ワカキコースケのブログ(仮)

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ひとりごと~「尻馬ジャスティス」が苦手なことについて~

2014-02-23 00:50:12 | 日記


『アーノルド・シュワルツェネッガーの鋼鉄の男』に始まって、仕事でもこのところ、スポーツについて勉強し直すことが続いた。それでもって、ソチ冬季五輪である。そして、1ヶ月以上ソワソワ落ち着かないのが続くので、毎度、準決勝あたりの頃にはくたびれちゃって、どこが優勝してもいいから早く終わってほしいと思うサッカーW杯がやってくる。

スポーツについてなんか語りたくなっているが(浅田真央さんについては、ついついフェイスブックに知ったかぶりなことを書いてしまったが)、まだよしておきましょう。
特養ホームに入っている「東京での母」は、電話で「わたし、佐藤コーチを見て泣いちゃった。真央ちゃんが失敗したとき(ショートプログラム)、なにも声かけられないでねえ。ただ目をしょぼしょぼさせちゃって、あの姿が可哀想で……」と、しゃべりながらウルウルしていた。
そっちかい! という話ではあるが、年齢が近いと、選手ではなく見守る側により気がいくようだ。そうか、そっちを見ている人もいるんだ、とジーンときた。

語る前にまず、2013年は一度もスポーツ観戦しなかったことを反省。プロ野球、Jリーグ、プロレス合わせてもゼロだった年は、最近ちょっとない。


ここまではマクラとして。
最近劇場公開された、スポーツに関係したドキュメンタリーに肩入れしている。評判になればいい、と心の底から思っている。
ローカル局が劇場版の前にオンエアしたテレビ版には、批判が多く寄せられた。取材しているチームの十代の選手が監督にビンタされる場面に強い刺激があり、キー局は全国放送を謝絶したという。

しかし、僕は、そこが話題の中心にならなければいい、と思っていた。この映画の本質的な凄みはそこ(その場面のあるなし)ではなく別にある、がまず第一にある。
もちろんビンタの場面も、それは果たして暴力・体罰と一直線に捉えてよいものか、監督に教育者としての信念、ビンタをするまでの必然があったかどうか、そして自分はそれをどこまで忖度できるのか……と様々なことを一気に考えさせる、問題喚起のかなり強い、重要な場面だ。だから作り手も、その場面を入れた。

ただ、そこで作り手の意を汲んで個々が立ち止まらないと、「ローカル局の意欲的なアプローチを全国キ―局が拒絶!」みたいな扇情の図式だけが前に出てしまい、「え、そうなの!ひどい」→「表現の圧殺だ」→「許せない」と末梢神経的な正義のことばばかりが伝搬していくことが、容易に予想された。
傾向として、伝聞に後から乗っかる人ほど、ことばが短兵急に強くなる。どの話題に置いてもそうだ。「尻馬ジャスティス」と僕は名付けている。

「尻馬ジャスティス」は終いには、「だからテレビは腐っている!」→「お笑い芸人や素人みたいな女子アナのトークと称したくだらない世間話ばかりじゃないか」→「そのくせチャラチャラ儲けてやがって!」と、なんのルサンチマンだかよくわからないものとゴッチャになるまでエスカレートする。そうなると結局はテレビに対する風評被害だけが残ることになりかねないので、イヤだなーと思っていた。

公開されたら、僕が心配していたほどのおかしな反応にはなっていないようで、ホッとした。

ドキュメンタリーを応援する気持ちは分かるんだけど、なんでいつもボキャブラリーが軽薄なんだ、なんでそうすぐに闘う側に何ら逡巡なくまわれるんだ、と読むたびにゲッソリさせてくれる映画ジャーナリストさんがいて。その人がこの映画について紹介した某サイトでのコラムも、おそるおそる読んでみた。
ビンタの場面を最も重要視して、それでも放送したローカル局の態度を讃える方向性のものだった。
そこに関しては、僕とは捉え方が違いますね、ということで。カーッと「尻馬ジャスティス」に奔っているものではないので、やはりホッとした。いつもより抑制してくれていて、ありがたいとさえ思った。
スタッフを〈体制に立ち向かう闘士〉に仕立てたい欲求が文中のあちこちにうかがえる点についても、精神分析的には、理想の作り手を応援する理想の自分(つまり、いい作り手とコミットできるだけのスゴイ自分)、を求める誇大自己の反映の典型と言えるのだが、この人に限らず、インテリや批評家、評論家は多かれ少なかれ、みんな誇大自己欲求の面を持っているものだ。

ただ、同じ人が他の雑誌で「ビンタ9連発をお見舞い」なんて書き方をしているのには、応援したいならばよしましょうよー、「週刊プロレス」の試合レポートじゃないんスから。そういう表現をスラッと使うところに、いかんともしがたい軽薄さが……とは言いたくなった。身近にいる者がツイッターで「いわくつきのドキュメンタリー」と書いたのに対しては、さすがに叱った。「この映画は傷物ではないし、キー局だって誰もわざわざ傷物にしようとはしていない。かえって足を引っ張るような軽薄な表現を使うなよ」と。彼としては、「衝撃的!」「タブーに挑戦!」なんかと同じで、よかれと思って書いたので、ピンとはこなかったようだ。ピンとこないならば、しかたない。


ここまでグズグズ書いて、なにが言いたいのかというと。
自分は軽薄ではなく、物事をしっかり考える重心の低い人間である。……ではない。
どちらかといえば、「尻馬ジャスティス」みたいなものには標的にされてしまうタイプの、スクエアな人間だよなーと、改めて自己分析するのである。


構成作家をやっていて、編集試写後の打ち合わせの時などは、基本、心配ばかりしている。
この描き方で、主人公=取材対象者の行動意図を悪くとられる可能性はないだろうか。この編集で、視聴者はスンナリ見れるだろうか。置いて行かれるような気分を味わったりしないだろうか。このナレーションで、気分の悪い思いをする人はいないだろうか。

ディレクターが海外ロケしてきたものなんかだと、初めて見る視聴者の立場に身を置き、特にそういうところに注意する。クレームが来ないように、というレベルまで意識は及ぶわけではなくて、なるたけ不要なつまずきは排したいと考える。だから時には〈悪役〉にもなる。ディレクターの意図は理解できても、それが独善的な(分かる人だけが分かればいい的な勢いで作ってるような)場合は、まず、「これでいいのかなあ」といったんストップしてもらう。何がなんでもアブナイのはよしましょう、ではなくて、狙いと仕上がりの間にズレがないようにしたいのだ。いわゆる分かりにくい表現でも、ディレクターがなぜそういう表現にしたのか、十全に説明できるのならば納得する。計算ずくの分かりにくさなのか、作りの粗さによる分かりにくさなのかハッキリ峻別できない場合は、再考しませんか、と言う側だ。いずれにしろ、水を差す係なのは確かなので、孤独感をおぼえる時もちょくちょくある。

数年前に、佐藤重直さん(『ゆうひが丘の総理大臣』『熱中時代』などを演出し、初期の『おもいっきりテレビ』のチーフだった方)にお話を伺う機会があった。
いちばん心に残ったことばは、「テレビは弱い立場の人の味方だと思っている」だった。
映画学校でどの映画人におそわった言葉(今村プロ系の人が多かったので、それこそ無頼で血のたぎるような戦闘的なことばは飽きるほど聞いた)よりも、佐藤さんのひとりごとのような一言のほうが、自分に近かった。佐藤さんの真意とは別に僕自身が解釈を発展させて、今では仕事をする上での、ほとんど基本倫理になっている。

だから、先の映画には大いに肩入れしつつ、「これを全国放送しようとしないキー局は許せない!」と声高に言う人たちと同じ場に身を置くのはいたたまれない、とグズグズすることになる。
自分がキー局の、該当する窓口の人間だったとしたら。やはり、ビンタの場面について考えてしまっただろうと思う。それこそ真っ先に「おいおい、それで放送基準的に大丈夫かな?」と発言したかもしれない。


そこまで想像するのは、基本的に、自分を自分で信用していないからだ。
子どもの頃、学校でなにかの適正テストがあった。前後はさっぱり記憶にないのだが、「いちばん向いている職業=公務員」だったのはよく覚えている。
ボーイスカウトをやっている時、(要は自分にしかできないことをアピールした後、ひとのやりたがらない作業を見えないところでやってさえいれば、すぐ中心人物、輪の中心になれるな)と考えて、その通りにしたら「優秀スカウト賞」をもらった。
そういう如才のない、バリバリに組織人向き、「尻馬ジャスティス」に標的にされるタイプなのが僕の本質である。もちろん、学級委員も生徒会役員もつとめましたとも。ベルマーク委員も、張り切りました。
大学にも行かず就職もせず、の道を選んだのは、このまま大人になってもどこでもそこそこうまくいく、のが見えてきたのに耐えられなくなったから、が大きい。


ついでに書いておくと、「尻馬ジャスティス」のもう一方の面である、「映画や音楽で、後で評価が定着したほうの側に立つ」も僕にはちょっと恥ずかしいというか、苦手だ。

例えば市川崑の『東京オリンピック』。時の大臣が、日本人金メダリストや日の丸掲揚の場面が充分に入っていないと怒った騒動はつとに有名だが。
今となっては映画ファンや映画について書く人が100人いるうち99人までが、時の大臣の無理解を冷笑する側だ。「芸術か記録か論争」は、結果的には市川崑の圧勝だったことがハッキリしているから。
で、僕は、自分だったらどうかなあ……とグズグズする、残りのひとりだ。


もしも自分が、時の大臣と映画の間に立つ、政務官だったとしたら。
まあ、あれね。すぐに呼びますね、市川崑を。赤坂の料亭に。

「いやー、今回は長い間、ご苦労様でした! さすが世界の市川監督! 私はもう大変に感動して……、いやね、私は貴方の映画の昔からのファンなんです。『ビルマの竪琴』。素晴らしかった、あれこそ名作です、ウン。まあまあかけつけで、どうぞ一杯……。おい女将! なんだこのビールは泡ばっかりじゃないか、すぐに冷えたの持ってきてッ。まあ、なにを一体……申し訳ない、ほんとに。不調法で。フフフ。
それでね、今回、黒澤監督はどうだなんて粘る先生方が最後までいましたが、やはりあなたで良かった。あなたの、なんというかこう、シャープなね、ピュッとした非常にモダンな……そう、映像美! あれが国際的に通用するんだなあ。世界中に見せる映画ですからね、ああじゃなければいけない。東京開催のオリンピックのね、東京はわずか19年でここまで成長したんだと胸を張れる姿をね、ウン。
まあ、ウチの先生も、そこは非常に高く評価しておられるわけです。ここ、新聞だけを読んで誤解があると困るんだが、市川くんはよくやってくれた、改めて大いに労いたいとね、おっしゃっているわけです。彼にしかできなかったんじゃないかとね、ウン! ですからまあ、あなたの今回の大きな仕事をね、より大きく顕彰したい気持ちが強いというか、日本人選手のね、メダルを授与するところなんかはもう少し見たかったという……。
いや、いやいや、これは何も政府からの要望じゃないんです。ただね、メダルを撮った選手の顔を、へんぽんと青空に翻る日の丸を見たいという気持ちも分かって頂きたい。我々日本人もここまで出来るんだ、やったんだってところを見たい、それもまた人情ではないか。人情を汲み取るのが、映画の素晴らしさではないか。そうも思われるのです。そこはひとつ、ご検討いかがでしょうねえ。まあ、一杯。どうぞどうぞ」

以上のようなことを、背中と脇にビッシリと汗をかきながら、フウフウ、フウフウ言ったことだろうと思われる。少なくとも、
「映画の芸術的価値を解しない者に、何を言われようと気にしないでください。私が盾になりましょう。市川監督、あなたの考えを私は100%尊重いたします。答えは20年後、30年後に自ずと明らかになるでしょう」
とズバッと言えるカッコイイ自分は……、イメージできないなあ。

一事が万事で、他でも同様。

若松孝二の『壁の中の秘事』がベルリン映画祭にエントリーされた時、「出品作がピンク映画だなんて国辱的事態じゃないか! なぜ日本にはもっといい監督がいると紹介してくれないのだ。今井正がいるじゃないか!」と憤慨したマスコミ人は、ひょっとしたら僕だったかもしれないと思っている。

ボブ・ディランがギターをエレキに持ち替えた時、「ユダ!」と叫んだのは、僕だったかもしれないと思っている。

伊佐山ひろ子が主演女優賞を獲得した時、「ポルノ女優が賞を取るようなベストテンには参加したくない」と選評を辞退した映画評論家は、僕だったかもしれないと思っている。

ザ・ビートルズが来日した時、「若い女性が、騒音まがいの演奏をする長髪の外国人にあんなに騒ぐマス・ヒステリー状態は非常に危険。今回のビートルズ騒動は非行のきっかけになるので、親御さんはくれぐれも注意を」と呼びかけた社会評論家は、おそらく僕と大差ない感度の人間だったろうと思っている。


自分は常に、最初から魅力と価値がわかっていた、と言い切れるセンパイがたは多い。というか、最初は実はよく分からなかった、と正直に打ち明けるセンパイに直接出会った試しがほとんど無い。
それはそれで、幸いなる哉、である。



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