ワニさんの『パワフルおっさん連Ⅲ』

『おっさん』が思うまま、感じるままのんびり行きます!!

平和公園界わいにて。

2006-04-18 23:05:20 | Weblog
 こんばんは。

先日、行ってきました平和公園のまわりでは、いろんなことが起きています。

 原爆ドームのすぐそばに高層マンションが建設中ということで、見に行ってきました。
まさに、すぐそば、100mも離れていないでしょう、そしてそれは爆心地である「島外科」とは50mも離れていないものでした、完成すれば14階建ての分譲マンションとなります。
まあここで言えば高層、高層とまわりが言ってますが、すでに10数年まえにはドームの道路をはさんだとなりに12階建ての大手保険会社のビルが建っています。その隣も7階建てのホテルがあり、その隣は、5階建てではありますが。「寺院」があります。古い写真を見ると、公園のまわりはとても広く高い建物はなかったですね。



これも時代の流れと言えばそうですが、貼り出された数々の書類に秋葉忠利市長の名前も多く見受けられたのが少々残念な気がしました。

完成まで1年以上ありますが、完売御礼です、もう随分前に完売したそうですが、便利はいいですな。たしかに・・orz



天気もよくたくさんの修学旅行の生徒が見受けられました、これは山梨からのグループでした、修学旅行でたまたま来たとかやれと言われたからやっているんだ、いろいろな意見があると思いますが、こうして平和への誓いをしています、そのあと全員で黙祷を捧げています。こうしたことが将来あぁそうだったなと少しでも思えればそれでいいんだと思います。この広島に住む学生たちが少しでもここに来て頭を垂れたことがあるか、忘れているのはこの広島からなのかも知れません。








佐々木禎子さんについて・・

2006-04-17 20:17:23 | Weblog
こんばんは。

さくやに引き続き、日銀広島支店からお伝えします。

たくさんの折鶴は世界の平和を祈るみなさんからの善意です。そしてまたここにはとても大切な方の資料もたくさんありました。

佐々木禎子さんについての資料です詳しくはこちらをご覧ください。

2歳で被曝し11歳の時白血病と診断され入院、長くても1年は持たないと

言われた。それからは壮絶な病気との闘いであったと、55年8月名古屋の

高校生から贈られた折鶴をきっかけに、1000羽折れば病気が治ると折り続け

その数は1300羽とも1500羽とも言われています。



今生きているわたしたちへの禎子さんからのメッセージと思っていいでしょう。



まだ12歳の少女がどのような気持ちで白血病に立ち向かっていったのか。



普通に生きている私たちでさえ、なかなか言えない『ありがとう』この言葉をのこし旅立ちました。



禎子さんを担当した看護婦さんたちとそのときの禎子さんのようすです。



世界に広がるサダコの世界地図、世界各国でサダコの平和活動は行われています。あのアメリカのシアトルには慰霊碑があります、なぜそのアメリカが核の増強とおろかな発表ができるのか。
こんやは画像を中心にお伝えしました。











平和公園のまわりにて・・・

2006-04-16 17:52:39 | Weblog
こんにちは。

今日は気になることもたくさんあり、天気にも恵まれて行ってきました。

まず最初に、被曝建物でもあり、広島市指定重要文化財でもある、

日銀広島支店へ行ってみました。


爆心地から380mという近距離で被曝しましたが、ご覧のように外観は

ほぼ当時のまま残されています。

なかに入ると、一階は銀行業務の窓口がきれいに再現されています。

しっかりとした警備のもと二階に上がってみると。



ものすごい数の折鶴です!本当にすごい!日本全国から贈られたもの、外国から贈られたもの、これがみんなが願う平和への祈りのしるしなんだ

平和公園の原爆の子の像に飾られた折鶴だけでなく、あまり目立たないところなので、訪れる人も少ないのだが広島、平和公園、原爆ドームにこられたら是非こちらにも足を運んで頂きたいです。


とにかくものすごい数です、そしてここにメッセージを贈ってくれたこの子供たちに平和が約束できないのか。


この子たちに未来は約束できないのか!!子供たちでさえわかってるんだ平和の大事さを!

こうして広島に世界からよせられた、いや寄せられ続けている善意、まもって行くだけではたりないのでは、なにかできるのではないか。

ワシントン共同14日共同によると。ブッシュ米政権が、有事に備えて年間250個の核兵器を生産できる体制を整備し、5年ごとに新型核を順次開発する計画であることが14日、分かった。
先日、書きましたが、このアメリカのまったく横暴ともいえる発表ですが、実際にあちこちから反対の声はあがっています。ですが核実験のときもそうですが
広島の声、長崎の声は無視なのか?いつも言いたい被爆者の声は無視なのか?先日アメリカより20年の長きにおいて佐々木禎子さんを通じ平和を子供たちに伝え子供たちの折った折鶴を原爆の子の像に捧げたマイヤー教諭の行為も無視なのか!!

またこの日銀広島支店からお伝えしていきます。









年間250個生産可能に 新型核、5年ごとに開発

2006-04-15 19:03:26 | Weblog
ワシントン共同14日共同によると。
ブッシュ米政権が、有事に備えて年間250個の核兵器を生産できる体制を整備し、5年ごとに新型核を順次開発する計画であることが14日、分かった。

エネルギー省の核安全保障局(NNSA)高官が語った。NNSAは2022年までに年間125個の生産体制を目指す考えを議会に伝えていたが、実際はこの2倍に上る生産能力を目指すという政権の「青写真」が初めて判明した。

米国は現在保有する核弾頭に代わって「信頼性のある代替核弾頭(RRW)」の研究開発を進めている。5年ごとの新型核開発は、複数の新型核を開発することを意味しており、
軍縮団体などは「核軍拡につながる」と警戒を強めている。



昨日は、そのアメリカより20年以上におよぶ、佐々木禎子さんをつうじた平和への訴えは何なのだろう?何かをアメリカ首脳に伝えることは出来ないのだろうか。


この三輪車の持つ悲しい過去をまた繰り返すのか、広島から長崎から平和への祈りを発信しても、まったく無視なのか。有事に備えとは?それだけの核兵器が使われる事があれば、地球は絶滅するその時では手遅れなんだよ!!







サダコ教える米国の教師が千羽鶴

2006-04-14 22:33:02 | Weblog
こんばんは。
現在アメリカより、一人の教師が来日しています。

米カリフォルニア州フラートン市の小学校で二十年以上、原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子さんの話を教えているジャニー・マイヤー教諭(54)が十三日、広島市中区の平和記念公園を初めて訪れ、教え子三十四人が折った千羽鶴を原爆の子の像にささげた。



マイヤーさんは、フラートン市が姉妹都市の福井市に派遣した市民訪問団に参加。福井市での行事を終え、広島入りした。千羽鶴を像の台に掛け「多くの子どもが傷ついた悲劇を実感した。ヒロシマの願いを子どもたちに伝えたい」と話していた。折り鶴は三月下旬から、六年生と準備していた。
【写真説明】フラートン市の児童が託した千羽鶴を、原爆の子の像にささげるマイヤーさん(右端)

20年以上の長きにわたり、佐々木禎子さんの話を通じて平和を訴えることは素晴らしいことです。
アメリカの生徒たちが折った折鶴をささげていただき、わたしもうれしいです。初めての訪問ですが、できるだけ多くの資料また情報を持ち帰り、これからも平和を訴えていただきたいものです。



原爆ドームで基準超える鉛 最大33倍、広島市調査。

2006-04-13 20:35:40 | Weblog
こんばんは。こんやは、市の調査で判明した、事実です。
広島市は十三日、世界遺産の原爆ドーム(同市中区)の敷地から、最大で基準値の三十三倍の鉛が検出されたと発表した。周辺の半径八十メートルの範囲で地下水は飲用に利用されておらず、健康被害などは報告されていないという。
市緑化推進部によると、二〇〇二年度に行った原爆ドームの保存工事で、壁や窓に防水処理のため鉛板を設置。工事から三年が経過したため、〇五年十一月から敷地内の九カ所で鉛の土壌溶出量を調査した。

その結果、七カ所から一リットル当たり〇・〇一三~〇・三三ミリグラムと基準値(〇・〇一ミリグラム)を超える鉛を検出。鉛板から離れた地点でも検出されているといい、市は「鉛板と土壌汚染の因果関係は特定できない」としている。

因果関係が特定できないにしても、ドームの保存工事に大量の鉛板を使った
ことは、事実であり、その他の地域からは、これだけの鉛は検出されていない。

これから先も、老築化していく平和の象徴である原爆ドームはどうやって維持していけるのか。
維持することにより公害を併発してしまうのか。




被爆地広島より・

2006-04-10 21:49:30 | Weblog
こんばんは。

現在、資料の収集と編集のため、今夜の更新も出来ないありさまです。

ご覧の方おられましたら、済みません。早い更新目指しております。

その節には宜しくお願いします。



平和の子の像

広島世界平和ミッション

2006-04-08 20:35:58 | Weblog
こんばんは。今夜も、広島世界平和ミッション第Ⅰ陣についてどうぞ。

第1陣 参加への思い
 ■ヒロシマ発 医療支援

医師の夫は一九九二年、広島県や県医師会など被爆地の行政機関や医療機関でつくる放射線被曝(ばく)者医療国際協力推進協議会(HICARE)の派遣団の一員として、旧ソ連を訪れた。夫の経験を通して、チェルノブイリ原発事故によって引き起こされた放射性降下物による広域汚染の怖さを知った。

二年後、放射線被害や紛争などによる被災民や難民、とりわけ子どもたちを対象に医療品を届け、健康診断を行うボランティア団体「モーストの会」を立ち上げた。モーストとはロシア語で「懸け橋」の意味である。

これまでにロシア、ベラルーシ、ウクライナの小児病院、チェチェンの難民を支援してきた。

活動を通して、さまざまなことを学んだ。健康診断をしても、治療薬や検査器具が極めて不足している。病気が分かっても治療が不可能なケースもある。ウクライナでは採血のための注射針がなく、メスで皮膚を切り、採血していた現場にも出くわした。

厳しい現実に触れ、何か意味のない努力をしているような心境に陥った。しかし、何年か続けるうちに、ある確信を持つようになった。小さな活動の集積が、やがて大きなうねりとなって国を動かす。世界平和の実現も、一人ひとりの小さな働きかけから生まれるに違いない、と。

昨年からパレスチナ自治区のガザ地区へ、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)を通して、ぜんそく薬を届ける活動も始めた。だが輸送に手間取るなど困難な課題も多い。現地を訪ねて実情を理解するとともに、スムーズな支援の手段も探りたい。

被爆地広島の薬剤師として、薬とのかかわりを思うとき、被爆直後の広島に十五トンの医薬品を届けてくれたスイス人医師のマルセル・ジュノー博士の功績を思い出す。博士をはじめ、海外から広島に手を差し伸べてくれた多くの人々の根底にある愛の力で、私たちは憎しみから、和解への道を選んだといえるのではないだろうか…。

この平和ミッションを通して、今度は広島から世界に愛を届けられることを願っている。

     
 ◇  

つや・しずこ 昭和大(東京都)薬学部卒。同大中央検査室で勤務した後、1982年内科医の夫と結婚して広島市へ。現在は夫の内科クリニックで薬剤師兼臨床検査技師を務める傍ら「モーストの会」の会長として、医療支援に当たる。新潟県柏崎市出身。

【写真説明】宗教対立などの根深い憎しみを超えるには、許す心が必要だと伝えたい」

どうでしょうか、こんなにすばらしい方が、医療支援の活動をされています。

ロシア語で『架け橋』モースト・素晴らしい活動であると、かつてのマルセル

ジュノー博士と志はおなじです。

『この平和ミッションを通して、今度は広島から世界に愛を届けられることを願っている。』

ほんとに素晴らしい願いです。ヒロシマももっとがんばるんだ!!






広島世界平和ミッション

2006-04-07 21:37:32 | Weblog
こんばんは。今夜は、広島世界平和ミッション第Ⅰ陣について。



第1陣 参加への思い
 ■報復 決して勝利ない
「広島世界平和ミッション」(広島国際文化財団主催)の第一陣の派遣団員に選ばれた被爆者ら五人は、三月下旬から中東・アフリカ地域を巡る。紛争地域や潜在核保有国などへの出発を約一カ月後に控え、平和ミッション参加への動機や意気込みをそれぞれにつづってもらった。

一九九八年から、原爆資料館(広島市中区)の展示の説明や平和記念公園内の碑巡り案内をするヒロシマ・ピース・ボランティアを務めている。それがきっかけとなって、修学旅行生らに自らの被爆体験も語るようになった。四十年余の会社勤めを終えたのを機に、一念発起してボランティアの輪に加わった。
爆心から約一キロの中区広瀬北町の自宅で、十歳の時に被爆した。広島県双三郡の寺へ学童疎開していたが、体調を壊して疎開先から二日前に帰宅していた。

机の前で疎開先へはがきを書いていたその時、背後の天窓に光を感じ振り向いた。あとの記憶は暗闇だけ。原爆を「ピカドン」と呼ぶが、音は覚えていない。

近所のおばさんに背負われて逃げた。川土手で休んでいたら、黒い雨が降ってきた。

母は家の下敷きになった。助け出されはしたが、九日後に亡くなった。私は広島県筒賀村の伯母の元で、脱毛などの苦しみを味わった。当時の悲惨な情景は今も、脳裏に焼き付いて消えない。

来館者から「米国を憎む気持ちはないか」と尋ねられる。母を殺された記憶は今も鮮明に残っている。「憎む気持ち」がないとは言えない。しかし、あの悲惨な体験を、子や孫の頭上に再び起こしてはならない、との思いが憎しみより勝る。

報復の連鎖では平和は決して訪れない。中東などの紛争地域では自爆テロが続いている。命の代償に何を得たのだろうか。命を大切に平和な国づくりに尽くすことが、より重要であろうに。

報復には決して勝利はない。核戦争は人間社会全体を破滅させる。自らの被爆体験から得たこうした実感を世界に訴え、平和の尊さを人々と分かち合いたい。

それにしても、最近の国内外の世情の変化を見るにつけ、「ヒロシマ、ナガサキの記憶」は忘れ去られたのかとの思いが強くなる。体験的な記憶が伝えられるのは、私たちの世代までだろう。次世代に体験を継承しなければ…。焦りの一方で、使命感にも似た思いに突き動かされている。




てらもと・たかし 広瀬国民学校5年の時に被爆。広島修道高を卒業後、1954年中国電力に入社。90年に関連会社に出向、総務部長などを歴任して97年に退職。翌年から原爆資料館のボランティアガイドなど平和活動に打ち込む。広島市中区出身。

【写真説明】「被爆者としてできる最後の奉仕のつもりです」

世界平和ミッションに参加されている方々の言葉を、何回かに分けて、

お知らせしたいと思っています。
















ドキドキの一年生!!

2006-04-06 23:56:52 | Weblog
こんばんは。

 ▽桜を見上げ希望の一歩
広島県内の多くの公立小、中学校で六日、入学式があった。広島市南区の宇品小でも、ほぼ満開となったソメイヨシノに迎えられ、一年生が保護者と一緒に初登校した。

式は午前十時半から体育館であり、六年生や教職員の手拍子の中、新入生百五十一人が入場。創立百十周年の節目を迎えた点を踏まえ、牧野道夫校長が「素晴らしい伝統を持つ学校でたくましく育ってください」と呼び掛けた。


六年生代表のあいさつに続き、新入生全員が「ドキドキドン! 1ねんせい」を合唱。伊東飛竜君(6)は「入学できてうれしい。鉄棒と友達づくりに頑張りたい」と話していた。


県内では七日までに、ほぼすべての公立小中学八百二十一校で入学式があり、約五万二千人が新たな学校生活をスタートさせる。

いいですね、こどもたちが一番輝いてるときではないかと。ずっとこのままいいこで育ってほしいものです。