ふえ吹き野うさぎ の ひとりごと

ここは、ふえ吹き野うさぎ の ひとりごとを連ねていったページです。 更新は気まぐれ。コメント大歓迎です♪

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1986年02月05日 | Diary
 あまり思い出したくないというと失礼ですけど、くよくよはしたくないので、自分の日記に書いたことを元に簡単に書きますね。
 リアルに思い出すのはこのブログ記事に書くのを最後にして、また書くことでけじめをつけることにします。


2月5日
18時ごろ
 ライブ直前に母から電話がありました。「(入院中の)おばあちゃんの調子がよくなくて、おばあちゃんが会いたい人を最後に会わせてあげたいから帰ってきてくれる?」という内容でした。
 この時私は、何よりも母がさりげなく言った「最後に」という言葉がものすごく引っかかっていました。

22時ごろ
 帰りの電車を待っている時でした。
 変な胸騒ぎがしていました。とにかく自分が落ち着けなかったことを覚えています。

23時ごろ
 帰宅して少しした後、具体的なことを聞こうと母に電話しなおしました。
 すると、おばあちゃんは既に亡くなっていました。
 亡くなった時刻は、やはり胸騒ぎのあった22時過ぎだということでした。

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2月6日
 諸用(部員への連絡と指示等々)を済ませ、地元の式場へ着いたのは22時45分頃でした。
 棺の中のおばあちゃんは、眠っているようでした。
 ・・・でも、両親が言うように、安らかであるようには、あまり見えませんでした。
 その日はお通夜でした。

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2月7日
9時
 告別式(?)が始まりました。
 お経が終わり、最後に棺が開けられた時、おばあちゃんはまるで息をしているように見えなくもありませんでした。
 花を添えに行く時、おばあちゃんの手に触れてみました。
 例えようのないほど、冷たかった。
 死んだのだ と 思いました。
 ここに来てやっと、涙が出ました。
 その場に居た親戚と、特におじいちゃんが泣いていました。
 この家族の「ゆがみ」が、おばあちゃんの顔に表れているのではないかと気にもしていましたが、それほど酷いものではないと思い、安心しました。
 変な話ですが、自分も、涙を流せる人間だったんだということにも安心しました。
 まもなく棺は閉じられ、自分はそれを霊柩車へ運ぶのを手伝いました。

10時半ごろ
 火葬場での、最後のお別れで、私はおばあちゃんが死んだ時に会っていたような気がしたので、「またどっかで会おな」と声をかけました。

 その火葬場は、見覚えのある火葬場でした。
 妹と外へ出て、話をしました。
 おばあちゃんの肝臓ガンのことや、本人の希望で延命をしなかったこと、僕が感じたのと同じように、おばあちゃんの顔があまり安らかには見えなかったこと、自分が到着する前の式中に、蝋燭の片方だけが異常にゆれていたこと、おばあちゃんの姿を一瞬だけ見たというようなことを語ってくれました。
 親戚の中で一番通じ合えるのが妹だということを、生まれて初めて心から感じました。

12時半ごろ
 お骨を納めました。
 姿が変わったことで、自分はもう涙しませんでした。

14時
 遠くの親戚への配慮で、初七日を早めて執り行いました。
 お経をあげてくれたお坊さんにも、見覚えがありました。

16時ごろ
 おじいちゃんと話をしました。
 数ヶ月ぶりに、近況を報告しました。するとおじいちゃんの方は、自らの過去を僕に話してくれました。
 自分の性格のいろいろなところが、おじいちゃん譲りであることがわかってきました。
 こうした深い話をおばあちゃんとするには、もう手遅れですので、これからはもっとおじいちゃんと話をしておきたいと思いました。



 ・・・あとは、実家に戻り、しばらく休養してまた大学側に戻ってきた次第です。

 わざわざこちらを読んでくれてありがとうございます。
 今自分は、全快とまではいきませんがいつもどおりふるまう事はできます。
 もちろんムリはしないつもりです。

 それでは、ご心配おかけして申し訳ありませんでした。
 いつも通りのふえ吹き野うさぎを、これからもよろしくお願いします。