日本の話
昨日、沖縄で「女性殺害の疑いで元米海兵隊員で軍属の男が逮捕された事件」に抗議する県民大会が開かれました
それは今日の朝日新聞大阪版の一面トップ記事だったこともあって、
ぼくは当然、今日のTVのお昼のニュースでもこの大会のことを取り上げるだろうな…と思ったので
TBS系列とABC系列とNHKのお昼のニュースをずっと見てたんですが、
なんと、その3局はお昼のニュースでこの大会のことを取り上げませんでした
これは、素朴に受け止めて、各局が「沖縄の県民大会で示された怒りと悲しみ」については、
(お昼の)ニュース番組のなかで日本全国の市民に知らせるほどのことでもないと判断した…
ということになりますけど、上記3局のお昼のニュースでは三面記事ネタや海外ニュースを始め
沖縄の県民大会よりも優先して伝える(報道)価値があるとは思えないネタのオンパレードだったところを見ると
これは、沖縄の県民大会のニュース価値を低く見た…というよりは
それを報道しないことを積極的に選択した…としか、ぼくには思えないのです
じゃ、なんでメディアが「沖縄(県民大会)隠し」をするのか…と言えば
それはやっぱり、政権意向忖度の結果…なのでありましょう
彼らにとっては、それが「自らの行動規範」というか「報道規範」であり、
今回も特に疑問も違和感も感じなかったんでしょうけど、その結果、自分たちメディアも政府と同様に
「(沖縄の怒りや悲しみを伝えないことで)辺野古新基地を推進する側に立ってる」
(=沖縄への米軍基地の固定化を推進する立場に立ってる)
ということまでちゃんと自覚した上で、そのような行動を取ってるのか?…と、
ぼくは彼らに聞いてみたい気持ちで一杯です
そのような立場を取ることは「政治的中立」に反する…ということになるはずなんですが
ぼくは何も「政治的中立」なんて実現不可能なものをメディアに要求する気持ちはありません
(加えて、それをメディアに要求することは、本来は自由であるべき報道の自由を縛ることになるので
そんなことをする気はありません)
けれども、ぼくがとっても気になる…というか、端的にけしからんと思うのは
この件からもわかるように、自分たちが「明らかに政権側の立場で報道してる」にも関わらず
メディアが「報道の(政治的)中立」なんてことを装ってること…でありまして
「中立を装った偏り」ほど、視聴者を誤誘導するものはありません
産経や読売なんてメディアは、もう、「そういうトコ」であることが十分に知られてるので
読者が「(政治的に)中立」だと勘違いする可能性はほとんどないと思いますが
(→もし、そういう勘違いをする人がいるとしたら、それは勘違いする方が悪い…というくらいの話ですので)
毎日や朝日(あるいはNHK)が「(政治的)中立を装いながら政権側の立場で報道する」というのは
視聴者を惑わせるものであり、端的に、こんなん、詐欺やんけ…と思います
そして、詐欺ということで言えば、「日本の(安全保障の)ことを考えてるフリをしながら、
アメリカの(軍事的)利益を最優先してる」自民党政権もまた同じ…でありまして
こういう詐欺に乗っかって市民が物事の是非を判断するのは、
スタートからして間違ってる(から、正しい判断ができるわけがない)…とも思うところです
※敗戦後、GHQ(→実質的にはアメリカ軍)に占領された日本には米軍基地がおかれることになりましたが
その比率は当初、「本土9:沖縄1」でした
しかし、その後、本土の米軍基地は整理縮小され、現在の比率はなんと「本土1:沖縄3」です
この点、本土にあった米軍基地をどんどんなくすことができたのは「本土の市民の怒り(≒反対)」であり、
米軍基地を縮小する(あるいはなくすこと)は「できること」のはず…なんです
(だって、日本の市民の意志で「できないこと」など、日本にあるわけないやないですか)
それがなぜ、沖縄では「できないこと」になってる(…というか、「できないこと」にされてる)のか…と言えば
それは、沖縄の怒りと悲しみが「沖縄だけ」の怒りと悲しみになってるから…だとしか思えません
昨日の県民大会で壇上に立った人は、ぼくたち本土の市民に向けて、
「安倍晋三さん、日本本土にお住まいの皆さん、
今回の事件の第二の加害者は誰ですか? あなたたちです。
しっかり沖縄に向き合って頂けませんか」
…と訴えはったんですけども、もしぼくたち本土の市民が
「沖縄に向き合う」(≒沖縄の怒りと悲しみを共有する)ことがこれからもできない…とするならば
アメリカ軍とその関係者が沖縄で起こす犯罪の共犯の立場から逃れることはできないと思います