百姓坊主
みんなの僧 釈説樹 天職は寺に生まれた訳だから 「僧侶」と言うことになる。
天職と言っても いろんな経験や 経験に裏付けされた仏教の学識が無ければ「僧侶」とは呼べない。
曲がりなりにも「僧侶」の端くれになり、「住職」らしき事が出来るまでに55年もかかってもうた。
昔なら とっくに死んでもうてるやろ ホンマに
大器晩成ちごて 待機晩成やわ
ずっと仏さんも神さんも限界まで 待機してくれてたんです。きっと。
回り道、回り道、道草、道草の連続。
で、やっと「住職」
そのいきさつは「みんなの僧」gooブログ2010年11月20日に詳細を書いてます。ので。
とはいえ、「住職」を(ジュウショク)と読むに相応しくなく(じゆうしょく)と呼ばれるのが相応である。
家人や犬の坊守りさん、総代さんに留守を託して やはり東京での活動が多い。
今朝も近鉄アーバンライナーに名張駅から飛び乗って只今 で移動中なう
音楽の新人アーティストの仕込みやら 友達の金ちゃんの用事やら 本山東京進出についての話しやら 国会議員さんのお手伝いやらが 主な用件である。
拙僧が一度 僧衣を脱げば色んな顔があり、呼び名がある。
昔、お百姓さんは米作りだけでは食べていけなかったので ありとあらゆる仕事をした。山いき、木こり、猟、漁、草鞋づくり、蓑傘作りなどなど 挙げればきりがない。
米作りだけではなく、色んな仕事をするので、色んな呼び名があった。
だから「百姓」
拙僧も坊さんだけでは食べてはいけないし、活動も出来ない。
だから やれる仕事と用事は何でも やる。
だから「じゆうしょく」なんですね。
だから 昔ふうに言うなら「百姓坊主」になるんでしょうか。
南朝の天皇や子孫たちを守護するため、楠木一党の分派として半分、勅忍(天皇の勅命により諜報活動・工作をした)、僧侶半分だったのが 明治政府が出来るまで続き、拙僧から六代前までは帯刀しながら説法していたそうだ。
説法を聴かなかったり、居眠りしたら抜刀したというから、恐いご先祖さまである。
半僧半忍が実態で、里人たちは 田楽や百姓をやり、命が下れば忍者ともなったのであろう。
拙僧の里では忍者は職業ではなく、南朝の子孫たちを守護するNPOだったはずだ。徳川幕府の世となると里の上忍「百地三太夫こと百地丹波守」は名前を変えて、紀州徳川に仕え 専ら諜報活動・工作を担った「公儀隠密」を設立したのだった。
テレビ時代劇でやってた「隠密同心」ちゅうやつ。だから出張先は江戸で、支店は四谷にあった。皇居から西の方角に出る甲州街道の始点は半蔵門で、それは「服部半蔵門」の事なんです。
その頃から半僧半忍だったご先祖は 四谷や江戸城と里とを行き来していたんですねぇ~(NHK歴史ヒスとリアっぽく)
なので、拙僧が里と東京を行き来するのは「歴史」であり「血」なんかも知れない。
今日も東京で、四つ以上の顔で働く拙僧なんである。
でも、ホントはナントか暇なしちゅうやつだけどね
おっ!品川なう
みんなの僧 釈説樹 天職は寺に生まれた訳だから 「僧侶」と言うことになる。
天職と言っても いろんな経験や 経験に裏付けされた仏教の学識が無ければ「僧侶」とは呼べない。
曲がりなりにも「僧侶」の端くれになり、「住職」らしき事が出来るまでに55年もかかってもうた。
昔なら とっくに死んでもうてるやろ ホンマに
大器晩成ちごて 待機晩成やわ
ずっと仏さんも神さんも限界まで 待機してくれてたんです。きっと。
回り道、回り道、道草、道草の連続。
で、やっと「住職」
そのいきさつは「みんなの僧」gooブログ2010年11月20日に詳細を書いてます。ので。
とはいえ、「住職」を(ジュウショク)と読むに相応しくなく(じゆうしょく)と呼ばれるのが相応である。
家人や犬の坊守りさん、総代さんに留守を託して やはり東京での活動が多い。
今朝も近鉄アーバンライナーに名張駅から飛び乗って只今 で移動中なう
音楽の新人アーティストの仕込みやら 友達の金ちゃんの用事やら 本山東京進出についての話しやら 国会議員さんのお手伝いやらが 主な用件である。
拙僧が一度 僧衣を脱げば色んな顔があり、呼び名がある。
昔、お百姓さんは米作りだけでは食べていけなかったので ありとあらゆる仕事をした。山いき、木こり、猟、漁、草鞋づくり、蓑傘作りなどなど 挙げればきりがない。
米作りだけではなく、色んな仕事をするので、色んな呼び名があった。
だから「百姓」
拙僧も坊さんだけでは食べてはいけないし、活動も出来ない。
だから やれる仕事と用事は何でも やる。
だから「じゆうしょく」なんですね。
だから 昔ふうに言うなら「百姓坊主」になるんでしょうか。
南朝の天皇や子孫たちを守護するため、楠木一党の分派として半分、勅忍(天皇の勅命により諜報活動・工作をした)、僧侶半分だったのが 明治政府が出来るまで続き、拙僧から六代前までは帯刀しながら説法していたそうだ。
説法を聴かなかったり、居眠りしたら抜刀したというから、恐いご先祖さまである。
半僧半忍が実態で、里人たちは 田楽や百姓をやり、命が下れば忍者ともなったのであろう。
拙僧の里では忍者は職業ではなく、南朝の子孫たちを守護するNPOだったはずだ。徳川幕府の世となると里の上忍「百地三太夫こと百地丹波守」は名前を変えて、紀州徳川に仕え 専ら諜報活動・工作を担った「公儀隠密」を設立したのだった。
テレビ時代劇でやってた「隠密同心」ちゅうやつ。だから出張先は江戸で、支店は四谷にあった。皇居から西の方角に出る甲州街道の始点は半蔵門で、それは「服部半蔵門」の事なんです。
その頃から半僧半忍だったご先祖は 四谷や江戸城と里とを行き来していたんですねぇ~(NHK歴史ヒスとリアっぽく)
なので、拙僧が里と東京を行き来するのは「歴史」であり「血」なんかも知れない。
今日も東京で、四つ以上の顔で働く拙僧なんである。
でも、ホントはナントか暇なしちゅうやつだけどね
おっ!品川なう