フィールドワーク通信

広島を拠点にフィールドワーク。カンボジア、インドネシア、市民まちづくり

プノンペン市役所都市局へ20050824

2006-01-24 16:43:43 | カンボジア通信
 パニンさんの尽力によりプノンペン市役所のBUA都市局への訪問が実現した。そこでは市役所が行ったコロニアル建築の調査報告書を見せていただきながら、議論を行った。フランス語文献なので、きちんと把握できたわけではないが、ドンペン地区全体を対象に、コロニアル建築の分布状況、保存状態、機能別の分布などが調査されている。現在プノンペンは観光地としてはまったく認識されていないが、アンコールワットのあるシェムリアップだけでなく、プノンペンを観光地として外貨を落としていくには、コロニアル建築の活用が重要なポイントとなる。現在どの程度コロニアル建築がプノンペンに残っていくのか、それがどういうふうに活用されていくのか、活用をバックアップするためにはどういった制度が必要なのかが我々の関心である。 . . . 本文を読む

バサックスラムカンボジア20050825

2006-01-24 16:42:47 | カンボジア通信
 SVA手束さん。  8時SVA待ち合わせ。30分ほどSVAのスラムプロジェクトのお話を伺った後、UDPF事務所によった後、サイトへ。事務所ではちょうど地区住民の集会を行っているところだった。4m×5mぐらいの大きさのスペースの真ん中に大きな机が置かれ、その周りに30名程度が集まっていた。プレゼンは模造紙にえがかれた地図と事業のポイントをもとに行われる。質疑の時間になると3名~4名から意見がとんだ。地区の道路整備にあわせ、菜園づくりや魚の養殖などによって居住者の生計をバックアップしていく提案が盛り込まれていた。自分たちの地域を自分たちの手でアイデアを出しながら生活改善していく熱気のようなものを感じた。 . . . 本文を読む

カンボジア子どもの家プノンペン支部20050826

2006-01-24 16:41:29 | カンボジア通信
ソッパナ家とお別れ。 今回はホテルでの宿泊は皆無だった。学生にとっては、経済的にはだいぶ楽だったに違いない。交通手段の確保という点でも、かなり助かった。ソッパナの明るさも我々に力を与えてくれたはずである。CCHOME関係のいろいろな人とも出会えた。中井さんともここで再会した。カンボジア人の一般的な住宅に住むという貴重な体験もすることができた。 . . . 本文を読む

アジアふたたび0819

2006-01-22 21:49:53 | フィリピン通信
 今年もアジアにやってきた。3週間の予定でフィリピン、インドネシア、カンボジアを回る。まずはフィリピン・マニラである。昨年と違うのは、当然のことながらメンバー構成である。今年は人数が多い。総勢10名の構成である。3カ国を私と一緒に回るのが、3名、フィリピン・カンボジアが3名、カンボジアのみが3名である。9名のうち4年生は1名のみ。あとの8名は3年生である。個々にそれぞれ思いもあるようだが、来年度は . . . 本文を読む

施設と近代0820

2006-01-22 21:49:10 | フィリピン通信
 ブルーチーズのような匂いでありながら、それは食欲をそそるわけではなく、ただただ気分を悪くするだけの、いわゆる悪臭であった。そこらへんに撒き散らかされた生活廃水や汚物によって生じる悪臭の中、この光景の意味を考えていた。  これは美しいのか?  これは正しいのか?  迫力はある。圧倒的だ。人間の生活の力を感じることができる。多様なアクティビティが様々な場所で生じている。しかし、生活廃水は垂れ流 . . . 本文を読む

フィリピンのカラオケ0821

2006-01-22 21:48:11 | フィリピン通信
 今日は、スモーキーマウンテン横の集合住宅調査2日目。1日目の午後は、住居内部の平面採取が難しかったので、2日目の午前中にもってきた。午後は、昼寝の時間であり、廊下にたむろする人が少ないのに加えて、住居内部の調査となると昼寝の邪魔をすることになり、なかなか声をかけにくい。昨日の午後は廊下のモノ調査に切り替えた。  で、今日の午前中の平面調査である。あわせて外部空間でのアクティビティ調査も試みた。 . . . 本文を読む

犯罪0822

2006-01-22 21:47:28 | フィリピン通信
 今日は最後に事件に巻き込まれた。平川が、いわゆる引ったくりにあった。デジカメを、スモーキーマウンテン近くの路地で盗まれた。白石や佐古も突き飛ばされた。仕事が終わって帰ろうとしていた午後6時15分すぎのことだった。たまたま出会ってしまった不幸である。スモーキーマウンテン周辺だから、そういう事件に巻き込まれるんだという意見もあるかもしれないが、幾分確率が高くなることはありうるかもしれないが、基本的に . . . 本文を読む

マニラの夜遊び0823

2006-01-22 21:46:51 | フィリピン通信
 すでにマニラ5日目。なかなか充実した調査日程をこなしている。今日は昨日に続き、スモーキーマウンテンの再定住集合住宅となりのバンサイプロジェクトのインパクトスタディ。  1980年代に建設された集合住宅の現状調査を一通り終えた後、テーマとしては、新しい再定住集合住宅の調査か、あるいはそのとなりの当初スクウォッターエリアだと思っていた地区の調査の2つの選択肢があったが、対象の興味深さから考えて、後 . . . 本文を読む

バリ風のあり方0824

2006-01-22 21:45:36 | インドネシア通信
 移動の日。今朝スモーキーマウンテンで作業をする予定であったが、段取りが悪く、始動が遅れたので、予定を変更した。フィリピン残留組に作業を任せて、我々は直接空港に向かうことにした。11時にホテルを出発して、バリに着いたのは10時。シンガポール航空を利用して、シンガポール経由での移動だった。久しぶりのSQはなかなか快適で、食事もおいしかった。  インドネシアがビザを入国の際に課すようになっていたのが . . . 本文を読む

ウブドの今0825

2006-01-22 21:44:54 | インドネシア通信
 今日は、休みの日にした。  アピアピには今日から山口の秋本さんがやってくるため、我々は別の宿に移ることにした。マデさんが管理しているもう一つの別荘があるというので、そこへ移った。アメリカ人建築家が所有しているもので年に一度程度しか利用しないという。2階建てで、1階はキッチンとリビング、広いテラス、寝室は2階に2室とられている。階段が家の中心を分断し、そのことで1階部分リビングとダイニングに区切 . . . 本文を読む

トゥルニャンと金0826

2006-01-22 21:44:14 | インドネシア通信
 なかなか調査のテーマが決まらない。今日は、トゥルニャン村とプンリプラン村、それとバンリの王宮に行った。後半の本調査のための視察である。午前中、アピアピに泊まる秋本さんにお会いしたり、警察に宿泊の許可を取りにいったりしたために、出発は11時になった。トゥルニャンに到着したのは1時であった。  一人30ドルといわれたが、4人で70万ルピアまで値切った。おそらくそれでもかなり高い。まず驚いたのは、あ . . . 本文を読む

バリのヌガラ0827

2006-01-22 21:43:27 | インドネシア通信
 9時からクタで、PT BALI IDEのスンハジ氏と面会。入国審査の際にパスポートに挟み込まれる「じゃらんじゃらん」という情報誌を発行している会社である。不動産や家の購入に関する記述が掲載されていたので、電話して面会を申し込んだ。電話をした白石によると、相手は日本人ということだったので、目の前にインドネシア人が現れたときは多少戸惑った。昨年度アピアピに泊まったときに、夜酔っ払いながら話した話を思 . . . 本文を読む

興味をもったことだけやる人生なんて貧しい0828

2006-01-22 21:42:41 | インドネシア通信
 トゥルニャンへ向かう日。12時にトゥルニャンの隣の村で、待ち合わせをしていた。午前中バトゥール湖湖畔のバリ・アガ村であるソアンガン村を訪れた。車の通る道の両側に集落が形成されている。数本の細い道が車道と垂直に走り、家々はそれと平行に建てられている。多くが新しく建てかえられたものだが、古い家が数軒みられる。分棟式ではなく、単棟で、近隣で採れる赤い石で周囲を囲む形式や3方を石の壁とし前面のみを木でか . . . 本文を読む

登山途中に野ぐそ0829

2006-01-22 21:41:22 | インドネシア通信
 朝日を見た。4時半におきて山を登った。しかし前日の夜、村長の甥とアラックを飲みすぎて、死にそうだった。特にひどい2日酔いというわけではなかったが、やはり山登りにはつらい。学生には先に行ってもらい、一人で登った。  朝日を見に登ったのは、朝日を見るためではなかった。理由は2つある。一つは、我々が1晩とまったトゥルニャンの集落の他に、山の向こうに古い住居が多く残る集落があると聞いたことと、もう一つ . . . 本文を読む

バリの別荘0830

2006-01-22 21:40:44 | インドネシア通信
 今日は、先日のバリ・イデのサンちゃん紹介で、様々な別荘を見て回る予定。9時にオフィスに行く予定が、30分ほど遅刻した。サンちゃんは今日は真珠の件でロンボクに行くという。不動産担当のアンディ氏と日本語を話せるマデリック氏が同伴してくれた。1日で6つの物件を見せてもらったが、多くは建設中のもので、しかもインドネシア人向けの建売住宅だった。日本人の建てた住宅が2件、オーストラリア人のものが1件だった。 . . . 本文を読む