ワニさんの『パワフルおっさん連Ⅲ』

『おっさん』が思うまま、感じるままのんびり行きます!!

ヒロシマ原爆記念日

2007-08-06 11:50:08 | Weblog
こんにちは。昨年の10月以来の投稿になります(^-^;)

誠にお恥ずかしいことですが、8月6日の今日まで更新してなかったのは『おっさん』の横着ですね。今日我が街ヒロシマは62回目の原爆記念日を迎えました。
自民党の大敗した選挙関係の報道ばかりでヒロシマのTVでも通常よりは原爆記念日前の報道時間は短かったように感じてるのは『おっさん』だけではないと思いますね。

今朝平和記念公園にて行われた「平和記念式典」にて秋葉忠利市長より読み上げられた「平和宣言」をここに載せておきます。

平和宣言



                  平 和 宣 言

運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB-29の爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)――静寂――阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)。

落下傘を見た少女たちの眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰(つぶ)れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人――辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨(うらや)むほどの「地獄」でした。

14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌(こうじょうせんがん)等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。

それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。

しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来(みらい)永劫(えいごう)忘れてはなりません

こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん)しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。

しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智(えいち)を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。

世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。

我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。

唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。

2007年(平成19年)8月6日
                               広島市長 秋 葉 忠 利



         



あきれ果てて物も言いたくないような「北」

2006-10-19 11:45:18 | Weblog
北朝鮮「核実験あと3回やる」と通告 米報道

 【ワシントン18日共同】米CNNテレビは十八日、北朝鮮が今後三回核実験を行うと中国に伝えたと報じた。CNNは実験時期などには触れていない。これより先、NBCテレビは十七日、北朝鮮が複数回の核実験実施を中国に通告したと伝えていた。

CNNテレビは十七日、米情報当局者の話として、北朝鮮の少なくとも三カ所で、再実験の準備とみられる動きを米偵察衛星がとらえていると報道しており、三回の実験予告はこの情報と符合する面もある。

 一方、取材団が平壌入りしている米ABCテレビは十八日、北朝鮮外務省の李根米州局長が再度の核実験があるのかとの質問に対して「もしあったとしても、自然なことだ」と述べた、と報じた。時期や規模などは明らかにしなかった。

李局長は「再実験に米国は驚くべきではないのか」とのABCテレビの質問に、「そういうことだ。北朝鮮の周辺国の韓国、日本などには(米軍の)多くの核兵器があり、新たな演習も進めている」と語った。

以上、10月19日の中国新聞より抜粋。

パソコンの不調などもあり、思ったように更新していけませんが。ただ北朝鮮に言葉も無い・・・どうかけばいいのか?

家内と話しをするのにそれこそ「60年前の日本より悪いなあ」と、おっさんのへたな言葉でどうこうよりも、今回新聞よりの抜粋を載せました。この北の問題は簡単には文章に出来んわ。色々な見解が有ると思うけど、おっさんの頭では書けんです。

じゃけ、つまらん事ばっかりじゃと思うけど、おえりゃ~せんけ~、頼むわ・・・。

もう一度見て思ったこと・・・。

2006-09-30 23:59:04 | Weblog
「涙そうそうスペシャル広島・昭和20年8月6日」

涙と優しさ、そして怒り、自分でまた感じたことはほんまにいろいろとあったわ。
じゃが、自分も子供のころから廻りでは当たり前のように、また小学校のときもそれこそこれでもかと言うくらい、教えられた?まあ子供であったおっさんは先生の言う事は絶対であると言う教育体制の中少年時代を過ごしたんじゃが・・・。

三女の真希が、友達になった朝鮮人の学生じゃ、おっさんが子供のころは近所に朝鮮があって、せまい袋小路のような所に10世帯くらいの朝鮮人が住んどった。

やっぱり嫌われものには違いなかった、おっさんも保育園のころから誰かれとも言わず近寄るなと教えられたと思うのぉ。

映像で受ける衝撃は、忘れていないあのころを思い出すことが心のひとつの傷となって痛みさえ覚えてしまう。

兵隊が「朝鮮が!朝鮮が!」と矢島旅館に乗り込んでくる、長女はすごいよ、あの時代に出来んじゃろう。

おっさんもまた少年時代を思い出し、また今自分が朝鮮人に対してどう対応できとるんか・・・。
きれい事はいわんよ、ただ今とあの時代、またおっさんが少年であったあの頃とはぜんぜん違うんじゃ。
まだまだ考えることがあるよの。

涙そうそう・・・。

2006-09-29 23:41:00 | Weblog
TBSテレビ、涙そうそうスペシャル。見てもらえたじゃろうか?

「広島・昭和20年8月6日」の放送は21時からじゃったけど、時間を早う書いとったけぇごめんなさい。

おっさんが語りたい事、みな言うてくれとる、見事に再現された産業奨励館や矢島旅館のある町並み・・・あの事が無かったらみんな幸せになれたんかもしれん、戦争がなけりゃ原爆は落とされることはなかったんじゃ。

おっさんが語らんでも、おわりのへんで言うてくれたわ、きれいに復興した平和記念公園のや世界遺産に指定され当時の姿を物語る原爆ドーム。緑豊かな世界の平和の憩いの場なんじゃ。

おっさんを含め広島市民がどこへ行っても自慢出来る所なんじゃ。

じゃが、そんな市民のなかにも心ないバカがおるわ、折鶴に放火したり、慰霊碑にスプレーでいたずら書きしたり、原爆死没者の名簿を入れてある石棺にペンキをかけたり、その常識はずれな犯罪は犯人が捕まることは非常に少ない。どういうことじゃ!こういうのは大抵どっかのくそガキがやったことじゃろう、内容が物語っとるわい。そういう蛮行は後を絶たん、悲しい事じゃ・・・。

いまだ年老いて平和を叫ぶ被爆者の人々、やるせないじゃろう、おっさんも被爆二世としてはらわたが煮えくり返るような憤りをおぼえるよ。ちょっとでもなんか出来んか、と思うてこうして書いとるんじゃが・・・。

今夜はまた心新たに、また何かやろう、出来る事をやろう、それが原爆また、戦争で亡くなっていった方々へ、生かして頂いとる今の自分からのほんのすこしの気持ちなんじゃと、そして、ありがとう、と・・・。




いよいよ今日の夕方です。

2006-09-29 01:18:26 | Weblog
いよいよ迫ってきた。
TBSテレビ局の、開局50周年記念企画の「涙そうそう」シリーズ、4時間スペシャルとなっとるよ、

「広島・昭和20年8月6日」
 テレビの宣伝では是非広島の人達に見てもらいたいと某有名アナウンサーが語っとられたが、私ら広島の人間は広島以外の県外の方々に知っていただくんが、この広島のやるべき事なんじゃ。他県の方々もじっくり見てほしいと。

テレビというメディアが今また、あの日の恐怖・あの日の悲しみ・・・廃墟の中家族を探しあてる事ができたのはどれだけじゃったか。

昭和20年8月6日午前8時15分
この日から現在の大都市広島は復興してきたんじゃ。  

大人も子どもも女も老人でさえもみんなで・・・。  アメリカ軍はB29は何をしたんじゃ・・・。

朝の広島であの日、何があったんか・・・・。


涙そうそう・・・。

2006-09-26 19:38:27 | Weblog
久しぶりの更新になりますね。

「涙そうそう」とは沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味になるそうじゃ。
2006年の今年TBSテレビ局の、開局50周年記念企画にて9月29日18時55分より

『広島・昭和20年8月6日』
というドラマが放送されるんじゃ、去年一度放送されたもんじゃが、是非見てない方、また見た方ももう一度見てほしいと思う。

わしも去年見たが、「涙そうそう」にならざるおえんかったんじゃ。短い投稿じゃが皆にこの事を知らせたかったけぇ。

皆さんよろしゅう頼むね、忘れんといてね・・・。



秋晴れじゃ!!

2006-09-01 13:36:25 | Weblog
リニューアル!

何がリニューアルかとゆうと。パワフルおっさん連Ⅲは広島弁にしました、じゃけわからん言葉もあるかもしれんけど宜しくです。

八月最後の昨日は天気予報も予想せんかったぐらいよう降ったわ。まあ帰ってテレビ見よったら「大きく外れてしまいました、すみません」とかゆうてましたが。

明けて9月最初の日はまさに秋晴れじゃ!気持ちがええわ。何か空気が違うね、ほいで風があって涼しいわほんま。

仕事も何かヒマになったし、このブログはなるべく仕事場で書くようにしました。家に帰ってからよりちゃんと更新出来そうなの~と思うて(^-^;)

平和に関して書くことゆうたら、ほんまになんぼでもあるんじゃが毎日まとめるゆうてわしには結構おおごとなんよ。

そういうとこで今日はリニューアルのお知らせと、みなさんには読みにくいじゃろう広島弁のちょっとはじめだけ・・・。しょうもないけど、ほんじゃまた(^-^)




米が臨界前核実験.半年ぶり23回目

2006-08-31 16:54:33 | Weblog
米エネルギー省は三十日、通算二十三回目となる核爆発を伴わない臨界前核実験を同日午後二時(日本時間三十一日午前三時)にネバダ州の地下実験場で行ったと発表した。
前回の実験から、わずか半年という短い間で行われた。

「ユニコーン(一角獣)」と名付けられた今回の実験は従来の横坑とは異なり、初めて立て坑で行われた。同省ネバダ事務所は「特段の理由はない」としているが、偵察衛星で上空から見た場合、準備作業が本物の地下核実験と見分けが付きにくい。

見分けが付きにくい必要が何処にあるのか聞きたいとこです。

北朝鮮の核実験やイランの核問題が懸念されている時期に実施したことで、核軍縮を求める市民団体などからの反発は必至だろう。
                

▽広島県被団協など座り込み
米エネルギー省が今年二回目の臨界前核実験を実施するという発表に対し、広島県被団協(坪井直理事長)や連合広島など十二団体が三十日、広島市中区の原爆慰霊碑前で抗議の座り込みをし、実験中止を訴えた。

被爆者や会社員ら約八十人が参加。慰霊碑前で「すべての核実験に強く抗議する」と書いた横断幕を掲げ、午後六時から三十分間座り込んだ。その後、全員で慰霊碑に向かって黙とうした。

県原水禁顧問の宮崎安男さん(77)は「いつまでやるんだという気持ち。核という暴力に対抗するために一人一人が気力を持ちながら世界の人と連携していかなければならない」と厳しい表情を崩さなかった。

前回の臨界前核実験で0に戻され、わずか188日で0に戻された平和監視時計


この画像を写してわずか38日後には0に戻されました。資料館によると時差の関係で実際には187日だそうです。


北朝鮮の核実験やイランの核問題が懸念されている時期に実施したことで、核軍縮を求める市民団体などからの反発は必至だ。

核弾頭を小型化するとか、他の国の核のことには厳しい指摘をしておきながら。それこそ核弾頭を搭載したミサイルを積んだイージス艦のような船を世界に配備して世界の監視役でもやろうというんでしょうか。

はっきり言ってまったくの無視と言ってもいいですがやはり被爆地広島からの、反対の声は届いてないのでしょうか。










62年目のあの日にむかって・・・。

2006-08-17 23:39:35 | Weblog
色んな方々に後押しして頂き、1月にこのブログ開設しました。
自分ではなんとか頑張ってきたつもりですが、広島が何処まで伝えられたのかは自信がありません。、二世の我々兄弟は、戦争は知らない、
だがボロボロの我街広島が、まさに目も留まらない速さで復興していく姿をずっと見てきた。
理屈ではないこの被爆地のパワー、それは長崎も同じである。
おっさんはあんまり作文は上手ではないが、小さいころから両親や大人たちは必死だったのだ。小さい子供を相手にしている暇はなかった。5歳年下の弟にいつもミルクをあげたのはおっさんだった、母乳なんて飲ませている暇は母には無かったのだ。

まあ出産後2日後には店にたっていた母は、母乳なんて出なかったんだ。今思い出すと悲しささえおぼえてしまう。

大人になって考えてみると、その日の売り上げで米を買いに良く行かされたな、弟が生まれた頃にはミルクが買えた。米の砥ぎ汁との混ぜ物でも自分は大きくなれて良かった・・・。
おっさんは、被爆者の両親との間に産まれた男3人の兄弟だ。父は亡くなったが、母はまだ店に出ている、「歩けんようになったら店もやめるわ」と今でも子供達には心配をかけまいと頑張っている。
両親は原爆の事は、聞かないと言わなかった、おっさん達兄弟は、被曝2世なんて珍しくもなかった。周りの友達はみんなそうだったから。

小学校の時「戦後も20年を向かえました・・・。」と学校で朝礼がありました。

今戦後61年ですが、おっさんは戦後20年の自分の方がよっぽど光っていたし、夢ももてた、子供だったからかな。

東京オリンピックが開催された時、「もう生きてる間にはまず見れることはない」と学校で授業をさておき白黒テレビで見せてもらいました。
文明の発展とはすごいもので、現在ではあっちこっちで開催されるオリンピックをお茶の間で見ることが出来ます。
現在を生きるおっさんとまさにおっさんの子供達、では環境や教育が全くといってもいいほど違います。ですが、このブログを通じて言いたかったことは、

誰といって憎んではいけない、少しの笑顔が気付かなかった平和な社会を創って行けるんじゃないかと。

終戦記念日をひとつの区切りにしようと思ってます。少しの間休止します、ご覧の皆様有難う御座いました。
近いうちまた復活します。

己の如く人を愛せよ・・・。

2006-08-11 22:26:59 | Weblog
永井隆博士が被曝後、二人の子供、誠一、茅乃と過ごしたたった2畳の住居。「にょこ堂」
おっさん自身、永井博士の事を知れば知るほど、広島の原爆二世である自分を恥ずかしく思うばかりです。
多くの小説など脱稿また出版され、帰天される昭和26年5月1日まで我が命を捧げ被爆者のため帰天の時まで全ては人のため、だったのです。

広島の被爆二世であるおっさんは、皆さんに永井博士のことをもっと知って頂きたいと、考えました結果。
おっさんのブログの上をこえリアルの友達にもなれた、長崎出身である、ハムハムさんに永井博士の被爆地、また如己堂の背景である長崎での、信じられない永井博士の一生を伝えていただきたいと思います。けっして横着ではないんです、おっさんの文章では皆さんにお伝え出来ないと思いました。ごめんなさい。
こころノート
如己堂の永井博士、こちらにお願いしてありますので、宜しくお願いします。