ワニさんの『パワフルおっさん連Ⅲ』

『おっさん』が思うまま、感じるままのんびり行きます!!

縮景園の8月6日

2006-05-31 21:01:08 | Weblog
昨日に引き続き8月6日の縮景園です。
四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面です。
遺族の思い

3歳の弟火葬遺骨分からず

多坂基弘さん(74)=中区上幟町=は六十年たった今も、鮮明に覚えている。 瀕死(ひんし)の人々が逃げ込んだ縮景園の一角で、亡くなった人が次々に焼かれていた。多坂さんの番になった。八月七日、息を引き取ったばかりの三歳の弟を炎の中に投げ込んだ。「感情がまひして悲しくさえなかった」。十一日、両親と湯来の親せき宅に向かう途中、大けがをしていた父親の延一さん=当時(47)=を失った。
               
園に隣接する家で生まれ育った多坂さんにとって、園は庭のような存在だった。動員先の広島駅で被爆。やっとたどり着いた園内は、横たわる死体や重傷者であふれていた。

一九八七年、園内から六十四体の遺骨が発掘された。被爆直後、撮影された写真に、埋葬されたことを示す看板が写っていたのが手掛かりだった。その場所に翌年、慰霊碑が建った。

弟は骨さえ分からないままだ。今も、すぐそばで暮らしているけれど、園を訪ねることはめったにない。

明日も縮景園の8月6日をお伝えします。





縮景園の8月6日

2006-05-30 21:49:29 | Weblog
昨日に引き続き8月6日の縮景園です。
四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面です。
被爆イチョウ
爆風と炎に負けず成長

正門から京橋川に向かって園内を二百メートルほど歩くと、大きなイチョウに出合う。高さ十七メートル、根元付近の幹回りは優に四メートル。樹齢二百年といわれる木が周りの木々と違うのは、まるで爆心地を指すように大きく傾いていることだ。

あの日―。原爆の猛烈な爆風が吹き過ぎた後、今度は気圧が低くなった爆心地に向かって周囲からすさまじい勢いで風が吹き返した。イチョウはその風を受けて今の姿になった。
                                    
数千本といわれた園内の樹木は一瞬にして炎に包まれた。再び芽吹いた木は数えるほど…。二十四年前から庭園技師を務める梅田雅幸さん(54)は、先輩から口づてに聞いてきた。

一九九六年、イチョウはほかの木とともに市の被爆樹木に登録された。
今は二本のワイヤで支えられている。「枝は絶対に切りません。これからもずっと生き続けてもらいたい」。梅田さんは老イチョウを見守る。

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縮景園広島藩藩主の浅野長晟が、元和6(1620)年から別邸の庭園として築いた。名称は、中国杭州の西湖を模して縮景したことに由来する、といわれる。昭和15年、浅野家から広島県に寄贈された。現在、年間20万人の来園者でにぎわう








縮景園の8月6日

2006-05-29 22:03:47 | Weblog
四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面を追ってみました。
秘密部隊
かん口令敷かれた戦場
ガラス張りの外観が特徴的な広島県立美術館が立つ場所には戦争末期、陸軍の秘密部隊が置かれた。浅野家の宝物が収められた観古館を利用した部隊の実像を知る人はほとんどいない。米国帰りの女子学生を集めた通信傍受班、とだけ伝わる。
秦アヤコさん(85)=広島市安芸区=は、ここで夫の妹、芳子さん=当時(20)=を失った。幼いころ、米国で暮らし、英語が堪能だったため動員され、あの日は二十四時間勤務中だった。                                    
「お姉さん、お姉さんと慕ってくれました」とアヤコさん。別の場所に建物疎開に出ていた芳子さんの妹、清子さん=同(15)=も犠牲になった。

かん口令が敷かれ、芳子さんから仕事の内容を聞くことはなかった。勤務中の女子学生八人全員が亡くなったという。縮景園もまた戦場だった。

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縮景園 広島藩藩主の浅野長晟が、元和6(1620)年から別邸の庭園として築いた。名称は、中国杭州の西湖を模して縮景したことに由来する、といわれる。昭和15年、浅野家から広島県に寄贈された。現在、年間20万人の来園者でにぎわう。




忘れてはいけないこと・・・。

2006-05-26 00:22:27 | Weblog
久しぶりの更新となります。
記事としてどう書いていいのか分からない事もあり、いろいろ検討してました。今日はこの記事を取り上げて見たいと思います。
グアムへ戦没者慰霊の修学旅行

原爆で486人の生徒が犠牲になった山陽高(広島市西区)の2年生が24日、6月末から修学旅行で訪れるグアムの戦没者慰霊施設にささげる千羽鶴を作った。

普通科(5クラス)の155人がホームルームの時間を使い、8羽ずつ折った。生徒26人のA組では、担任の竹内誠嗣教諭(42)が「戦没者のことを考え、心を込めて折るように」と指導。手順を忘れた生徒もいるため実演指導した。
                

同校は過去に豪州や東南アジアへ修学旅行したがグアムは初めて。6月上旬に授業で南太平洋での第2次世界大戦の歴史などを学び、出発する。島北部の平和慰霊記念公園を訪れ、生徒全員で折り鶴をささげ献花する。

祖母が被爆者の生徒の一人(16)=中区=は「戦争のない世界になってほしい」と言い、熱心に指先を動かしていた。

竹内教諭(右端)の手ほどきを受けながら、鶴を折る山陽高の生徒

修学旅行で外国に旅行するのは、ここ最近当たり前のように行われていますが。こうして先生・生徒が目的を持っていくのはいい事だと思います。
広島の祈りを伝えて欲しいですね。10年、20年経った時、忘れないことを胸にだいて行ってもらいたいです。

修学旅行でグァム島に行った、楽しかった、だけに終わらない旅行にして頂きたいですね。




広島のお好み焼き!!

2006-05-09 23:26:21 | Weblog
お好み焼き名人、社内で育成

お好みソースなど製造のオタフクソース(広島市西区)は、お好み焼きの知識や焼き方の習熟度を格付けする社内資格「お好(この)み焼士(やきし)」マイスター制度を十月から始める。社外の催事などに参加し、お好み焼きの普及拡大を図る。



入社二年目以降のグループ全社員約四百六十人が対象。インストラクター(初級)、コーディネーター(中級)、マイスター(上級)の三クラスがある。「お好み焼きに天かすを混ぜるのはなぜか」(初級)などの筆記試験で七割以上の正解と、お好み焼き四枚を二十分以内で焼く(中級)などの実技テストをクリアした社員に資格を与える。

三月に実施した筆記試験には半数の二百三十二人が受験した。五―八月に全国の同社研修センターで順次、実技試験を行い、十月から制度をスタートする。同社は「お好み焼きという広島の食文化を伝承し、広げていく人材を育てたい」としている。

現在広島のお好み焼きは、全国的に大変なブームです。今回は社内資格ですが、いずれはその枠を超えて広がることは確実と思われます。日本全国で安定した味の、広島風お好み焼きが食べて頂ける日も近いかもしれませんね!


笑顔で還暦原爆小頭症患者たち

2006-05-08 22:27:57 | Weblog
伝えたい 還暦の原爆小頭症患者
心に変化 きのこ会・支える会「発信」検討

妊娠初期の胎内で強い原爆放射線を浴びたために、頭が小さく、知的障害や身体障害を伴って生まれてきた原爆小頭症患者たち。自身や親たちでつくる「きのこ会」を心の支えに、ひっそりと暮らしてきた。そして六十年。「懸命に生き抜いてきたこの事実を、語り継いでいきたい」。白髪交じりの患者の心境に変化が生まれつつある。

「元気に生きて来られたのは、支援してくださったみなさまのおかげ。心から感謝しています」。四月十六日、広島市内であった「きのこ会還暦を祝う会」。秋葉忠利市長らを来賓に招いた晴れの舞台で、患者の一人、岸君江さん(60)=三次市=が力強くお礼のあいさつを述べた。

ケーキを囲み、笑顔で還暦を祝う原爆小頭症患者たち


祝う会に9人

この日は、広島県内や東京などから計九人の患者が参加した。「周囲に理解してもらいたい、でも偏見が恐ろしい―」。葛藤(かっとう)の中で、社会の片隅を生きざるを得なかった六十年。岸さんのあいさつに、ある患者は目頭をハンカチで押さえ、別の患者は拍手を送った。

「祝う会」はその後、和気あいあいと進んだ。患者たちは、支援者組織「きのこ会を支える会」と喜びを分かち合い、心ゆくままカラオケやビンゴゲームを楽しんだ。引っ込み思案で、かつては絵ばかり描いていた女性患者が演歌にこぶしを利かせ、会場に笑顔がはじけた。

数少ない記録

その光景を、戸惑いとともに見つめる男性がいた。きのこ会事務局の秋信利彦さん(71)だ。中国放送記者だった約四十年前、米国のABCC(原爆傷害調査委員会)の資料から小頭症の存在をつかんだ。原爆医療法の認定疾病の一つとなるきっかけをつくった一人でもある。

兄のように見守り続けてきた秋信さん。家族の気持ちを最優先し、報道する側にいながら、患者とマスコミの間に立つ「防波堤」にもなった。そうした配慮から、被爆の実態を伝える原爆資料館(中区)でさえ、小頭症を紹介するパネルはわずか数枚にとどまる。

「患者や家族の胸の内を思えば、選択は間違っていなかったはず。ただ…」と秋信さん。「強く世に訴える機会を逸してきたのも事実。今、患者たちは笑顔で還暦を迎えた。その年輪と思いをぜひ記録しておきたい」

岸さんが続ける。「私たち患者には役目があると思う。つらいけど生き抜いた六十年をどうにかして伝えたい」。間もなく九十歳を迎えるある母親は「この子たちが一歩踏み出すことで、平和を考えるきっかけになってくれれば」と願う。

 近く話し合い

大学院の修士論文テーマに小頭症を取り上げたのが縁で、支える会に加わる俳優斉藤とも子さん(45)も会場にいた。「支えるだけでなく、一緒に歩み、後世につなげたい。そのために、何ができるのか。新たに活動の輪に加わろうとする方の力も得ながら、考えていきたい」

支える会は近くミーティングを開く。これまでの歩みの記録の仕方や今後の活動方針を話し合う。代表世話人の県立広島大の村上須賀子教授(60)=医療ソーシャルワーク論=は「患者は悲しみをどう受け止め、どう乗り越えてきたのか。腰を据えてまとめ、世に発信していきたい」。原爆被害に耐え、生き抜いた患者たちの力強さを、未来へ伝える。

きのこ会

作家の山代巴さんや元広島平和文化センター理事長の大牟田稔さん(いずれも故人)らでつくる「広島研究の会」が1965年、原爆小頭症患者や親たちに呼び掛け、原爆症としての認定▽親子の生活の終身保障▽核兵器の完全廃棄―の3点を活動の柱に発足させた。3月末現在、厚生労働省の認定を受けた小頭症患者数は全国で23人。うち18家族がきのこ会に参加する。

いろいろな障害を伴って産まれた、原爆小頭症患者たち。「懸命に生き抜いてきたこの事実を、語り継いでいきたい。」語り継がれた事をさらに未来へと語り継ぐのは私達ではないのでしょうか?

































平和の祭典いよいよ明日より・・・。

2006-05-02 22:56:00 | Weblog
スマイル満開、花の塔 30歳FFあす開幕

三日開幕する第三十回ひろしまフラワーフェスティバル(FF)のシンボルとなる花の塔が一日、広島市中区の平和記念公園に完成した。カーネーションステージや各種イベントのテントも設営され、お祭りムードが高まっている。
               

先日ご紹介しました、今回のテーマ「smile to smile」にちなみ「30」を人の笑顔に見立てた廿日市市宮園上の主婦堀江幸子さん(50)のデザイン。赤やピンクのカーネーション、紫や白のパンジー、マリーゴールドなど約一万二千鉢で表現した。

広島市南区の生花デザイナー十川蓉子さんら約三十人が汗をぬぐいながら作業。高さ八メートル、直径九・一メートルで約五十段ある十二角すいの塔に上り、デザイン通りの配色になるよう、四時間かけて鉢を置いた。FFは平和記念公園などを舞台に五日まであり、期間中、塔の上で「平和の灯」をともす。

第三十回の今回は、FF歌手に代わるスペシャルゲストとしてお笑いタレント長州小力さんらが出演。「フラワー・ナイト・フェスティバル」と銘打ち、原爆ドームのライトアップや夜神楽の開催など夜間イベントを充実させるほか、最終日の「きんさいYOSAKOI」では、新しい市民総踊り曲も披露する。

いかがですか、三日間で百五十万人以上の人出が予想される、ひろしまFF、
時間のとれる方、一度のぞいて観ませんか!!

画像は、FFのシンボルとして会場に彩りを添える花の塔。