わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

コナー・ウォールトン

2007-11-05 | 作家の記録

 

コナー・ウォールトン【わたしの里・作家の記録】1970~ コナー・ウォールトン

 

 

 

1970年  ダブリン、アイルランド生まれ 
  
1993年   BA(ダブリン、NCAD)芸術と美術史の共同優等学位
 
 1995年   英国エセックス大学の美術史学の修士号(優秀賞)
 
 1995-6   イタリア・フィレンツェのチャールズ・ヘシェルと絵画と昔の習慣を学びました。
 
 ConorはWicklowに在住し、Jane Carneyとその3人の子供、Daniel、Ciarán、Caoimheとともに働いています。
 

 賞

  第3位、静物カテゴリー、国際ARCサロン(2014-2015)

 ファイナリスト、シッターの選択、2014年のスカイアーツ肖像画アーティスト、ダブリンの熱。

  ゴールデンフリース賞、ダブリン(2011)

 ポートレート・アイルランド2005年大賞、
  ニュータウンバリーハウスギャラリー(2005)

  上場企業、BPポートレート賞、
  国立ポートレートギャラリー、ロンドン(2005年)

  絵画のための第3位の「Lorenzo Il Magnifico」、
  フローレンス・ビエンナーレ(1999年)

  ドン・ニッコロ・ダルディア・カラッチョーロRHAメダル(1997)

  ESB(1997年)によって授与されたキーリング・マクローリン賞

  エリザベス・グリーンスクリーンズ財団、カナダ、モントリオール、奨学金(1994)

  ロイヤル・ダブリン協会テイラー・アート・ベケスト、
  一等賞(1993)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Red Grapes【わたしの里・作品】Conor Walton Red Grapes

 

 

椅子に座る女【わたしの里・素描】Conor Walton

 

 

 

わたしの里の美術館【索引】岩淸水
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コリア

2007-11-05 | 作家の記録

 作家の索引


ジョン・メイラー・コリア 1850 ~ 1934 コリア イギリスの画家

 

 

ジョン・メイラー・コリア OBE

John Maler Collier, OBE RP ROI , 1850年1月27日 - 1934年4月11日
イギリスの著作家、新古典主義の画家。
当時の著名な肖像画家の一人だった。ジョン・コリアー、ジョン・コリエという表記もある。


 

コリアの肖像画のモデルは多彩な顔ぶれであった。たとえば、シュルーズベリー主教ラヴレース・ステイマー卿、『チェーザレ・ボルジアと一緒の一杯のワイン』、ジョン・ラブロック(銀行家、考古学者)、A・N・ホーンビー(クリケット・チーム「ランカシャー・イレヴン」のキャプテン)、ヘレフォード主教アトリー博士。

ジョージ5世の肖像画を書いたのは1901年、王がまだコーンウォール公・ヨーク公の時で、コリアの評判を聞いた王がトリニティー・ハウスの館長として描かせたものである。

 

  フレデリック·ジョージ·バンベリー

 

他にも、セルボーン伯爵(1882年)、ハルスベリー伯爵(1898年)という2人の大法官。首席裁判官アルバストーン卿(1912年)。ジョージ・ジェッセル記録長官(1881年)。作家のラドヤード・キップリング(1891年)。画家のサー・ローレンス・アルマ=タデマ(1884年)。俳優のJ・L・トゥール(1887年)。同じく俳優で『ウィンザーの陽気な女房たち』に出演していたマッジ・ケンドール、エレン・テリー、キャロル・リード監督の父でもあるハーバート・ビーボン・トゥリー(1904年)。オックスフォード大ベリオール・カレッジ学長ケアード教授(1904年)、同大ワドハム・カレッジ学長G・E・ソーリー(1889年)、イートン・カレッジ学長(1898年)ら教育者たち。政治家は数は少ないが、庶民院議長(1898年)。軍人では、ホレイショ・キッチナー元帥(1911年)、フレリック・ヘインズ元帥(1891年)など。またネパールのマハラジャ(1910年)を含む二人のインドのマハラジャ。科学者ではチャールズ・ダーウィン(1882年)、ジェームズ・プレスコット・ジュール(1882年)、そしてコリアの義理の父であるトマス・ヘンリー・ハクスリー(1891年)などなど。

 


 Charles Robert Darwin

   (1883) oil on canvas
   London, National Portrait Gallery

 


コリアの義理の父である

トマス・ヘンリー・ハクスリー
Thomas Henry Huxley  (1891年)

 

 

コリアのモデル台帳の写真複写(コリアの息子が所有していたオリジナルから1962年に作られた)は、ナショナル・ポートレート・ギャラリーのHeinz Archive & Libraryで見ることができるが、そこにはコリアの描いた全肖像画の、モデルの氏名、日付、請求額、さらには、いくつかの絵の展示で生じた論争の詳細といったデータをコリア自身が手書きしている。


コリアは、成功した一族の出身だった。彼の祖父ジョンは下院議員も務めたことのあるクェーカー教徒の商人。父ロバートも下院議員、司法長官を長く勤め、枢密院司法委員会の永世会員、モンクスウェル男爵1世で、さらに、ロイヤル・ソサエティー・オブ・マリーン・アーティスツのメンバーでもあった。兄ロバートはモンクスウェル男爵2世で、内閣次官補、ロンドン県長を勤めた。

さらに、コリアの妻マリアンは、後期ヴィクトリア朝を代表する科学者で王立協会会長も勤めたハクスリーの娘で、義理の弟にあたる文筆家レオナルド ハクスリーとも「懇意なる親交」を持っていた(Dictionary of National Biography s.v. L. Huxley)


 Lilith 1877年 我が郷は足日木の垂水のほとり

 

 

 Collier's first wife, Marian Huxley, 1883

1879年に結婚したマリアンは、コリアと同じくスレイド美術学校出身の画家で、ロイヤル・アカデミー他に出展したこともあった。しかしマリアンは、二人のただ一人の子供となる娘を出産後、産後鬱病を患い、治療のために行ったパリで肺炎のために亡くなってしまう。1887年のことだった。

 

 

1889年、コリアはマリアンの妹だったエセル・ハクスリーと再婚した。亡妻の姉妹との結婚は、1907年に法律が制定されるまでイギリスでは許されていなかったので、式はノルウェーで挙げた。マリアンとの間に生まれた娘ジョイスは、肖像細密画家になり、王立王立細密画協会の会員にもなった。エセルとの間には一男一女あり、息子のローレンスは1941年から1951年の間ノルウェー大使を勤めた。


コリアが亡くなったのは1934年。英国人名辞典(1949年版。1931年-1934年の巻)のコリアの項目では、その生真面目さから、フランク・ホールと比較している。確かにそれは事実であったが、老若男女を描いた彼の肖像画(「Problem picture(問題絵画)」と呼ばれるジャンル。日常生活の隠された情景を描くもので、ヴィクトリア朝後期に人気があった)は、明るく、鮮やかであった。

美術事典(1996年版。第7巻569頁)のコリアの項目を執筆したのはジェフリー・アシュトンだが、彼の見えない筆使いについて「ありきたりのフラットな塗り方」と書く一方、「色彩のセンスは力強く驚くべきものである」「雰囲気・外観ともに気持ち悪いくらい本当らしく描かれている」とも書いている。

1920年までのイギリス肖像画家辞典(1997年)では、コリアの肖像画を「光と色の斬新な使用を伴った絵画作品」と書いている。


ジョン・コリアの絵は現在、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに16点[1]、テート・ギャラリーに2点、そしてフィレンツェのウフィツィ美術館には1907年に描かれた自画像がある。

著作目録 [編集]A Primer of Art(1882年)
A Manual of Oil Painting(1886年)
The Art of Portrait Painting(1905年)
(Wikipedia より抄出 )

ゴダイヴァ夫人 ゴダイヴァ夫人
 source

 

 

クリュテムネストラ【John Collier】 クリュテムネストラ コリア 

 

 

 

 

 イギリスの画家
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コロー

2007-11-02 | 作家の記録

 

 


ジャン=バティスト・カミーユ・コロー

Jean-Baptiste Camille Corot 
1796年7月17日 - 1875年2月22日
19世紀のフランスの画家

 

 

19世紀の4分の3を生き、次世代の印象派との橋渡しをした画家である。詩情あふれる森や湖の風景画で知られるが、『真珠の女』のような人物画にも傑作がある。1825年から計3度イタリアへ旅行し、イタリア絵画の明るい光と色彩にも影響を受けている。理想化された風景でなく、イタリアやフランス各地のありふれた風景を詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちにも影響を与えた。


1796年、パリの裕福な織物商人の子として生まれる。学生時代はルーアン(ノルマンディー地方)及びポワシー(パリ近郊)の寄宿学校で学んだ。コローは、画家になることを反対していた父親にしたがい、いったんは商人としての修業をするが、1822年、26歳の時、ようやく父の許しを得て画家を志し、当時のアカデミックな風景画家アシール=エトナ・ミシャロン(1796年 - 1822年)やジャン=ヴィクトール・ベルタン(1767年 - 1842年)に師事する。当時としては画家を志すには遅いスタートであった。前年の1821年にコローの妹が死去しており、コローの両親はこの妹のために用意していた持参金をカミーユのために使うことを許したのである。最初の師ミシャロンはコローと同年生まれの若手風景画家であったが、コローが師事してから数か月後、26歳の若さで他界した。師を失ったコローは、ミシャロンの師であったベルタンに師事することになった。ベルタンは大きな画塾を構え、当時のフランス風景画の第一人者であった。

コローは生涯に3度イタリア旅行をしている。1回目の旅行はもっとも長く、1825年9月から1828年秋に及び、ローマとその近郊を中心に、ヴェネツィアなどにも滞在している。この時、戸外で制作した習作風景画には色彩感覚や構図法などに近代的感覚を見せるものが多く、後の印象派などの世代の画家に影響を与えている。コローはその後1834年と1843年にもそれぞれ半年ほどイタリアに滞在した。

またコローは、晩年に至るまでフランス各地を精力的に旅行し、各地の風景をキャンバスにとどめている。特にパリの西の郊外にあるヴィル=ダヴレーには父の購入した別荘があったことから頻繁に滞在している。また、フォンテーヌブローの森においても1920年代から制作を行っていた。

サロン(官展)には、イタリア滞在中の1827年に『ナルニの橋』(カナダ国立美術館)などを出品して以来、晩年まで精力的に出品し、1848年にはコロー自身がサロンの審査員に任命された。1855年にはパリ万国博覧会に6点の作品を出品し、グランプリを得ている。晩年は大家として認められるようになり、死の直前までフランス各地への旅行と制作を続けた。1875年2月22日、病のため死去。生涯未婚であった。

                サン・ニコラレザラスの川辺 サン・ニコラレザラスの川辺


 コローの風景画は、神話や歴史物語の背景としての風景ではなく、イタリアやフランス各地のありふれた風景を描いたものが多い。特に1回目のイタリア滞在の際に制作した風景習作には、その光の明るさ、大胆なタッチなどに近代性を見せるものが多い。春から夏に戸外で制作を開始し、それを秋から冬にかけてアトリエで仕上げるのがコローの風景画制作の基本であった。後半生には、画面全体が銀灰色の靄に包まれたような、独特の色調の風景画を描いた。こうした風景画は、明確な主題のある 「歴史画」 とも、現実の風景をそのまま再現した風景画とも異なるもので、現実の風景の写生を土台にしつつ、想像上の人物を配した叙情的風景画である。コローは、こうした風景画のいくつかに 『思い出』 (souvenir) というタイトルを与えている。

 人物画は、親戚、友人など親しい人々の肖像画と、モデルに民族衣装などを着せて描いた空想的人物像に分かれる。著名人の肖像画はほとんど残していない。

 

 

 コローの作品は、モダニズムを先取りしたものとして、後世の美術家に多大な影響を与えた。コローの影響を受けた画家としては、印象派・ポスト印象派のピサロ、モネ、セザンヌ、フォーヴィスムのマティス、ドラン、キュビスムのピカソ、ブラック、グリスなどが挙げられる。ピサロは1855年のパリ万国博覧会でコローの作品を見ており、ピカソは何点かのコロー作品を収集していた。1909年にサロン・ドートンヌで開かれたコローの人物画の特別展示はピカソらに影響を与えたことが指摘されている。ヨーロッパ以外では日本でもコローは早くから紹介され、浅井忠ら影響を受けた画家が多い。


 コローは、ミレーやテオドール・ルソーなどの画家と親交があり、バルビゾンで作品を描く事も多かったので、バルビゾン派 の一人に数えられている。また、晩年にはドーミエなどの貧しい画家に援助を与えていた事でも知られ、多くの画家から慕われていた。

 

 

 

代表作

 

バルビゾンの銀緑 モルトフォンテーヌの思い出(1864)(ルーヴル美術館)

 コローの空想的風景画の代表作。ヤドリギの実や花を摘もうとしている3人の人物を描く。1864年のサロンに出品され、ナポレオン3世が購入し、ルーヴルの所蔵となった。斜めに傾いた樹木のモチーフは他の作品にもしばしば見られる。樹木が舞台の幕のように使われる構図法にはオペラ座の舞台美術の影響が指摘されている。

 


真珠の女(1868-70年頃)(ルーヴル美術館)
コローが没するまでアトリエに置いていた作品。モデルはロマン派の画家テオドール・シャセリオーのモデルも務めたとされるベルト・ゴルトシュミットという人物。まとっている衣装はイタリア中部のアルバーノ地方の民族衣装で、コローが弟子の画家でローマにいたエドゥアール・ブランドンに依頼して調達したものである。両手の組み方には『モナ・リザ』との類似が指摘される。『真珠の女』と通称されているが、額に影を落としている真珠のようなものは、木の葉を綴った冠の一部である。

 
青い服の婦人(1874年)(ルーヴル美術館)
最晩年の作品で、画家の死後、1900年のパリ万国博覧会で初めて公開された。モデルは、コローの他の絵でもモデルを務めているエマ・ドビニーと推定されている。


ナルニの橋(1827年)(オタワ、カナダ国立美術館)
ヴィル=ダヴレーのカバスユ邸(1835-40年頃)(村内美術館、文化庁登録美術品第6号,西洋絵画では国内初の登録)


朝、ニンフの踊り(1850頃)(オルセー美術館)


マントの橋(1868-70年頃)(ルーヴル美術館)

( wikipedia より抄出、画像の添付や加筆とか編集をくわえた )

 

 

裸婦と写真

 

 the bath of diana   (ディアナの水浴)

 

Ville d’Avray【コロー】

 

 

 

 

フランスの作家 

 バルビゾン派
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ゴーギャン

2007-11-01 | 作家の記録

 information

 ゴーギャン 1848 ~ 1903 ゴーギャン フランスの作家

 

 

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン

フランス語: Eugène Henri Paul Gauguin

フランス語発音: [øˈʒɛn ãˈʁi ˌpol ɡoˈɡɛ̃]
184867日 - 190358
フランスのポスト印象派の画家。
姓は 「ゴギャン」 「ゴーガン」 とも。

 

 

1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

 

フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人(証券会社の社員)となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、五人の子供に恵まれ、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。株式相場が大暴落して仕事に不安を覚えたとき、安定した生活に絶対的な保証はないと気付き、勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

 

 

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴァンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴァンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン=タヴァン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴァン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。この間、1887年春にはラヴァルとともにパナマに渡り、生活費のため運河建設の現場で働くが、体を壊し、6月末、暮らしやすいカリブ海のフランス領の島マルティニック島へ移動していた時期もある。この頃ジャポニスムの影響を受けた画家たちが頻繁に手掛けた形式、扇面構図の制作にも取り組んでいる。また、同じ頃、マルティニック島にはやがて日本を訪れることになるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が滞在していて、島のプレ山を眺めて『富嶽三十六景』を描いたあの偉大な日本の絵師葛飾北斎と似た仕事を誰かここの芸術家がやってくれないかと考えたという。しかし、再び病に倒れたゴーギャンは十月頃には帰国の途につく(一方のプレ山は1902年に災害史に残る大噴火を起こし、マルティニック島は首都サン・ピエール壊滅という悲劇に見舞われる)。

 

                                       ナビ派【流派】 ナビ派 フランスの作家 

 

1888年には南仏アルルで フィンセント・ファン・ゴッホ と共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの 「耳切り事件」 をもって共同生活は完全に破綻した。一般的にゴッホが自ら耳を切ったとされるこの事件だが、近年になり異説が唱えられ、耳を切ったのは実は剣を振りかざしたゴーギャンであったとも言われる (ゴッホ美術館専門家などは反論している)。


 タヒチの女たち(あるいは、砂浜にて)
タヒチの女(浜辺にて)(1891年)オルセー美術館 蔵

 


西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった(この時期は、詩人マラルメのもとに出入りしたこともある)。一度捨てた妻子に再び受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年には再びタヒチに渡航した。


 


 『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』 1897-1898年(ボストン美術館)

 


3人のタヒチ人(1899年)
タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。

 

ポール・セザンヌに「支那の切り絵」と批評されるなど、同時代の画家たちからの受けは悪かったが、没後西洋と西洋絵画に深い問いを投げかけたゴーギャンの孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得していった。

イギリスの作家サマセット・モームの代表作「月と六ペンス」(初刊は1919年出版)の主人公の画家のモデルであった。

 

日本にある主なゴーギャン作品[編集]
ブルターニュの少年の水浴(愛の森の水車小屋の水浴、ポン=タヴェン)(ひろしま美術館) 油彩 キャンバス 1886年 画像(PDF)
馬の頭部がある静物 (ブリヂストン美術館) 油彩 キャンバス 1886年
ブルターニュ風景 (国立西洋美術館 松方コレクション) 油彩 キャンバス 1886年
アルルカンの並木道、アルル (損保ジャパン東郷青児美術館) 油彩 キャンバス 1888年
海辺に立つブルターニュの少女たち (国立西洋美術館 松方コレクション) 油彩 キャンバス 1889年
乾草 (ブリヂストン美術館) 油彩 キャンバス 1889年
小屋の前の犬、タヒチ (ポーラ美術館) 油彩 キャンバス 1892年
かぐわしき大地 (大原美術館) 油彩 キャンバス 1892
( wikipedia )

 


Baigne de Tahiti 

 

 

 

フランスの作家 フランスの作家

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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コンスタンチン・ラズモフ

2007-11-01 | 作家の記録

作家の索引

コンスタンチン・ラズモフ【作家の記録】1974~ コンスタンチン・ラズモフ ロシアの作家

上の絵は自画像ではなく、作品のひとつ。 

 

コンスタンチン・ラズモフ 

露: Константин Разумов  英:Konstantin Razumov
1974年 ロシアのモスクワ (Moscú )市に生まれた。
とても人気のある現代的な印象派のロシア人画家。
wikipedia.org Konstantin_Razumov

 

 


 paintings 水色の文字は外部サイトです。


 

 

 

 

 

 

 005

 

 

 

 

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モネ【作家の記録】 1840 ~ 1926 モネ 印象派

 

 

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ジェローム

2007-10-27 | 作家の記録

作家の索引


ジェローム1824~1904 ジェローム フランスの作家

 

ジャン=レオン・ジェローム

Jean-Léon Gérôme, 1824年5月11日 - 1904年1月10日

フランスの画家で彫刻家としても成功した。歴史画や東方(オリエント地域)を題材にしたものを多く残している。

 

 

 

 

 

                                      

 

 

 

ジーン-レオン・ジェロームは、金細工職人の最初の子として、オー = ド = セーヌ県の ヴズー (Vesoul) に生まれた。父の名は Pierre Gérôme で、母は Claude Françoise Mélanie といい、Vuillemot(商人の娘)だった。

 

 

1841年にパリへ出てポール・ドラローシュ のもとで働き、ドラローシュのイタリア旅行(1844年 - 1845年)にも同伴した。

 
『闘鶏』 1847年、オルセー美術館フランスに戻るとジェロームは『闘鶏』を発表し、この作品で1847年にサロンの銅メダルを獲得した。さらに1848年には『聖母とキリスト』、『聖ヨハネとアナクレオン』、『バッカスとキューピッド』で銀メダルを獲得した。ジェロームは『バッカスと愛、酔い』、『ギリシアの室内装飾』、『イタリアの思い出』を1851年に発表。『パエストゥム』を1852年に、『田園』を1853年に発表した。

1854年にジェロームはオスマン帝国とドナウ川沿岸を旅行した。1855年の万国博覧会のために『羊飼い』、『ロシアの音楽会』、そして大カンバスに描いた『アウグストゥスの時代』と『キリストの誕生』などを出品した。最後のものは卓越した能力が認められて、国が買い上げた。

1857年にはエジプトを訪問した。同年のサロンに『二部作、仮面舞踊会の後』、『砂漠を横切るエジプトの新兵』、『マノンとシストリス』と『水を飲むラクダ』などを出品、人気を得る。

1859年の『カエサル』においてジェロームは困難な画業への回帰に挑んだ。しかし、作品は公衆の歓心を得るのに失敗した。

『法廷のフリュネー』、『カンダウレス王』と『アスパシアの家で、アルキビアデスを見つけるソクラテス』(1861年)は題材が理由となってスキャンダルを起こし、ポール・ド・サン・ヴィクトール(w:en:Paul Bins, comte de Saint Victor)とマキシム・デュ・カンから非難される結果となる。同じサロンに彼は『藁を切り刻むエジプト人』と『エッチングを制作するレンブラント』という2つの完成された作品を展示した。

Bathsheba バテシバ

ジェロームの白眉といえる作品は東方を題材にしたもの、たとえば『トルコの囚人とトルコの刑吏』(1863年)、『祈る人』(1865年)、『 奴隷市場 』 (1867年) 、そして『ハレムからの逃走』などである。また、彼はよく歴史を題材にもした。『ルイ14世とモリエール』(1863年)と『ネイ提督の死』(1868年)がそれである。

 

Grande Piscine de Brousse 【ジェローム】1885 此処をクリックすると、ジェロームの『奴隷市場』に関連する記事を見ることが出来ます。

ジェロームはまた彫刻家としても成功した。作品の中には『オンファール』(1887年)、シャンティリー城の前に立っているアンリ・ドルレアンの彫像(1899年)、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに展示されている『Bellona』(象牙、金属、その他貴重な石でできている)、金・銀・貴金属が使われている『ナポレオンのカイロ入城』(1897年)、『タメルラン』(1898年)と『フリードリヒ大王』(1899年)という一連の「征服者」を題材にした興味深い作品を制作し始める。

ジェロームは1865年にフランス学士院のメンバーに選ばれた。

 

   Gérôme painting "Thirst - Tigress and Cubs"

 (photograph c.1899)

 

カンダウレス【ジャン=レオン・ジェローム】 
 カンダウレス 神仏や 神話の人物

 

 

Baigneuses 浴女 nouvelle photo de Corinthe【わたしの里美術館・作品】 Nu【ジェローム】
 
 
 

Tiger on the Watch 見張っている虎【わたしの里の美術館・作品】ジェローム 見張っている虎 ジェローム

Tiger on the Watch 見張っている虎
circa 1888
 

 

  レオン・ジェローム《The End of the Siting》

 

 

 

 ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン 1842 ~ 1904
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ジェームズ・キャロル・ベックウィズ

2007-10-27 | 作家の記録

 作家の索引

ジェームズ・キャロル・ベックウィズ【作家の記録】1852 ~ 1917 ジェームズ・キャロル・ベックウィズ アメリカの画家

 

 

ジェームズ・キャロル・ベックウィズ

James Carroll Beckwith (1852923日- 19171024日)
印象派的作風の、風景とか肖像画の19世紀後半の著名なアメリカ人画家。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アメリカの画家 印象派【流派・潮流】

 

 

 

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シャガール

2007-10-26 | 作家の記録

 作家の索引

シャガール【わたしの里の美術館・作家の記録】 1887 ~ 1985 シャガール フランスの作家

 

 マルク・シャガール

マルク・シャガール(Marc Chagall, イディッシュ語: מאַרק שאַגאַל‎‎,
188777日 - 1985328日)は、20世紀のロシア(現ベラルーシ)
出身のフランスの画家。

(wikipedia)

 

 

 

1887年7月7日、帝政ロシア領ヴィテブスク(現ベラルーシ・ヴィツェプスク、VycebskまたはWitebsk、Vitebsk)父ザハール、母フェイガ・イタの元に9人兄弟の長男、モイシェ・セガル(Moishe Segal、משה סג"ל)として生まれた。ロシア名マルク・ザハロヴィチ・シャガル (ロシア語: Мойшe Захарович Шагалов)、ベラルーシ名モイシャ・ザハラヴィチ・シャガラウ (ベラルーシ語: Марк Захаравiч Шагал)、後にパリでマルクと名乗るようになる。故郷ヴィテブスクは人口の大部分をユダヤ人が占めているシュテットルで、シャガール自身もユダヤ系(東欧系ユダヤ人)である。生涯、妻ベラ(ベラ・ローゼンフェルト)を一途に敬愛していたこと、ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多く製作していることから別名「愛の画家」と呼ばれる。

1900年、4年制の公立学校に入学した。なお、この頃の同級生は彫刻家、画家のオシップ・ザッキンで、共に芸術家を目指した。

Woman Standing 1922【わたしの里・彫像】オシップ・ザッキン Woman Standing 1922 【オシップ・ザッキン】

1907年、当時の首都サンクトペテルブルクのニコライ・リョーリフが学長を務める美術学校に入るが、同校のアカデミックな教育に満足しなかったシャガールはやがて1909年にレオン・バクストのズヴァンツェヴァ美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団の衣装デザインなどを担当していた人物である。

シャガールは1910年パリに赴き、5年間の滞在の後、故郷へ戻る。この最初のパリ時代の作品にはキュビスムの影響が見られる。1915年に母が病死。同年にベラと結婚。10月革命(1917年)後のロシアでしばらく生活するが、1922年、故郷に見切りをつけ、ベルリンを経由して1923年にはふたたびパリへ戻る。 ロシア時代のシャガールはロシア・アバンギャルドに参加して構成主義の影響の濃い作品、デザイン的作品を制作したが、出国後の作品は「愛」の方への傾斜が認められる。 1941年、第二次世界大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてアメリカへ亡命した。なお、同郷人で最初の妻ベラ・ローゼンフェルトは1944年にアメリカで病死した。

1947年にパリへ戻ったシャガールは、1950年から南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得している。1952年、当時60歳代のシャガールはユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキーと再婚した。1960年、エラスムス賞受賞。同年、当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローはオペラ座の天井画をシャガールに依頼。これは1964年に完成している。1966年、シャガールは17点の連作『聖書のメッセージ』をフランス国家に寄贈した。マルローはこの連作を含むシャガールの作品を展示するための国立美術館の建設を推進し、ニース市が土地を提供する形で、1973年画家の86歳の誕生日に、ニース市に「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」(現国立マルク・シャガール美術館)が開館した。1966年から20年近く暮らした、ニースに近いサン=ポール=ド=ヴァンスの墓地に眠る。「マーグ財団美術館」に大作がある。

毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはシニカルな態度を示していた。特にピカソに対しては極めて辛辣な評価を下している。しかし、だからといってピカソと仲が悪かったわけではなく、むしろ、ピカソにしては珍しく、けんかをしないほど仲がよかったともいわれる[要出典]。

 

 日本の政治は……


ホンダの創業者、本田宗一郎とパリで会った経験を持つ。この時本田は、日本からのお土産は何にしようかと迷いに迷った末、毛筆、墨、硯の一式を持っていくことに決めた。いざシャガールに会いに行くと、「これはどう使うのか」という話になり、あれこれ説明しているうちに、いきなり席を立って画室にこもってしまった。何が起きたのかわからず、戸惑う本田に、シャガールの妻が「もう、主人の出てくるのを待っていてもいつになるかわかりませんよ。あなたからもらった筆を実際に試しているのでしょうが、こうなったら何時間でも画室にこもったきりになってしまうのです。」と説明したという。シャガールの探究心の旺盛さを示すエピソードである。

 

I and the Village(1911年) ニューヨーク近代美術館
七本指の自画像(1912年 - 1913年) アムステルダム市立美術館
誕生日(1915年) ニューヨーク近代美術館
Green Violinist(1923年) グッゲンハイム美術館
青いサーカス(1950年) ポンピドゥー・センター
イカルスの墜落(1974年) ポンピドゥー・センター
America Windows(1977年) シカゴ美術館
バレエ『アレコ』(1942年) 舞台背景画 第1、2、4幕 青森県立美術館
バレエ『アレコ』(1942年) 舞台背景画 第3幕 フィラデルフィア美術館
イスラエル十二部族(1962年) ステンドグラス エルサレムの病院のシナゴーグ(礼拝堂)を飾る

 

 

落穂を拾うルツ【わたしの里の美術館・作品】シャガール ラハブとエリコの密偵【わたしの里・作品】

 

 

 

 

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