太陽の黒点が減少したり、無くなったりすると大地震が発生する傾向を 九州大学が11月3日に学会で発表する。
三年前に九州に行った時 、何故か珍しく天文台に行きたくなり、望遠鏡を覗かしてもらった。昼間だったので太陽を見せて頂いた。
また、珍しく施設研究員の方が声をかけて来て「去年から黒点が減少し、この夏は全くありません。不思議です……」
何故か気になった。
その後、マヤの長老から「第四の太陽の世紀が終わる時、太陽の活動が弱まる。そして黒点が無くなる」と聴いた。
太陽の黒点の減少と大地震の相関関係の不思議を色んな場所で拙僧は語り、話していたが、まさか九州大学が綿密なデータと分析に基づいて 学会で発表するとは驚きである。
こうなると大地震は地球外からも多大に影響を受ける地球上の物理現象と言うことになる。確かに黒点が無くなる時は太陽風が異常に強くなるらしい。
不思議な符号だ。
先ずは太陽の黒点が減少し、地球の夏が異常に暑くなり、その翌年、地球のどこかで大地震が起こる。
122年前に十津川で大水害があり、その事は山津波としても記憶された。そして今年、十津川で山津波が発生した。
前回の山津波では、あまりの大災害に復旧もおぼつかず、十津川のリーダーは当時の北海道長官と談判、村民の北海道・大量移住を取り決めた。移住兼屯田兵として。
その数は村民の半数にも及んだと言う。移住した村は新十津川村として現在に及ぶ。
当時、災害が発生したのは8月。10月には移住が行われる迅速な対応であったと文献にある。
その時のリーダーは 現国土交通大臣 前田武志氏に連なる前田正之氏である。
前田武志氏は国土交通大臣であるとともに北海道開発の任務も兼任することを考えれば これもまた不思議な符号と言える。
不思議とは奇跡と偶然が度重なり起こることを指すのだとしたら、地球で起こること全てが奇跡であり、偶然であり、結果、不思議である。
不思議とは仏教的には「不可思議」とも言う。
思議に及ばずと言うことだろう。
不可思議の中に奇跡と偶然は織り込まれている。
実は 日常の安定や安心も偶然と奇跡の上に成り立っている不可思議であり、結果としての「必然」である。
この「必然」を昔の人は「有り難い」と表現した。
いつの間にか人類は尊大になり、増長慢に満ちている。
気がつけば いつの間にか「有り難い」を「当たり前」と言うようになった。
その日、その出来事が いちいち「有り難い」のに いつしか「日常」と言う「当たり前」とした。
大地震や大災害は「日常」は「当たり前」ではなく、「有り難い」うえに成り立っている一日一日だという事を 嫌と言うほど、嫌と言うほど 教えてくれた。
日の出を感じながら、「有り難い」一日の始まりを思う。
「有り難い」はありがたい!
徹底した「無常」観は日常の当たり前さを看破する。
奇跡と偶然と必然に満ちた不可思議な今日が始まる。
ありがたい!とどれだけ感じて 今日を生きるだろうか?
先ずは 今朝も 息をしていてことに「ありがたい」である。
三年前に九州に行った時 、何故か珍しく天文台に行きたくなり、望遠鏡を覗かしてもらった。昼間だったので太陽を見せて頂いた。
また、珍しく施設研究員の方が声をかけて来て「去年から黒点が減少し、この夏は全くありません。不思議です……」
何故か気になった。
その後、マヤの長老から「第四の太陽の世紀が終わる時、太陽の活動が弱まる。そして黒点が無くなる」と聴いた。
太陽の黒点の減少と大地震の相関関係の不思議を色んな場所で拙僧は語り、話していたが、まさか九州大学が綿密なデータと分析に基づいて 学会で発表するとは驚きである。
こうなると大地震は地球外からも多大に影響を受ける地球上の物理現象と言うことになる。確かに黒点が無くなる時は太陽風が異常に強くなるらしい。
不思議な符号だ。
先ずは太陽の黒点が減少し、地球の夏が異常に暑くなり、その翌年、地球のどこかで大地震が起こる。
122年前に十津川で大水害があり、その事は山津波としても記憶された。そして今年、十津川で山津波が発生した。
前回の山津波では、あまりの大災害に復旧もおぼつかず、十津川のリーダーは当時の北海道長官と談判、村民の北海道・大量移住を取り決めた。移住兼屯田兵として。
その数は村民の半数にも及んだと言う。移住した村は新十津川村として現在に及ぶ。
当時、災害が発生したのは8月。10月には移住が行われる迅速な対応であったと文献にある。
その時のリーダーは 現国土交通大臣 前田武志氏に連なる前田正之氏である。
前田武志氏は国土交通大臣であるとともに北海道開発の任務も兼任することを考えれば これもまた不思議な符号と言える。
不思議とは奇跡と偶然が度重なり起こることを指すのだとしたら、地球で起こること全てが奇跡であり、偶然であり、結果、不思議である。
不思議とは仏教的には「不可思議」とも言う。
思議に及ばずと言うことだろう。
不可思議の中に奇跡と偶然は織り込まれている。
実は 日常の安定や安心も偶然と奇跡の上に成り立っている不可思議であり、結果としての「必然」である。
この「必然」を昔の人は「有り難い」と表現した。
いつの間にか人類は尊大になり、増長慢に満ちている。
気がつけば いつの間にか「有り難い」を「当たり前」と言うようになった。
その日、その出来事が いちいち「有り難い」のに いつしか「日常」と言う「当たり前」とした。
大地震や大災害は「日常」は「当たり前」ではなく、「有り難い」うえに成り立っている一日一日だという事を 嫌と言うほど、嫌と言うほど 教えてくれた。
日の出を感じながら、「有り難い」一日の始まりを思う。
「有り難い」はありがたい!
徹底した「無常」観は日常の当たり前さを看破する。
奇跡と偶然と必然に満ちた不可思議な今日が始まる。
ありがたい!とどれだけ感じて 今日を生きるだろうか?
先ずは 今朝も 息をしていてことに「ありがたい」である。