ワニさんの『パワフルおっさん連Ⅲ』

『おっさん』が思うまま、感じるままのんびり行きます!!

米が臨界前核実験.半年ぶり23回目

2006-08-31 16:54:33 | Weblog
米エネルギー省は三十日、通算二十三回目となる核爆発を伴わない臨界前核実験を同日午後二時(日本時間三十一日午前三時)にネバダ州の地下実験場で行ったと発表した。
前回の実験から、わずか半年という短い間で行われた。

「ユニコーン(一角獣)」と名付けられた今回の実験は従来の横坑とは異なり、初めて立て坑で行われた。同省ネバダ事務所は「特段の理由はない」としているが、偵察衛星で上空から見た場合、準備作業が本物の地下核実験と見分けが付きにくい。

見分けが付きにくい必要が何処にあるのか聞きたいとこです。

北朝鮮の核実験やイランの核問題が懸念されている時期に実施したことで、核軍縮を求める市民団体などからの反発は必至だろう。
                

▽広島県被団協など座り込み
米エネルギー省が今年二回目の臨界前核実験を実施するという発表に対し、広島県被団協(坪井直理事長)や連合広島など十二団体が三十日、広島市中区の原爆慰霊碑前で抗議の座り込みをし、実験中止を訴えた。

被爆者や会社員ら約八十人が参加。慰霊碑前で「すべての核実験に強く抗議する」と書いた横断幕を掲げ、午後六時から三十分間座り込んだ。その後、全員で慰霊碑に向かって黙とうした。

県原水禁顧問の宮崎安男さん(77)は「いつまでやるんだという気持ち。核という暴力に対抗するために一人一人が気力を持ちながら世界の人と連携していかなければならない」と厳しい表情を崩さなかった。

前回の臨界前核実験で0に戻され、わずか188日で0に戻された平和監視時計


この画像を写してわずか38日後には0に戻されました。資料館によると時差の関係で実際には187日だそうです。


北朝鮮の核実験やイランの核問題が懸念されている時期に実施したことで、核軍縮を求める市民団体などからの反発は必至だ。

核弾頭を小型化するとか、他の国の核のことには厳しい指摘をしておきながら。それこそ核弾頭を搭載したミサイルを積んだイージス艦のような船を世界に配備して世界の監視役でもやろうというんでしょうか。

はっきり言ってまったくの無視と言ってもいいですがやはり被爆地広島からの、反対の声は届いてないのでしょうか。










62年目のあの日にむかって・・・。

2006-08-17 23:39:35 | Weblog
色んな方々に後押しして頂き、1月にこのブログ開設しました。
自分ではなんとか頑張ってきたつもりですが、広島が何処まで伝えられたのかは自信がありません。、二世の我々兄弟は、戦争は知らない、
だがボロボロの我街広島が、まさに目も留まらない速さで復興していく姿をずっと見てきた。
理屈ではないこの被爆地のパワー、それは長崎も同じである。
おっさんはあんまり作文は上手ではないが、小さいころから両親や大人たちは必死だったのだ。小さい子供を相手にしている暇はなかった。5歳年下の弟にいつもミルクをあげたのはおっさんだった、母乳なんて飲ませている暇は母には無かったのだ。

まあ出産後2日後には店にたっていた母は、母乳なんて出なかったんだ。今思い出すと悲しささえおぼえてしまう。

大人になって考えてみると、その日の売り上げで米を買いに良く行かされたな、弟が生まれた頃にはミルクが買えた。米の砥ぎ汁との混ぜ物でも自分は大きくなれて良かった・・・。
おっさんは、被爆者の両親との間に産まれた男3人の兄弟だ。父は亡くなったが、母はまだ店に出ている、「歩けんようになったら店もやめるわ」と今でも子供達には心配をかけまいと頑張っている。
両親は原爆の事は、聞かないと言わなかった、おっさん達兄弟は、被曝2世なんて珍しくもなかった。周りの友達はみんなそうだったから。

小学校の時「戦後も20年を向かえました・・・。」と学校で朝礼がありました。

今戦後61年ですが、おっさんは戦後20年の自分の方がよっぽど光っていたし、夢ももてた、子供だったからかな。

東京オリンピックが開催された時、「もう生きてる間にはまず見れることはない」と学校で授業をさておき白黒テレビで見せてもらいました。
文明の発展とはすごいもので、現在ではあっちこっちで開催されるオリンピックをお茶の間で見ることが出来ます。
現在を生きるおっさんとまさにおっさんの子供達、では環境や教育が全くといってもいいほど違います。ですが、このブログを通じて言いたかったことは、

誰といって憎んではいけない、少しの笑顔が気付かなかった平和な社会を創って行けるんじゃないかと。

終戦記念日をひとつの区切りにしようと思ってます。少しの間休止します、ご覧の皆様有難う御座いました。
近いうちまた復活します。

己の如く人を愛せよ・・・。

2006-08-11 22:26:59 | Weblog
永井隆博士が被曝後、二人の子供、誠一、茅乃と過ごしたたった2畳の住居。「にょこ堂」
おっさん自身、永井博士の事を知れば知るほど、広島の原爆二世である自分を恥ずかしく思うばかりです。
多くの小説など脱稿また出版され、帰天される昭和26年5月1日まで我が命を捧げ被爆者のため帰天の時まで全ては人のため、だったのです。

広島の被爆二世であるおっさんは、皆さんに永井博士のことをもっと知って頂きたいと、考えました結果。
おっさんのブログの上をこえリアルの友達にもなれた、長崎出身である、ハムハムさんに永井博士の被爆地、また如己堂の背景である長崎での、信じられない永井博士の一生を伝えていただきたいと思います。けっして横着ではないんです、おっさんの文章では皆さんにお伝え出来ないと思いました。ごめんなさい。
こころノート
如己堂の永井博士、こちらにお願いしてありますので、宜しくお願いします。

きょう長崎原爆の日 平和公園で祈念式典

2006-08-10 00:07:36 | Weblog
長崎は九日、六十一回目の原爆の日を迎えた。長崎市松山町の平和公園では「被爆六十一周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれ、市民は犠牲者の冥福を祈り、世界平和への思いを新たにした。
伊藤一長長崎市長は「長崎平和宣言」で、「世界の核不拡散体制は崩壊の危機に直面している」として核兵器保有国や保有・開発疑惑国を名指しで批判、「二〇〇六年を再出発の年とし、恒久平和の実現に力を尽くす」と決意表明した。
被爆者代表の中村キクヨさん(82)は「平和への誓い」で「私たちが生きている時代に、平和な世界になってほしい」と切実な願いを訴えた。


皆さんは今日午前11時02分に黙祷を捧げてくれたでしょうか。 おっさんは仕事中でしたが、NHKのテレビ放送に合わせて、一分間の黙祷を捧げました。

 原爆という突発的な大惨事は、長崎のまちに壊滅的な打撃を与えました。
 爆心地付近の建物は完全に燃え尽き、瓦礫(がれき)と化しました。人々の体にも熱線は降り注ぎ、通常の火傷では考えられないほどの被害をもたらしました。
鉄橋をゆがませ、鉄筋コンクリートの建物さえ押しつぶす爆風が、人々を吹き飛ばし、散弾のような無数のガラスや木片を全身に浴びせたのです。

11時02分で止まった柱時計は、原爆の炸裂した爆風や熱線の激しさを物語っています。

原爆による被害状況は。
・死者: 7万3884人
・負傷者: 7万4909人
・り災人員: 12万820人(当時の長崎市の人口約24万人)
・り災戸数: 1万8409戸
(消失面積は670万2300m2に及びました。)

こういった被害の中、自らの命を捧げた医学博士がいました。彼の名は「永井隆」博士です。

博士はこのとき、爆心地からわずか700mしか離れていない長崎医科大学の研究室にいた。あいつぐ空襲で負傷した患者であふれた教室で、自らの白血病と闘いながら診察中の被爆だった。
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も吹き飛ばされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する学生もろとも一団の炎となった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわがやの焼け跡から拾わねばならなかった。
台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く廃人となりはててしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)

自らのラジウムによる白血病にて余命3年との診断を下された博士に、決定的な被曝を負うことになった。爆心地より700mの長崎医科大研究室にて被曝。それによる原子病により

苦闘の原爆症患者、相次ぐ死者を助けたいと歩き診療するが、自身が危篤状態に陥り、無念にも救援活動を中止せざる終えなくなる。

永井博士につき「如己堂」と永井博士、これは皆さんがもし知らないのなら、知っていただきたいと。
明日も書いていきます。

前の投稿にて、「平和公園」=「爆心地公園」との間違い的な書き方をしてしまいました。ここでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。









あす長崎原爆の日 世界に核兵器廃絶訴え

2006-08-08 23:41:17 | Weblog
8月6日原爆記念日をむかえ、悲しみも新たにした被爆地広島に続き。
3日ごには原爆で約75000人もの被災者をだした、長崎市が明日8月9日61回目の「あの日」を迎えます。

長崎市の「原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」は、午前十時四十分から松山町の平和公園(爆心地公園)で始まり、原爆投下時刻の午前十一時二分の黙とうで死没者を追悼。世界に核兵器廃絶を訴える。
国際情勢は、昨年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の「失敗」を引きずり、核拡散が加速する危険性をはらんでいる。

米国は現在保有する核弾頭に代わって新型の「信頼性のある代替核弾頭(RRW)」を開発中。核兵器開発疑惑が指摘されているイランには国連安全保障理事会がウラン濃縮のような核関連活動の全面停止を要求したが、イランは反発しており、解決への道筋は見えてこない。

 七月には北朝鮮がミサイル七発を発射し、北東アジア情勢は一気に緊迫した。中東でもイスラエル軍とレバノンのイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラが交戦状態にあり、混迷を深めている。

 一方、被爆者の高齢化が進んでおり、核廃絶と援護の充実を訴えてきた運動は岐路に立たされている。
今年三月末の被爆者の平均年齢は七三・八五歳。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は十日に結成五十周年を迎えるが、加盟していた奈良県の被爆者団体が三月に解散。組織維持の困難さが表面化した。

 被団協が進めている原爆症認定の集団訴訟は大阪、広島両地裁でいずれも全面勝訴したが、国が認定制度を見直す気配はない。被爆者は残された時間を意識しながら焦りを募らせている。

やはり長崎でも広島でも被爆者の高齢化が進み、被曝者団体の組織維持は困難を極めているようです。被爆者達の経験、言葉を風化させないためには、二世でもある私達が少しでも語り継ぐことが大事なのでしょう。
          
           ◆ 高さ9.7メートルの平和祈念像

原爆落下の中心地とその北側に世界平和を願って造られた公園である。公園中央に立つブロンズ像は高さ9.7m重さ30t 天を指す右手は原爆の脅威を水平に伸ばした左手は平和を示し、閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈る姿という。
               
      ◆ 「水を」と言って死んだ人の冥福を祈る「平和の泉」

公園内には水を求めてさまよった少女の手記がきざまれた「平和の泉」や世界各国から贈られた平和の像建ちならび、世界恒久平和を願う長崎市のシンボルゾーンとなっている。
明日8月9日には平和祈念像の前で原爆で亡くなった約7万5000人の人々の慰霊祭と平和記念式典が行われる。

まだ現在でも被災者の数は年々増えています。死没者名簿の数が増えていくことは悲しい事です。

皆さんも午前11時2分原爆被災者に黙祷を捧げていただきたいと思います。










61年目の慰霊、広島で平和記念式典

2006-08-06 13:02:26 | Weblog
▽4万5000人が参列、市長「核廃絶、市民の責任」と訴え
米国による原爆投下から六十一年目の「慰霊の日」を迎えた六日、広島市中区の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)があり、四万五千人(市発表)が参列した。
秋葉忠利市長は、平和宣言で「核兵器からの自由をもたらす責任は今や、私たち世界の市民と都市にある」と強調。固い意志と情熱を持って目覚めるときが来たと核兵器廃絶への行動を呼び掛けた。

午前八時、秋葉市長と遺族代表が原爆死没者名簿を原爆慰霊碑に納めた。この一年間に亡くなったり、死亡が確認された被爆者は五千三百五十人に上り、名簿登載者の総数は二十四万七千七百八十七人になった。
死没者の名簿は、今年初めて奉納する「氏名不詳者 多数」と記した一冊を含めて四冊が加わり、八十九冊になった。

 原爆が投下された時刻と同じ八時十五分―。遺族代表の米倉正明さん(46)=中区=と、こども代表で青崎小六年の三登百合子さん(11)=南区=が「平和の鐘」をつくと、参列者は起立して、一分間の黙とうをささげた。

秋葉市長は平和宣言で、国際司法裁判所(ICJ)が十年前に出した「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に違反する」との勧告的意見に触れ、核兵器廃絶が、その後実現できなかった危機感とその反省を基に、核軍縮に向けた「誠実な交渉義務」を果たすように求めるキャンペーンに取り組む決意を表明した。

政府に対しては、世界に誇るべき平和憲法を守り、核兵器廃絶に向けた誠実な交渉義務を果たすよう核保有国に迫る世界的運動の展開を要請。高齢化した被爆者の実態に即した人間本位の援護策充実も求めた。

 続いて、南観音小六年の新谷望君(12)=中区=と、楽々園小六年のスミス・アンジェリアさん(12)=佐伯区=のこども代表二人が「平和への誓い」を読み上げた。

 六年連続の参列となった小泉純一郎首相は「今後とも憲法の平和条項を順守し、非核三原則を堅持する。核兵器廃絶と恒久平和の実現に向け、国際社会の先頭に立ち続けることをあらためて誓う」とあいさつした。

▽平和記念式典
平和記念式典は、原爆死没者の慰霊と世界平和の実現を祈るのが目的で始まった。原爆投下2年後の1947年8月6日に開かれた平和祭で、当時の浜井信三広島市長が初めて「平和宣言」を読み上げた。以来、原爆の日の式典は朝鮮戦争(50―53年)のあおりで、50年に一度中止になったのを除いて、毎年続けられている。昨年は、被爆60年の節目で首相、衆参両院議長、最高裁長官の「三権の長」のあいさつがあったため、式典の時間は例年より20分長い65分間となったが、今年は例年通りの時間に戻された。


61年目の今日も無事式典は行われました。秋葉市長も平和宣言で世界に向けて新たなる核廃絶への宣言をされました。
小泉首相も6回目となる参列で、「今後とも憲法の平和条項を順守し、非核三原則を堅持する。核兵器廃絶と恒久平和の実現に向け、国際社会の先頭に立ち続けることをあらためて誓う」と挨拶されたのですが。
世界の核保有国ではアメリカが一番多いのですが、小泉首相は挨拶は上手ですが、上っ面だけですね。言いなりなのは変わりないのです。



これは先月の24日にネットを通じて知り合えた友達が福井から来られたとき、写したものです。アメリカの臨界前核実験から150日今日で162日目ですこの時計は核の番人でもあります。この時計を戻す事が無い事が平和の証明ではないでしょうか。

まるでブッシュ大統領のことを友達のように振舞ってますが、小泉首相それでいいのですか。

何かどんどん暮らしにくくなって行くように感じてるのは、おっさんだけなんですかね・・・。









61年後の明日

2006-08-05 22:40:28 | Weblog
ヒロシマ、あす「原爆の日」

広島は六日、米国による原爆投下から六十一回目の「あの日」を迎える。
苦難から立ち上がった被爆者は年老いた今なお、「絶対悪」とする核兵器の廃絶を世界に訴え続けている。
しかし、その道筋は見えず、アジアや中東など各地で緊張と戦火はやまない。
力ではなく、対話と理性を重視するヒロシマの心をいかに引き継ぎ、どう共鳴者を増やしていくのか、被爆地の責務は重みを増している。

             
全国の被爆者は三月末現在で、二十五万九千五百五十六人。二十年前より十万人以上も減り、
二十六万人を割り込んだ。平均年齢は七三・八五歳と、昨年三月末より〇・七六歳上がった。最も若い原爆小頭症患者も還暦を迎えた。

そうした被爆者の不安をかきたてる出来事が世界で続く。イランの核開発問題や、
核兵器製造を宣言した北朝鮮のミサイル発射、イスラエルのレバノン侵攻など核拡散の懸念や対立は絶えない。
国内でも、地域住民の思いとは裏腹に、米海兵隊岩国基地(岩国市)への空母艦載機移転に象徴される在日米軍再編が進む。被爆体験を礎として築き上げてきた戦後平和の基盤を揺るがす動きが相次いでいる。

中国新聞社が実施した全国の被爆者団体へのアンケートでは、活動は今後長くても「あと十年」とする回答が目立った。被爆体験継承と核兵器廃絶を急げ、とのメッセージにも受け取れる。

 広島は決して昔話ではないことが四日、あらためて示された。原爆症認定集団訴訟の判決で広島地裁は、内部被曝をはじめ放射線の人体影響は、科学的に未解明な領域が多く、「人知の壁」の存在を突き付けた。放射線の人体影響にも終わりはない。

 秋葉忠利市長は六日の平和宣言で、世界の都市と市民に目覚め、行動するときだと呼び掛ける。先頭に立つべき被爆地に再びめぐり来る「あの日」。慰霊と平和への願いに包まれる中、果たすべき役割を静かにかみしめたい。

いよいよあの日がやって来ます、61年前のこの夜を広島市民はどんな気持ちで過ごしていたのでしょうか。明日午前8時15分世界で初めて落とされる原爆の事など知らず、家族で暑くても楽しい夜を送っていたのでしょうか。
男も女も子供もお年寄りも明日と言う日が一瞬でなくなってしまうなんて、思っても見なかったでしょう。

これまで、充分とは言えませんが、お知らせしてきた、事、画像など、いよいよなんです。











            

どうして今更・・・。

2006-08-04 23:42:11 | Weblog



41人全員の原爆症認定 集団訴訟、国また完敗

被爆者援護法に基づく原爆症の認定申請を国が却下したのは違法だとして広島、山口、東京の被爆者ら四十一人が却下処分の取り消しなどを求めた訴訟で、広島地裁(坂本倫城裁判長)は四日、四十一人全員を原爆症と認める原告勝訴の判決を言い渡した。一人当たり三百万円を求めた国家賠償の請求は退けた。
 原告九人全員の勝訴とした五月の大阪地裁判決に続き、国は事実上完敗したことになり、今後の原爆症認定や被爆者援護行政の在り方に大きな影響を与えそうだ。

坂本裁判長は判決理由で「(国の認定基準は)残留放射線による外部被ばくや、内部被ばくを十分に検討しておらず、

限界や弱点がある」と指摘。現行の審査方法で算出される被ばく放射線量は「最低限度の参考値」とした。

 裁判では、疾病と放射線との因果関係をめぐる認定基準の妥当性が最大の争点となり、

爆心から二キロ以上離れた場所で被爆した「遠距離被爆者」や、原爆投下後に爆心地近くに入った「入市被爆者」が原爆症と認められるかが注目されていた。

厚生労働省は二○○一年五月、爆心地からの距離に基づく被ばく放射線量と、年齢や性別、病名を組み合わせ、病気が原爆に起因するかを判断する新基準「原因確率」を導入した。
 大阪地裁判決は国の基準について「機械的に適用することは相当でない」と指摘していた。

 集団訴訟は全国十五地裁で提起され、判決は大阪地裁に次ぎ二番目。

何時まで、なんで裁判なんて行われているんだ?誰が悪いんだ?良く考えてくれ、
広島の三日後には長崎に原爆は落された、原爆記念日は広島と長崎で27万人以上もの被災者をだしたんだ!

今時のばかたれぞろいの先生では教えることも出来ないでしょうか。
原爆二世である私達には被爆者であった亡くなった父と残された被爆者である母を見守るしかできないのですか。





61年目の「あの日」

2006-08-03 22:45:34 | Weblog
あの日8月6日が迫りました。

8・6の祈り包むテント。

広島市中区の平和記念公園で6日に営まれる平和記念式典の準備が着々と進められている。

             

2日は、炎天の中、参列者が猛暑をしのぐための大型テントが原爆資料館の北側に設営された。

約1万3000席のいすも5日までに設置され、61年目の「あの日」を迎える

いよいよ迫った8月6日、原爆の日です、被爆者ももうお年寄りばかりになりましたが、現在でも被爆者認定のための裁判が行われていることも確かな真実です。
年月が経てば経つほど証言できる証人や証拠も少なくなってしまいます。

被爆者である事の認定を受ける事が出来ず、亡くなっていった方も多数おられます。
証明する事がどんどん難しくなって行くのに・・・。