ワニさんの『パワフルおっさん連Ⅲ』

『おっさん』が思うまま、感じるままのんびり行きます!!

下らんことで忙しいです・・・。

2006-06-13 23:06:54 | Weblog
いろいろと、つまらない用事が出来なかなか思ったようにブログの更新が出来ません。

一段落付きましたら、のんびりではありますが、ブログの更新していきたいと思います

このブログをご覧の方がおられましたら、済みません。
出来るだけ早い更新を目指しますので宜しくお願いします。

シンドラーのリスト

2006-06-11 23:02:48 | Weblog
事故のエレベーター、不具合情報引き継がれず

男子高校生が死亡した東京都の港区住宅公社マンションのエレベーターで過去三年、トラブルが四十三件も続発したにもかかわらず、メンテナンスを担当する保守管理会社が交代した際、情報が十分に引き継がれていなかったことが十一日、同区の調べで分かった。

また、独立系の保守業者にメーカーから十分な技術情報が提供されていない実態も判明。警視庁は、保守管理態勢の問題が事故につながった可能性もあるとみて、関係者から事情を聴いている。

事故が起きたエレベーターは一九九八年に稼働。当初は製造元のシンドラーエレベータが保守も担当した。港区は二○○四年、保守業者の選定を指名競争入札に変更。○四年度はシンドラー社が落札したが、○五年度は独立系の日本電力サービス、○六年度は同様に独立系のエス・イー・シーエレベーターが請け負った。

しかしトラブルはマンションの防災センターにある業務日誌に記載されるだけで、詳細な内容が後継業者に伝えられることはなかったという。

事故機では今年一~二月、ドアが開かないトラブルが相次いだ。日本電力サービスは原因を特定できず、シンドラー社の調査で、制御盤とエレベーターのかごをつなぐケーブルの断線が見つかった。

保守業者でつくるエレベーター保守事業協同組合は「エレベーター業界は非常に閉鎖的。自社系列の保守業者以外には、情報を秘匿する」と非難。

あるメーカーの社員は「各メーカーそれぞれ独自の技術も多く、系列の点検会社なら技術も情報もある。独立系会社がどのような点検を行っているのか、メーカー側では不透明」と指摘した。
シンドラーのリストとは、封建的でミスを隠してしまうリストなのか。エレベーター業界がそうなのだとすれば、全ては闇の中・・・。








シンドラー?

2006-06-10 01:22:03 | Weblog
シンドラー社幹部から聴取 国土交通省
ドンドン出るボロ・・・。これは事故ではないでしょう。

東京都港区のエレベーター事故で国土交通省は九日、製造元の「シンドラーエレベータ」幹部を国交省に呼び、同社が設置したエレベーターのリストの提出を受け、保守管理の状況などについて事情を聴いた。

エレベーターの数について同社はこれまで七千数百基と説明していたが、実際は八千基を超えることが明らかになった。

リストには施設や建物の名称、住所、納入時期などが記載されている。国交省は地域別に分類して都道府県に情報提供し、公共施設については名称などを公表する方針。

同社は事故発生直後、国交省が設置状況を問い合わせた際に「個人情報保護」を理由にリストの提供を拒否。その後、制御システムなどが事故機と同じエレベーター十二基の所在地を報告した。七日の東京都の事情聴取には「会社の方針」を理由に、約千七百基とされる都内の設置場所は明らかにしなかった。

北側一雄国交相は九日の閣議後の記者会見で「国にも自治体にも誠実に対応していただきたい。(個人情報保護のために提供を拒むのは)全く理由にならない」と苦言を呈していた。

国交省は既に、提出が義務付けられている定期検査報告書などを基に同社のエレベーターを特定し、過去に事故やトラブルがなかったかどうか調査するよう都道府県に指示。二十八日までに回答するよう要請している。

会社の方針?個人情報保護って、(゜Д゜)ハァ?
『シンドラーのリスト』って感動の映画があったよな・・・。
で、このシンドラー社のリストって何だ?
殺人マシンリストか?






縮景園の8月6日

2006-06-09 01:33:37 | Weblog
最終回8月6日の縮景園です。

四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面です。

家元の祈り
 
息絶えた人へ 献茶で供養式

「縮景園の戦前と戦後をつなげる役目を果たしてくれた」茶道上田宗箇流家元の上田宗嗣さん(60)=広島市西区=は自宅で、一枚の古絵図を慎重に広げた。
           

原爆で灰じんに帰した園が再び開園したのは一九五一年。近くの山から持ってきた木が植えられただけだった。正門や茶室など本格的な復旧はさらに十年後。大いに役立ったのが上田家に伝わる江戸後期の絵図だった。

縮景園は、広島藩家老で茶人の上田宗箇によって造られた。宗箇から数えて十六代目の上田さんは「園内では今も亡くなった数多くの人の思いを感じる」と言う。上田さんもまた、父と祖父母を原爆で失っている。

宗箇から数えて十六代目の上田さんは「園内では今も亡くなった数多くの人の思いを感じる」と言う。上田さんもまた、父と祖父母を原爆で失っている。

今回で8月6日の縮景園最終回です。

お付き合い有難う御座いました。中国新聞よりの抜粋が基本でお知らせしました。

次は検討中ですがあまり堅い記事にならないように頑張って見ます。 


         

縮景園の8月6日

2006-06-02 19:32:37 | Weblog
引き続き8月6日の縮景園です。
四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面です。
石柱漂流

県北の地で生徒見守る
被爆した一対の石柱は約六十キロ離れた広島県北の三次市の塩町中学校にあった。縮景園内の観古館の門だった石柱は今、校門として再利用され、生徒を見守っている。
花こう岩製の柱は高さ約三・五メートル、一辺四十五センチの角柱。旧広島藩主、浅野家の宝物を納めていた観古館の門にふさわしく、上部には重厚な装飾が施してある。
一九七一年、塩町中が現在地に新しく校舎を建てた際、校門もできた。その時、石柱が校門に転用されたことを示す記録が同校に残る。
            

なぜ三次にあるのか。ある人は「当時の教育関係者が今度、いい門が広島から来ると話していた」と言い、別の人は「三次に広島藩の支藩があったことと関係あるのでは」と推測する。今でははっきりした経緯は分からない。

被爆に耐えた石柱は黒ずんだ部分があるものの風格を漂わせる。同校の瀬尾匠史教頭(49)は「生徒たちにとって、原爆の悲惨さを身近に感じられる遺物。しっかり学んでほしい」と願っている。