『Welcomeのぶ・ろ・ぐ』A recluse in Manila

隠遁オヤジは今日もまた桜散る散る日本と陽はまた昇るマニラにて世の無常を嘆きつつ、後は野となれ山となれ。

決断行動即決!マリアシャラポワの両親

2014年02月06日 | プロ野球その他スポーツ




「『両親は私を妊娠した4ヵ月の時に、すべてを捨ててチェルノブイリから
130キロのゴメリからシベリアへ移住してくれた。

とても貧しかったけれど、今の私があるのは、両親のおかげなのよ!」」
(マリア・シャラポワ)

"チェルノブイリ事故後、シャラポワ氏の両親はゴメリからシベリアに避難しましたが、そこでシャラポワ氏は1987年に生まれました。一家は2年間をニャガンで過ごした後、ロシアの黒海沿岸の街ソチに移りました。
1995年、シャラポワ氏はテニスの指導を受けるためにロシアを離れ、渡米しました。

2004年には、ウィンブルドンで初のグランドスラム・タイトルを獲得し、女子テニス協会の年間最優秀選手に選出されました。
2006年には全米オープン、2008年には全豪オープンで優勝しています。"


「テニス界のスーパースターであるロシア出身のマリア・シャラポワ氏は、2007年2月に国連開発計画(UNDP)親善大使に就任しました。

シャラポワ氏はUNDPに協力し、世界的な貧困撲滅キャンペーンに対する支持を集める活動や、ミレニアム開発目標(MDGs)の達成に向けた国際的な取り組みを推進する活動を行っています。

親善大使としての立場からグローバルな課題に取り組みながら、チェルノブイリの復興開発の取り組みや資源の不足する地域にも特に力を注いでいます。」

写真:マリア・シャラポワ
両親の避難が無ければ、
”シャラポワ”
は、生まれていなかったろう。

”4大大会の女子シングルスで
 生涯グランドスラムを達成した”
その瞬間のマリア・シャラポワ。

(全仏オープンDay 14, 2012/06/10)
(ここまで)

マリアシャラポワが母親のお腹の中にいた時に、両親はチェリノブイリから出る決断を下したのです。
たとえ貧困になろうとも、生まれる子供や自分たちを守るために。

子供には決断できません。
親が素早く決断して、素早く行動したことが、その後の人生に大きな影響を与えた一つの例です。

この時、親は「周りの行動を見て決めよう。会社がどういうか気になる。自分の仕事はどうするんだ?」ということは気にしせずに動いたのです。気にしたかもしれませんが、放射能から逃げるという大事の前には、周りの人がどう思うか、仕事はどうするか、会社が自分にどう言うかなどということは、所詮小事でしかなかったのです。


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