ワカキコースケのブログ(仮)

読んでくださる方ありがとう

『麒麟がくる』のここまでと、これからの予想

2020-10-30 00:32:23 | 日記

あまりにも世の評判が薄い。悪くはないんだろうけど、薄い、ので。さっと書いておきたくなりました。

NHK大河ドラマ『麒麟がくる』

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で注目! 「実質的な天下人」という道を歩んだ三好長慶 (1/2) - ITmedia ビジネスオンライン
 
まあ、盛り上がらないのはわかります。ふつうなら、打ち切りになるか、恋愛やライバルとのバトルなどの要素を増やすテコ入れをされてるところですよ、というぐらいのおっとりした前半を経て。
撮影休止から戻って以降、これは十兵衛光秀が主人公なのではない、彼が自分の物語の主人公となりえる、心から忠義を尽くせる人物=世を治める「麒麟」を探しまわる構造なのだ、と本筋が露わになってきてからは、物凄い感じになっています。
 
まむしの道三だと若い頃は思っていたが、あれは一介のローカルヒーローでしかなかった。織田信長? まだわからない。やはり幕府の将軍こそ自分がお仕えするに値するだろう。なのになぜか、気持ちは昂らない。いや、その上にまだいる……。
 
第28回、第29回は戦慄しました。
『太平記』でぬるっと、さりげなく、いつのまにか「日曜の夜8時に天皇の権力システムを正面から描く」大技をかましのけた池端俊策の怖さが再び! の予感に満ちていて。
 
ただね、面白くないという声もわかるんです。
僕が言うのもなんだけど、でも気付いてる僕が言うしかないんだけど、池端俊策という脚本家は基本的に「ヘタ」の部類に入ります。
人物立ちっぱなしの板付き芝居で、長い説明ゼリフ。
よりによっていっちばん「工夫がない」と言われるシーンを、池端俊策は平気で書く。それはもう、信じられないほど平気で。
現場のみなさんが困って、派手な色彩の衣装にしてみるとか、脇役にはオーバーアクションの演技を求めるとか、工夫せざるを得ないのは、よく分かる気がします。
映画評論家やシネフィルで池端俊策ファンと名乗るひとに、僕、会ったことないもんね。最晩年の双葉十三郎が「(作り手として)おとなだ」などと書いてるのを読んで、へえ、さすがじゃんと感心したのが唯一ぐらい。えらそうですけど。
で、これもしかたないのです。ハッキリ言ってしまえば、ノッてない時の池端脚本ドラマほど面白くないものはない。最近では評判作のうちに入る『夏目漱石の妻』などは、僕はいたたまれなかった。
 
ところが。
歴史のとらまえかた、太い捕まえかたにおいてはもう、孤絶の存在だと思います。日本の大ベテランの脚本家で、匹敵するスケールの先生は現在では思い浮かばない。
 
どういうことかといえば、見事なほど、噛み合わないできた方だという印象なんです。

最初から無理せず(?)文筆や研究の世界に進めば真山青果の後継者、あるいは半藤一利や保阪正康の良き仲間な歴史家として誰もが下に置かない存在になれたのに、大学演劇の楽しさが忘れられなくて間違えてテレビの世界に入っちゃったりしたもんだから、いつまでもたってもフィットしないひと。おおよそ当たっている見立てのつもりです。
トレンディドラマ全盛の時代、フジテレビの(当時の)花形プロデューサーに引退宣告を受けた、という話を人づてに聞いたことがある。あまりに地味で、数字がとれなくて。
 
そういうひとが、ドラマ表現とたまに噛み合った時、どうなるか。ドラマで自分の歴史観を存分に書けた時、どんな大爆発が起こるか。
これまでで最後の池端史観の爆発は、僕の私観では、2008年のTBS『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』です。
東条英機(ビートたけし)を無類に勤勉実直で、愚直なほどひたすらに天皇への忠誠心が厚い、ただそれのみの凡庸な男として描き、しかしその一貫してブレないマジメさゆえに国は開戦に傾いてしまったのだ、と描く、痛ましさと冷たさが共存した脚本でした。
今回の十兵衛光秀も、そこが似ている。
ここまで、あえて、面白味のないほど真面目でリアリストな、優秀な能吏でしかない男の限界な部分を池端俊策は狙って強調している気がします。
 
誰もが知っている結末を、誰も知らない解釈で書くために。
再びの大爆発の匂いが、だんだん強くなっています。
 
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿