれるように医師のすすめでイシュルで温泉治療をしたのは1829年で、その甲斐あってフランツ・ヨーゼフを無事出産したのが翌年の1830年。まさにイシュルの温泉治療の歴史と名声はフランツ・ヨーゼフの誕生とともに始まり、確立されていくことが分かります。

ところで、チェコのカールスバート、マリーエンバート ( ドイツ語読みで書いていることをお許しください ) も、バート・ガスタインもそうでしたが、ヨーロッパの温泉の主流は飲泉治療です。19世紀のヨーロッパでバート ( 温浴 ) が主流とならなかった理由は、やはり疫病感染、具体的にはよく知られるように梅毒の感染をおそれたからなんでしょうね。

このヴィーラー・バートには建物の南翼部に温浴キャビンが設置されていましたが、19世紀の50年代に治療目的としての建物の役割は閉じられて、翼部も取り壊されたようです。

第二次大戦後には建物全体が取り壊される話となりましたが、歴史的建造物を保存する運動がおこって、2005年施設は、旧駅舎の土地と交換する形でオーバーエーステライヒ州からバート・イシュルの所有となりました。

2007年からトリンク・ハレの改修が始まり、現在は中に入ると、ちょっとしたコンサートとか講演会ができるホールがあって、ホールと反対側のフロアーでは、ヨハンが訪れたときはオペレッタの資料展を行っていました。
飲泉場というより、現在は文化施設のような役割を果たしているようです ( というわけで今でもこの建物が飲泉場 Trinkhalle と呼ばれているのは歴史的理由からで、実際には温泉関連のものはここにはありません )。
参考にした記事では、しかし Trinkbrunnen はやがて再建の予定だそうです。



どうしても気になるのでカイザーテルメについて再度検索をかけました。

現在分かり得る範囲で補足しますと、ヴィーラーがイシュルにやってきたのは1821年。そこで医師ゲルツの塩泉治療の効能を知りました。ゲルツがその治療法を始めたのは1807年からで、塩生産場で働いている労働者の病気治療だったようです。1822年にそとから治療目的で訪れたゲストの数は40人ほどでした。翌年には効能を伝え聞いたためかゲストの数は倍増したと言いますから80名ほどになったということですね。そして1823年のイシュル最初の Heilbad の創設につながります。これはプライベートなものではなくて、はじめて Solebad (塩泉浴) 専用の施設がつくられたという意味です。Salinenkassier ( 塩生産であがる収益を管理会計する人ということでしょうか ) をしていたテンツル Michael Tänzl がトラウン河畔の自宅につくったもので、テンツル・バート ( Tänzlbad ) と呼ばれました。

ほかに公共のテルメ創設に関する記事は見当たらないので、カイザー・テルメはこのイシュルの地でのテルメの歴史そのものが180年前にさかのぼる、と言っているのではないかと思います。ちなみに現在カイザー・テルメはザルツカマーグート・テルメと名前を変えています。


バーデン(bW)にアドリア海の砂を持ち込んで市営の温泉プールが出来たのは帝国崩壊後の1926年でした ( → このブログの「バーデンへ行こう」をお読みください )。 温泉プールは市民の時代になってからの文化です。19世紀はあくまで医師の処方にもとづく治療として温泉浴が利用されました。




アウベックガッセに隣接する他方の通りは Pfarrgasse プファルガッセです。
そろそろ散歩に疲れたころかも知れませんね。
しばらく行けば、右手にカフェ・ツァウナーがありますから、一休みしましょう。

ウィーンでワインの小売とお菓子を売る仕事をしていたツァウナー Johann Zauner をイシュルでケーキ屋 (Konditorei) をするよう呼び寄せたのはヴィーラー博士でした。そして Maxquellgasse (トラウン川の対岸にあります) にあったヴィーラーの Keller (地階) でツァウナーがケーキ屋を始めたのが1821年。1832年に Pfarrgasse に本店を出しました。
父の死後店を継いだ息子 Karl はイシュルの大火で店を消失しましたが、4年後の1869年に同じ Pfargasse に現在の店を再建しました。シシーはイシュルを訪れるときは必ずツァウナーの店に立ち寄りました。

エスプラナーデの店は1927年、それまでカフェ・ヴァルターとしてあったものを 初代の孫 Viktor が Café Esplanade Zauner として開店させました。
エスプラナーデの店には音楽家や作家もたくさん訪れましたが、なかでもレハールはカジノ (ここはダンスホールが併設されたカジノでした) の負けや、ケーキの代金を Liedl (小さな曲) をその場でつくって支払い代わりとしたこともあったようです。

1958年ブリュセルの世界博でツァウナーの Ischler Törtchen は金メダルを得ています。このケーキは翌年コンサート・ワルツに作曲されました (作曲 Eugen Brixel)。

初代からすると何代目になるのでしょうか、養子となる方ですが 1948年生まれの Josef さんは、日本のケーキ専門学校で教えることもあり、1988年から客員教授をしているようですよ。



          
   Pfarrgasse のカフェ・ツァウナー本店 (資料写真)

ロゴには1832年の開業と記されています。日本で言うと天保3年だそうです ( だそうてす、って。なんてったって生まれていなので分かりません。 ) 鼠小僧が処刑された年だそうです。そうかあ、ツァウナーのおいしいケーキを食べることも出来ずに死んじゃったんだ。



(資料写真) ツァウナーの名物 Zauner Stollen ツァウナー・シュトレン
シュトレンも最近にわかに日本のクリスマス・シーズンになると店頭にならぶようになりました。でも、最初にシュトーレンなんて間抜けな発音した奴は一体誰なんですかね。音としてドイツ人が聞くと「何か盗まれた」と言う意味に捉えられますよ。あなたは「クーロワッサン」と発音しても笑いませんか?




さて、歴史散歩を再開しましょう。
ツァウナーの店を出たら右手、クアパルク Kurpark に向かって歩くと、建物の並びが途切れたところで、左手にようやくトラウン川を渡るエリーザベト橋が見えてきます。右手に目を向ければ、一角が広場になっています。シュレップファー広場 Schröpferplatz と呼ばれ、端っこにやけに大きな、立派な噴水が建っているので目を惹かれます。



Schröpferplatz 2009年7月29日撮影
プファルガッセ Pfarrgasse が終わるところがシュレップファー広場で、その角に大きな噴水が建っています。



Der Franz-Carl-Brunnen 1997年8月14日撮影

この噴水は1881年につくられたもので、フランツ・ヨーゼフの父の名をつけ、フランツ・カール・ブルネンと呼ばれます。ただフランツ・カールと直接結び付く要素があるわけではなく、柱の中ほどをぐるりと取り囲んでいる像は、それぞれイシュルの産業を支えた鉱夫、狩人、猟師をかたどっています。

南北にはしるこの大きな通りはヴィーラー通りといいます。西側に広がるのがクア・パルクです。中に入って北側に進むと、写真の大きな胸像が目に飛び込んできます。
バート・イシュルにとっては皇帝以上に町づくりの恩人として、彼は今もこうして町を見守っているのです。


Kurpark にたつ Wirer の像 (資料写真)

もうどこからでも、下の写真の建物が見えているはずです。


2009年8月30日撮影

これは1875年5月30日に建てられた Kurhaus を前身とします。その頃にはイシュルも観光客が多く訪れるようになって、その人たちのニーズをみたすに十分な大きさの建物が必要となっていたのです。
1965年2月の大火で大半が損傷しましたが、町は直ちに修復を決め、焼け残った部分を活かしながら再建しました。
やがて1977年に大規模な改修が決まり、ようやく1999年7月11日レハールの《パガニーニ》の上演で新装なった現在のコングスハウスのこけらおとしがおこなわれました。
私たちは新装前に二度クアハウスで夏のオペレッタを聴きましたが、そのときの印象は、客席の床が通常そうであるように後ろに向かって傾斜しておらず、前の人の陰になってずいぶんと舞台が見づらかったことと、何にもまして空調がよくなかったせいか、ひどく汗をかきながら聴いた記憶です。
現在は客席はとてもひろびろとして快適になりました。
パウゼになれば、クア・パルクにでて涼しい風に吹かれながら、舞台の余韻にひたることができます。

このクア・パルクのどこかにレハールの胸像が建っていますから、それを眺めつつ私たちはまたヴィーラー通りまで出て、今度は右手に向かって目の前のエリーザベト橋を渡って、トラウン川の対岸に出ることにしましょう。



Kurpark にあるレハールの像 2009年7月29日撮影


エリーザベト橋を渡って川岸の道を左手に進むと、直ぐの場所にレハール・ヴィラがあります。


トラウン河畔にたつレハール・ヴィラ (画像左側の建物) 2009年7月30日撮影

レハールは1912年にこのヴィラをサブラン公爵夫人 Herzogin von Sabran より譲り受けて以来、ほとんどの夏をここで過ごしました。遺言により死後は博物館として一般に公開しています。


次はもう一度橋のたもとに戻り、左に折れ、バス通りでもあるグラーツァー通り Grazer Straße を道なりに、坂道を上がっていくと、やがてバート・イシュルの市営墓地が右手に見えてきますから、多くの芸術家が眠るこのお墓を訪ねることにしましょう。


    
1997年8月14日撮影
左から、レハール Franz Lehár ( 1870年4月30日 - 1948年10月24日 )
タウバー Richard Tauber ( 1891年5月16日 - 1948年1月8日 )
O・シュトラウス Oscar Straus ( 1870年3月6日 - 1954年1月11日 )
の墓 


再びエリーザベト橋をエスプラナーデに向かってわたって行くとき、正面の建物(写真↓)にそれまでは気がつきませんが、壁面上部に Residenz Elisabeth の文字が読めます。



かつてのホテル・エリーザベト 資料写真

このホテルはイシュルきってのノーブルな高級ホテルでした。
創業の年が具体的にいつだったかは、調べがついていませんが、バート・イシュルを訪れた方は写真の左端に半円形のガラス張りのカフェが出来ていて、Cafe Sissy と名乗っているので、記憶に残っていることかと思います。そのカフェのホームページの説明によると150年の歴史があると書かれていますので、ホテルが出来たのは1860年代のことと思われます。英国王エドワード七世、ビスマルクなども宿泊したと書かれています。現在は2004年にカフェが開業したほかは、かつてのホテルは Wohnungsresidenz ( 高級マンションという意味でしょうか ) となっています。カフェ、レストランのホームページには写真がいくつか公開されていて、内装は一見の価値があるようです。( ヨハンたちが最初にバート・イシュルを訪れていた頃には建物はカフェのホームページの説明をそのまま引用すれば、まさに Dornröschen (眠り姫) 状態にあったため、その後カフェが開店したのを知っても、いつも混んでいる様子で、立ち寄らずじまいです。)
なぜ再建がなかなかかなわないのかについては、記述を見つけることができます。
バート・イシュルの多くの建物が大戦中 Lazarett 野戦病院として使われざるを得ず、戦争が終結を見ても、中はとてももとの建物の機能を復活できるような状態ではなく、資金の問題から放置されざるを得なかったようです。

ちなみに写真に見えている建物前のトラウン河岸に、夏のシーズンこの建物に入っている中華レストランがテラスを出します。今年メニューに海鮮いため(海老入り)というのがあって、頼んでみると、鉄板でまだぷちぷち音をたてている海鮮炒めが道路を渡って運ばれてきたので、まわりのお客さんも興味を惹かれたのでしょうね、ウェイトレスのお姉さん(多分経営者の奥さんかと思われます)は、その後もぷちぷち音を立てながら鉄板を運んでいました。海老もしっかりたっぷり入っていました。




エスプラナーデ Esplanade

エリーザベト橋を渡って左がエスプラナーデです。



1840年に描かれたエスプラナーデ 資料写真


   
1997年8月14日撮影 エリーザベト橋から眺めたエスプラナーデ

この散歩道は1830年につくられました。ゾフィーがフランツ・ヨーゼフを無事出産した年です。
その後1869年に拡張整備されました。途中にそのことを記したペナント碑があり、おそらくそれ以来ゾフィーのエスプラナーデと呼ばれるようになったものと思われます。

ずっと歩いていくと途中から森の中の小道に入り、左手にトラウン川のせせらぎを聞きながらなおどんどん歩いていくと、カトリンのロープウェイ乗り場までほとんど迷うことなく通じています。

カトリンの話は次回として、まずはかつての Seeauerhaus、現在市の博物館となっている建物について見てみることにしましょう。

ここはかつて塩を船で運ぶ運送業者 Seeauer ゼーアウアー の館で、川岸に船着き場がありました。
町が湯治場となり、1834年に大公フランツ・ヨーゼフとゾフィーがこの建物の二階を定宿とするようになりました。1853年にはここで皇帝フランツ・ヨーゼフはシシーと婚約しました。

大公夫妻が亡くなった後1878年には建物は Hotel Austria となりました。ホテルとしては1982年まで営業していました。その年市が州の資金援助を受け建物を買い取り、1989年3月11日博物館として開館しました。
わたしたちが訪れたときはまだ民族博物館といった趣でした。ヨハンはバート・イシュルでつくられる帽子を記念に買いました。今はどうやらシシーを中心とした展示などをおこなっているようです。

鉄道が出来る前はトラウン川は塩の運搬だけではなく、おおくの客が船でラウフェン方面に出かけたりするのにも利用しました。


ここからカフェ・エスプラナーデ・ツァウナーはもう直ぐちかくです。

   
     
カフェ・エスプラナーデ・ツァウナー 2009年7月29日撮影


         
         2001年8月1日撮影
パビリオンの前では夏のシーズンこのようにオープン・コンサートもあって観光客を楽しませてくれます


 
2011年8月8日撮影

この年はわたしたちとしてはめずらしく店内に入り食事をしました
店内はとても混んでいて、ドイツ人のご婦人と娘さんが席を探していたので、あい席しました。なにを召しあがられるのかな、と思っていたら、ケーキでした(写真のとは違います、これはヨハンが注文したものです)。そして、頬をすこし染めながら、いつもバート・イシュルにくると必ずこのケーキを食べるのです、とおっしゃいました。「それが楽しみで毎年きているのよ」
   



2011年8月8日撮影
私たちが初めてこのエスプラナーデのツァウナーを訪れたのは1990年、St.ヴォルフガングからオペレッタを聴くために日帰りで初めてバート・イシュルを訪れたときです。会場のクアハウスに近いので、立ち寄ることになったと思います。そのときメニューに Nockerl があったので、デザートは迷わずそれを注文しました。1983年ウィーンに一年いたとき、わたしたちはよく昔の映画を見にフォルクス・テアーター脇のベラーリアというリバイバル映画を専門に上映している映画館に通い、いろいろ昔の映画スターをスクリーンを通して知りました。ザルツカマーグートのことを知ったのも映画を通して。そして当時まだ存命だったペーター・アレクサンダーが映画の中で歌う「ザルツブルガー・ノッケルル」の歌。「どんな食べ物なんだろう」と以来ずーっと脳裏を離れずにいました。

運ばれてきたノッケルルにロザーリウムとわたしは本当にのっけぞりました。あははは。寒いだじゃれだ。

残念ながら写真は撮ってありません。

卵のスフレで、見た目はジャンボですが、口にするとふわふわふわ~と解けていきます。いろいろなジャムと一緒に食べた記憶です。

この写真は、ケーキ (ツァウナーも多くのオーストリアのケーキ屋さんのように、ショーケースで選んで番号札をもらって席で待つというスタイルです) を探しにいったロザーリウムが、戻ってくると、「ノッケルル、見本が飾ってあるよ」というので、ヨハンも「それっ」とばかりに見に行って撮影したのです。サンプルはつくりものなので、なんかパンのように見えているかもしれませんね。当時私たちが目にした実物はもっと見た目もふわあ、とした感じでした。




今回この記事を書くにあたってグーグルの地図でバート・イシュルを子細に眺めているうちに、テンツルガッセ Tänzlgasse という名前の通りが、このツァウナーのすぐ近くにあることが分かりました。イシュルで最初にトラウン河畔の自宅に Solebad をつくったあのテンツルです。どうやらこのあたりだったようです。(ウィーンだとすべての記念的建造物には赤白の旗がなびいて、その下に説明が書かれたプレート板が飾られているので、すぐにそこが歴史的な建築物だと分かるのですが、バート・イシュルについてそういうものがないので、なかなか苦戦します)


川の方に目を向けるとこの近くに再び川をわたる橋がかかっています。
バート・イシュルの散歩の締めくくりに、その橋を向こう岸にわたって、目の前に見えているジリウスコーゲル山頂まで歩いて上ってみることにしましょう。



ジリウスコーゲル Siriuskogel



資料写真

この山、山頂の標高599m、町からですとおよそ130メートルくらいの高さの山です。
山頂に見えている塔 Aussichtsturm は1885年に出来ているので、そんなに古いものではありません。
インゲンハイムはフランツ・ヨーゼフとシシーの婚約が決まった日のことを次のように記しています。

「午餐(ディナー)はハルシュタットでとる手はずになっていた。そこへ向かう途中、シシーはちょっと寒けがした。フランツ・ヨーゼフは、そのいたいけな体を暖かい軍用コートに包みこんだ。こうして彼はフィアンセにぴったり寄り添うこととなり、前日の雨に洗われてすがすがしくなった風景を一つ一つ彼女に示していた。
 バート・イシュルに戻ってきたのは、晩ももう遅いころだった。そこでシシーは思いがけずすばらしいものを見る。二人の婚約を祝して、この小さな町に数千のローソクが灯されていたのだ。シリウスの丘では、たくさんの小型ランプで"花嫁の花冠"が夜空に描き出されており、花冠の内側にはFJとEのイニシャルが輝いていた。通りという通りで、住民がカップルの帰りをしんぼう強く待っていた。このときばかりはシシーも、人々が皇帝に示す忠誠に心打たれる想いだった。」
(マリールイーゼ・フォン・インゲンハイム「皇妃エリザベート」、集英社文庫)

山頂に至るルートはいくつもありますが、ここから川の対岸に出ていく道が多分一番分かりやすいのではないかと思います。ジリウスコーゲルの標識に従って歩いていきます。
途中からは息が切れる急坂ですが、そんなに高い山ではないので、ゆっくりゆっくり登って行きましょう。


    
Einsiedlerstein (左は資料写真、右は今年8月14日にヨハンが撮影したものです)

ちょうど道半ばのところでしょうか、森の中にこのような岩が姿を見せます。
Einsiedlerstein と呼ばれていると説明があるので(左の写真)、ヨハンはてっきりこんな森の中で大昔に身を隠していた世捨て人がいたのか、と思ってしまいました。

どうやらそれは全くの誤解で、世の中から見捨てられたのはこの岩そのもののようです。

見捨てられたという表現も変か。これは大昔に氷河がここに残していった岩だそうです。



    
ジリウスコーゲル山頂 2012年8月14日撮影

写真はありませんが、展望塔は登ることができます。
レストランがありますから、テラスでビールでも傾けながら、バート・イシュルを上から見てみるのはいかがでしょうか。
右側の写真の右手前に見えているのが  Jainzenberg、カイザーヴィラはその麓にあります。

画質が落ちますが、写真を拡大してみます


旧ホテル・エリーザベトの左端にカフェ・シシー、フランツ・カール・ブルネンも確認できますね。そして教区教会 Pfarrkirche





おまけです


2011年8月9日撮影

バート・イシュルにはたくさんのヴィラが今も残っています。
大半はコングレスハウスより西側にあります。私たちが泊まったホテル Stadt Salzburg からオペレッタ会場のコングレスハウスに出るにも、いろいろな道があり、ネストロイのヴィラも歩いている途中で見つけました。それらは今も個人の所有で公開されているわけではありません。一日ゆっくりと町はずれに向かって散歩してみると多少昔の面影に触れることが出来ると思います。

そしてこのようなばかでかいシシーの像を置いているヴィラにも出くわしました。

持ち主はどのような人なんでしょうかね



2009年7月30日撮影
町はずれに足をのばせば、こうしたオーストリアらしいのどかな景色が広がります

( この記事は2012/10/10 と 2012/10/13をまとめたものです) ヨハン

皇帝が愛し、皇帝を愛したビーダーマイヤーの町 ― バート・イシュル (上)

2012-10-29 00:01:26 | バート・イシュル
ドイツ諸国ではナポレオンの支配から脱し、ウィーン会議で王政復古が果たされた1815年から、市民革命の嵐が吹き荒れる1848年までを「ビーダーマイヤー時代」と呼びます。
この言葉には政治的な意味合いがこめられているというより、むしろ歴史が逆戻りしたなかで、市民階層の心持が内に向かい、自分たち固有の文化、郷土に目を注いだ時代と捉えられています。建築様式、家具、服装はもとより、生き方そのものにおいて、伝統、手作り、質素が尊ばれた市民文化の時代だったのです。




現在バート・イシュル観光の目玉の一つにフランツ・ヨーゼフⅠ世の夏の離宮 Kaiservilla があります。


Kaiservilla 資料写真

トラウン河畔にはフランツ・ヨーゼフがお見合いの相手であったネ (後ろにアクセントがおかれます) ではなくて、ネネにくっついてきた妹シシー注) に一目ぼれしてしまい、一転まわりの誰一人予想もしなかった二人が婚約、その舞台となった Seeauerhaus が今も博物館として残っています。


Seeauerhaus、後の Hotel Austria (現在は博物館となっています) 資料写真

 注) バイエルン公女エリーザベト、通称シシーは自らは Sisi と綴りましたが、戦後大流行した映画三部作『シシー』(1955年公開)で Sissi と綴られ、二つの綴りが共存することになってしまいました。また Elisabeth のほうもこれはどうやら宝塚のミュージカルで「エリザベート」とされたせいか、いまでもこの読みを踏襲している書物が少なくありません。正しくは「エリーザベト」で、「りー」のところにアクセントがおかれます。


そもそも、では、なぜウィーンから遠く離れたバート・イシュルに皇帝の離宮があるのか、なぜフランツ・ヨーゼフはこの地でお見合いをしたのか、疑問がわきます。

その疑問を解消しようとすると私たちは、先ずはフランツ・ヨーゼフ誕生の秘話へといざなわれるようです。

以前エピソードをご紹介したように、オーストリア皇帝フェルディナントⅠ世は後継者に恵まれませんでした。何かあったとき次に皇位を継承するのは弟のフランツ・カールでした。
 (注) ちなみにこの兄弟には1791年生まれの姉がいて、その姉マリーア・ルドヴィーカは、ジョゼーフィーヌを離婚した皇帝ナポレオンⅠ世の二番目の妻として1810年に結婚、皇后マリー・ルイーズとなり、翌年息子 Reichstadt (フランス語読みで「レシュタト」、ドイツ語読みでは「ライヒシュタット」)公を出産しています。レシュタト公は1815年、わずか4歳で正式にフランス皇帝ナポレオンⅡ世となりますがその在位期間はひと月にも満たないものでした。
祖国オーストリアを蹂躙し、家族をシェーンブルンから追放したナポレオンとなぜマリーア・ルドヴィーカが結婚する気になったかと言えば両国の関係がただひたすら良くなるようにとの願いからであり、ナポレオンがなぜ自ら神聖ローマ帝国を解体させ初代オーストリア皇帝となる屈辱を味わわせたフランツⅠ世の娘を妻に迎えたかと言えば、まあ、秀吉がお市の娘茶々を淀様とした心情と似通うものだったと思われますね。武力で天下をとっても素姓のいやしさはごまかせません。せめて子には血統のよさを受け継がそうということですよ。秀頼の生涯も不幸な短いものでしたが、ライヒシュタット公もわずか21歳の若さで、1832年シェーンブルンで亡くなっています。
なんだかねえ、このあたりはNHKの大河ドラマに仕立てられそうな内容じゃありませんか。


(話を戻して) ところがフランツ・カールも妻ゾフィーとの間になかなか子をもうけることができないでいました。

別に皇帝にも、その弟夫婦にも後継ぎが生まれなくても、皇位を継承する正統な候補者は当時14人、そのほかに11人ハープスブルクの血を受けつぐ成人男子がいたようで、ここでハープスブルク家が断絶するかといった切羽詰まった悲劇的状態ではなかったようです。
(G.Prachl-Bichler: Die Habsburger in Bad Ischl, Leopold Stocker Verl.)

焦っていたのはバイエルンから嫁に来たゾフィーです。夫の兄の現皇帝フェルディナントⅠ世はお人よし、皇位継承に最も近かった夫フランツ・カールはもっとお人よしで、無能。国のトップがこんな腑抜けばかりではかつての大帝国もナポレオンにいいようにされたのも当然であろうし、これからの行く末を思えば没落の一途となる運命は必然。気の強いゾフィーからすればまさに歯ぎしりの毎日。せめて自分に男の子があれば、必ずその子にオーストリアの運命を託させて見せる。ゾフィーは歴史上悪役を買わざるを得ない立場に置かれてしまっていたのですが、善意に受け取れば、だらしのない周りの男たちに代わって何としても国を立て直したい一心だったのです。春日野局実母バージョンといった役回りでしょうか。

ところが、彼女には子宝が恵まれません。これまで5度流産を経験していたのです。

ゾフィーは1829年の夏、医師のすすめでイシュルで Kur (塩泉治療) をして過ごすことになりました。そして6度目の懐妊。今度は医師の厳しい指示も守りました。その甲斐あったのかついに念願の男児を無事出産したのです。
「1830年8月18日のことだった。塩泉での治療が実ったというので、この子は「塩の王子」とも呼ばれた。これ以後、バート・イシュルは効能豊かな塩泉として広く知られるようになり、今日も夏の保養地として賑わっている。」(江村洋、「フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝、東京書籍)
 (注) 以前も書きましたが、イシュルがバート・イシュルを名乗るのは1906年以降です。それ以前の歴史を語る時にバート・イシュルとするのは、秀吉の「大坂」を「大阪」と書いたり、徳川の時代を東京というようなもので、感心しませんよ。それとゾフィーはその後マクシミリアン、カール・ルートヴィヒの二人の息子に恵まれ、それまで子に恵まれなかった彼女が塩泉治療の甲斐あってつぎつぎに男の子を生んだことへの驚き、揶揄の言葉として「塩の王子たち」と呼ばれたわけで、長男フランツ・ヨーゼフだけを指した言葉ではありません。
Seine Geburt ― und die der zwei rasch folgenden Brüder ― schrieb man vor allem der heilbringenden Wirkung der Ischler Solebäder zu, was den dreien den scherzhaften Titel von Salzprinzen bescherte. (G.Prachl-Bichler: Die Habsburger in Bad Ischl, Leopold Stocker Verl.)
クレームばかりで申し訳ありませんが、オーストリア最後の皇帝はフランツ・ヨーゼフⅠ世ではなくて、1916年に皇帝となった、カール・ルートヴィヒ大公(フランツ・ヨーゼフⅠ世の末弟)の孫のカールⅠ世です。


ということで、イシュルがすでに、やがてオーストリア皇帝となるフランツ・ヨーゼフが生まれる以前から、塩泉治療の町として名を知られていたことが分かります。

イシュルに関して、ハープスブルク宮廷と塩という二つのキーワードが浮かび上がってきます。

現在、バート・イシュルに関してネット検索をすると、「バート・イシュルはザルツカマーグートの中心地である」旨の説明に出あうことだろうと思います。

ザルツカマーグート Salzkammergut という言葉が、今の二つのキーワードをさらに具体的に解き明かすことが分かります。

カマー Kammer という言葉は、分かりやすく言うと国や地方の財務をつかさどる部署のことです。
グート Gut は土地、という意味です。
つまり Kammergut で「御領地」という意味で、この場合、誰の御領地だったかが問題です。

カイザーヴィラを訪れたことのある人なら、フランツ・ヨーゼフが狩りが大好きで、たくさん鹿の頭が飾ってあったことに想いをはせ、「皇帝の狩りの場!!!」と答えてしまうかもしれませんね。

ぶーーーー

間違いです。Kaiservilla の歴史よりも、もっとむか~しから、イシュルを中心としたこの一帯は Kammergut だったのです。

答えのヒントは、先頭にくっついている Salz ザルツ 「塩」という言葉です。

ハルシュタットからこのイシュル一帯は「白い黄金」(怪しい言い方で申し訳ありません、ドイツ語では weißes Gold です) とも呼ばれた塩の産地だったのです。塩は当時とても貴重なものだったため、特別御領地として管理されていたと言うわけです。それは旅人を立ち入らせないほど厳しく管理されて、まったく独自の閉鎖空間をつくっているほどでした。
その閉鎖性は18世紀末 (1797年) に学術調査でこの地を訪れた自然科学者のアレクサンダー・フォン・フンボルト (あのフンボルトペンギンに名を残した近代地理学の祖です) でさえ、調査になにかと支障をきたすほどだったと言いますから、今私たちがザルツカマーグートでイメージする世界(開放的なリゾート地)とは、まだほんの少し前まで、まるっきり違った世界(閉鎖的な塩生産の場)がここにあったと言うことですね。すべてが塩生産のための活動でした。山国ですから岩塩をお湯で煮炊きして精製するわけです。森林から切りだされる木材もそのために必要とされる大切な燃料でした。


塩生産に支障をきたさないよう、木材の切り出し場は厳重に管理され、外敵から守られていました
(J.H.Handlechner, Hannes Heide: Bad Ischl, Die Stadt und ihre Umgebung, Landes Verlag)


このような閉鎖的な社会という町の歴史を持つイシュルを、なぜゾフィーがめでたく思い通り皇帝にならせることをかなえた息子フランツ・ヨーゼフの妃選びとなるお見合いの場に選んだかおのずと答えが導きだされてきましたね。

お見合いが行われた1853年、イシュルにはまだ鉄道は通っていませんでした。この年ゼメリングには鉄道がとおりました。技術的な問題が建設を遅らせたわけではないと考えた方がよいようです。当時塩の運搬手段は水路によりました。

そしてゾフィーがお見合い相手に選んだのは、自分の妹ルドヴィーカの娘ネネでした。フランツ・ヨーゼフからすれば、従妹注) にあたる人物です。バイエルンのポッセンホーフェンからここは地理的にはウィーンより近いわけですが、それが理由ではありません。すべてに優先してゾフィーは外から邪魔な影響が及ぶことを排除しようとしたのです。
 注) カトリックではいとこどうしの結婚には教皇の許可を必要としました (マリールイーゼ・フォン・インゲンハイム「皇妃エリザベート」、集英社文庫)

でも、肝心かなめの息子の心までは、思い通りに出来ませんでした。それでもシシーを皇妃として受け入れたのは
ゾフィーにとって子宝に恵まれたのもこのイシュルという土地のおかげ。案ずるよりは生むがやすし、まあ、息子が一目ぼれしたシシーなら、悪いようにはならないだろう。そう思ったのでしょうね。
 (注) このあたりのゾフィーの心情をインゲンハイムは次のように綴っています。
 フランツ・ヨーゼフは・・・(シシーの) 耳もとにささやいた、「ぼくがどんなに幸せか、きみにはわからないだろうね」
 この言葉を小耳にはさんだ大公妃(ゾフィー)は腹立たしさを覚えたが、それは抑え、一人こう思った。「フランツ・ヨーゼフが愛する小娘と結婚する、そのほうがいいのかどうかはわからない。シシーはたしかに頼りないが、しかし彼の苛酷な運命を和らげてくれる、という可能性はある。シシーが彼を好いているのは、一目みればわかる。けっきょくシシーは彼のためを思って、よき皇妃となるよう努めるのではなかろうか」(前掲書)


 (注) Salzkammergut についてのはっきりとした言葉の定義はマイヤーの百科事典に載っています。

原文 Mit Rücksicht auf die Salzgewinnung waren das obere Trauntal und das Gebiet um Hallstatt vielleicht schon im 13. Jh. eine landrechtl. Einheit, spätestens seit der Verleihung einer von Oberösterreich geschiedenen verfassungsrechtl. Stellung im frühen 16. Jh. durch Kaiser Maximilian Ⅰ. Der Name S. (ヨハン注: Salzkammergut) bürgerte sich zur Unterscheidung vom übrigen landesfürstl. Kammergut (dem Teil des Territoriums, in dem der Landesfürst nicht nur Landes-, sondern auch Grundherr war) ein und ist 1656 erstmals belegt. Erst unter Kaiser Josph Ⅱ. verlor das Gebiet seine bes. Stellung. Als Folge davon wurde der Gebrauch des Namens S. auf das heutige S. ausgeweitet.

塩の産地であることを考慮してトラウン川上流域とハルシュタット一帯はおそらくすでに13世紀には、遅くとも16世紀初頭に皇帝マクシミリアンⅠ世 ( ヨハン注: 神聖ローマ帝国皇帝、在位1508-1519 ) によってオーバーエスターライヒから分離された法的地位が付与されて以来、同一のラント法が支配する共同体であったと思われる。ザルツカマーグートという名前は他の領邦君主の御領地(カマーグート)、( すなわち領地内にあって、領邦君主が領邦の主であるのみならずその土地の所有者でもある領域 ) と区別する形で認知され、それは1656年初めて記録の上で確認される。皇帝ヨーゼフⅡ世 ( ヨハン注: 神聖ローマ皇帝、在位、1765-1790 ) のときになって初めて、地域はその特別な地位を失った。その結果ザルツカマーグートという名前は今日われわれが使っている意味へと拡大使用されることになった。

門外漢の訳なので不備はあるかと思いますが、この説明によって明らかになることは

ザルツカマーグートはどうやら今日風に言えば、皇帝からお墨付きをもらった「特別自治区」のような地域だったらしいと言うことです。ヨーゼフⅡ世によってその特権は失われました。

今日ザルツカマーグートという名前で、直ちに連想され、また、いろいろな記述に登場する景勝地という説明は、この特別自治区の置かれた自然がやがて19世紀に入って別の意味で(都会から見たリゾート地として)価値のあるものとして評価された結果、法的歴史的な概念をすっかり捨象して、地域も拡大して使われるようになったものだと分かります。

イシュルに関して補足すると
これまで取り上げてきましたように、19世紀に入って次々と整備されていくインフラのどれも、劇場(Hoftheater)にせよ、これはやがて K.u.K Hoftheater を名乗ってはいるものの、建設当初から国とは関係のない民間(やがてすぐに町が経営しますが)によってつくられたものでしたし、Trinkhalle も同じです。Seeauerhaus、フランツ・ヨーゼフがお見合いする場所ですね、これもゾフィーが定宿としていたため、必然的にお見合いの場所に選ばれたわけで、ウィーンの宮廷のヴィラだったわけではありません。カイザーヴィラでさえ、ゾフィーが買い取るまでは民間人のヴィラでした。
バート・イシュルになぜビーダーマイアー様式の建築が多く残されたかはこの町の歴史とは切り離せない理由からです。




以前バート・イシュルを訪れたとき、お店のウィンドウに気をひかれるCDを見つけ、翌日買いに行こうと、もう一度訪れてみると、休業。あれ? 日曜でも祝日でもないのに「なんでやねん!」と非常に不思議に思ったことがありました。
この町では、8月15日の Mariahimmelfahrt 「マリア被昇天祭」から8月18日のフランツ・ヨーゼフの誕生日の期間は Kaiserfest として各種の催しがあり、お店の多くもお休みになるのです。
そのことがインプットされてしまったので、以来8月中旬に旅行の日程を組む時は銀行やお店の休みにぶつからないように神経をはらうことになりました。でも、ウィーンであるときそのことを O さんに話すと、「カイザーフェスト? それはバート・イシュルだけだよ」と言われてしまいました。
また、ある年はカイザーフェストのさなかにザルツブルクからバスでバート・イシュルに入りましたので、町の中心部が交通規制され、外側から迂回して駅に向かっていき、予定のバス停で降りることができなかったこともありました。

とにかく、バート・イシュルは8月15日から18日の間カイザーフェスト一色になります。

   



2009年8月17日撮影


カイザーフェストがいつから始まったのか、調べてみましたが具体的な記述を見つけられずにいます。

しかしイシュルとフランツ・ヨーゼフの間に強い絆が1853年以来生まれたことは間違いありません。母ゾフィーが婚約が決まったお祝いに二人のために今の Kaiservilla を買ったからです。
このもともとビーダーマイヤー風のヴィラは、ウィーンのエルツという公証人が建てたもので、1850年に医師マスタリエの手に渡っていたのを、1853年ゾフィーが婚約の祝いとして贈ったのです。その後ネオ・クラシック様式に改築され、両脇に増築された建物によって全体がエリーザベトの頭文字の E になりました。
フランツ・ヨーゼフは毎夏数週間をこの別邸で過ごすようになり、特に自分の誕生日である8月18日はほとんど必ずここで過ごしました。ちなみに1914年7月28日フランツ・ヨーゼフが第一次世界大戦の発端となるセルビアに対する宣戦布告書に署名したのはこのヴィラでのことでした。
1916年フランツ・ヨーゼフが亡くなると、末娘のマリー・ヴァレリーが相続しますが、彼女の夫フランツ・サルヴァトール大公はハープスブルク - トスカーナの血筋であったので、ヴィラがハープスブルクの手を離れることはありませんでした。カイザーヴィラはハープスブルク家の私有財産であったため、オーストリア - ハンガリー帝国が崩壊した1918年以降も所有権は失われませんでした。二人の息子フーベルト・サルヴァトール・ハープスブルク - ロートリンゲンがこれを相続し、現在はまたその息子のマルクス・ハープスブルク - ロートリンゲンの所有となっています。夏の期間と冬は不定期ですが、ヴィラならびに公園が一般公開されています。




さて、私たちはいったんÖBBのバート・イシュル駅に戻り、そこから歴史散歩を始めることにしましょう。

駅にはバスの発着所もあり、鉄道もバスも、ここを始点、終点としてバート・イシュルと他の町を結んでいます。

鉄道路線は Salzkammergutbahn ザルツカマーグート鉄道と呼ばれ、アトナン・プフハイム Attnag Puchheim (標高415m) とシュタイナハ・イルドニング Stainach-Irdning (標高645m) を結んでいます。 1877年に107kmの全線が開通し、そのときイシュル駅 (標高468m) 注) も完成しました。特にエーベンゼー Ebensee (標高426m) からバート・アウスゼー Bad Aussee (標高641m) の間はトラウン川沿いに走り、周りには高い山々が車窓を通して見えていますが、鉄道そのものとしてはあまり起伏のない路線です ( シュタイヤーマルク州に入り勾配をあげ、バート・アウスゼーを過ぎ、路線の終点近くタウプリッツ Tauplitz 駅で区間の最高位地点標高835メートルとなります )。
 注) イシュル駅が完成したのは1877年10月23日でした。駅名がバート・イシュルとなるのは1907年で、それまで駅はイシュル駅と名乗っています。また、以前ご紹介した Salzkammergut-Lokalbahn ザルツカマーグート・ローカル鉄道が完成して、イシュルとザルツブルクがザンクト・ヴォルフガングを経由する路線で結ばれたのは1893年のことでした。残念ながらご紹介したようにその路線は1957年に廃線となってしまいました。

この地で生産される塩、またその生産に不可欠な燃料としての木材、これらを運搬するのに必要な手段としてはハルシュタット湖とトラウン湖との間をトラウン川が結んでいましたので、鉄道技術が登場する以前から水路を活用することが可能でした。
なぜベーメン ( ボヘミア、現在のチェコ ) のブドヴァイス ( チェコ名チェスケー・ブジェヨヴィツェ ) からリンツを経由してトラウン湖畔の町グムンデンまでを結ぶ区間に、すでに1827年から1836年にかけて、もちろん当時のことですから、蒸気鉄道ではなくて、馬車鉄道ですが、オーストリア最初の鉄道 ( これはヨーロッパ大陸としては二番目でした ) が敷設されたのか、オーストリアの歴史をひも解くときに不思議な想いを抱かせられますが、この馬車鉄道によってハルシュタットからブドヴァイスまでの全区間において塩の運搬が水路と鉄道で結ばれた意義を考えると納得されます。

そして便利さがまた逆にその後の鉄道敷設に遅れをとる理由ともなったようです。
ザルツカマーグート鉄道建設の計画が最初に持ち上がったのは1869年です。その時にはハルシュタットからイシュルを経由してトラウン湖畔のエーベンゼーまでの陸路を鉄道で結ぶ計画でした。そのあとはトラウン湖を従来のように水上輸送してグムンデンに運ぶという計画でした。馬車鉄道が狭軌だったので、ザルツカマーグート鉄道もそれに合わせる計画でした。
1873年完成をめざして工事がすすめられましたが、その間に経済危機にみまわれ、工事が中断している間に馬車鉄道の方がノーマル軌道の蒸気鉄道へとつくりかえられることになったので、ザルツカマーグート鉄道の方もそれまで建設されていた路線を廃棄して、1875年あらためてノーマル軌道の蒸気鉄道の建設へと踏み切ったと言うことです。

イシュルの駅舎はザルツカマーグート鉄道全線のなかで最大規模のもので、皇室専用の翼部がつくられていました。




ここからカイザーテルメ Kaisertherme 注) を右手にながめ、バーンホーフ通りを町の中心部に向かって歩くと、町のシンボル的な存在トリンク・ハレ ( 飲泉場 ) Trinkhalle が見えてきます。
 注) カイザーテルメはホテルの経営で室内温泉プールのほか露天のプールも備えた立派な施設です。ただヨハンは前を通り過ぎるだけで利用したことはなく、ネットで検索してもいつから存在するのか、歴史もわかりません。カイザーを名に冠してはいますが新しい施設だと思います。YouTubeにはプールの様子を撮影した動画があります。バート・イシュルで何泊か過ごす予定で来たのに天気の悪さとぶつかってしまったというときには温泉で過ごすのも手ですね。

トリンク・ハレに行く手前に郵便局がありますから、先ずはそちらの建物に目を向けることにしましょう。


Das Post- und Telegraphenamt 資料写真

この場所には製塩関係の大工工房があったのですが、それを取り壊して1891年に郵便局が建設されました。今も現役です。
19世紀末にはイシュルが多くの観光客を集めるリゾート地に急速に変貌していたことを証する建造物です。1906年にこの地を訪れたバイエルンの建築家 Dietzinger ディーツィンガーは、イシュルに牧歌的な風景を期待していたのに、町の入り口でにわかに出現する石造りのでかい近代建築に大変な失望、嫌悪感を抱いたそうです。最近はまた時の流れとともにこの建築の再評価もされているようです。1914年に完成した東京駅が最近復元され、「大正浪漫」を感じると大騒ぎしている私たちからすれば、この郵便局なんか十分すぎるほど19世紀末の浪漫を醸し出していると思いますね。

この角を郵便局と反対側の右手に入る通りはカイザー・フランツ・ヨーゼフ通り Kaiser Franz Joseph Straße と呼ばれ、今もかつてのホテル・ポスト ( ザルツカマーグートで一番古いホテルでした ) の建物がそのまま Hotel zur Post の名をつけて立っています。( ヨハンは以前、廃業しているのも知らず、ホテル探しをしているときに受け付けはどこですか? と聞いてしまったよ。)


Hotel zur Post 資料写真
1827/28年建設されたザルツカマーグート最古のホテルで、上記写真の郵便局舎が出来るまではここに Post が併設されていました。1890年7月31日ここで Marie Valerie は結婚披露宴を行いました。ホテルが廃業したのは1988年です。


その隣が Pfarrkirche 教区教会。72メートルの塔は300年の歴史を持ち、教会はマリーア・テレージアのもと、この塔に建て増しする形でつくられ、1780年に聖別されました。
通りを少し進んだ向かい側にはバート・イシュルでも最古参のカフェのひとつ、ヨハン・シュトラウス(息子)がよく通ったカフェ Ramsauer があります。



カフェ・ラムザウアーにはここで常連客ヨハン・シュトラウスの名曲のいくつかが生まれましたと記されています ( カフェ・ラムザウアーの創業は1826年です ) 
1997年8月15日撮影

さらにカイザー・フランツ・ヨーゼフ通りを進み、クロイツプラッツ Kreuzplatz に出たところに今は何気なく見過ごしてしまいそうにかつての Hoftheater 宮廷劇場が、現在映画館として残っています。


Hoftheater 往時の姿、画像の左手奥に見えているのが Pfarrkirche の塔、 資料写真
この劇場は1827年に出来ていますから、フランツ・ヨーゼフが生まれる前です。


現在の Lehár Filmtheater 資料写真

ヨハンとロザーリウムは昨年2011年8月8日にここで催された Kammerabend ( 内容はカバレットのライブ公演でした ) のチケットを入手し、劇場の中に入ることができました。今はどこの映画館も斜陽で華やかさとはほど遠いものですが、この劇場、びっくりしました。まさにプチ歌劇場。スケールが小さくはなっていますが、往時の絢爛さをしのぶに十分です。
Lehar Filmtheater でこの映画館のホームページを開くと、2007年に180周年!!を祝ったと書かれており、また、歴史の項目を検索すると、1827年4月28日のこけらおとし。コツェブーのお芝居でした (どうやらアマチュア芝居だったようです)。その年の11月から町が運営をするようになり、プロが出演するようになりました。芝居、オペラ、オペレッタとジャンルを問わずに取り上げました。フランツ・ヨーゼフも折に触れ直ぐ近くのカイザーヴィラからこの劇場を訪れたと思われます。
舞台にたった著名人のリストはまさにキラ星のごとく。ヨハン・シュトラウスも自らここで自作のオペレッタの指揮をとりました。パウラ・ヴェセリィとハンス・ヤーライによる「アルト・ハイデルベルク」公演。もちろんタウバーもここで歌いました。ジラルディ、ネストロイも、ハンス・モーザーも舞台に立ちました。数え上げればきりがありません。

でも20世紀に入って、映画の時代が到来すると、劇場のお客が映画館に流れたのは必然のことでした。
1947年エドムント・アイスラーの 《Goldene Meisterin》 がさしあたり最後の公演作品としてとりあげられ、以降映画館として使われるようになりました。


さて、私たちは映画館から次のシュールガッセ Schulgasse へと左手に折れ、もう一度トリンク・ハレの建物が建つアウペック広場に戻ることにしましょう。


ヨハン (この記事は2012/10/06、10/08、10/11 をまとめたものです)