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石井輝男で思想を語れるか~『花と嵐とギャング』

2024-01-17 16:34:17 | 日記


SNSでは自主練のつもりで、見た聴いた読んだの感想をなるべくあげていて。今年(2024年)から、長くなりそうなのはブログに書くようにしている。最近、ライター・編集者・徳川夢声研究家の濱田研吾に「あなたのツイッターは連投が多くて読みづらい」と意見してもらったので、修正してみる気になった。
実際、連投する時は各センテンスが140字内に収まるよう調整しながらの作業になるので、言葉足らずになる割には手間がかかる。それで千文字以上もいくようなら、ブログでワッと一筆書きしたほうがいいのだ。おかげで今さらのように気付かされた。

そしたら、『博奕打ち』『ジャニス:リトル・ガール・ブルー』『首』と、年が明けてから見た映画はどれも長く書きたいものになった。4本目の『花と嵐とギャング』もそう。つまり、ここまで打率10割。滅多にあることじゃないので、大変だけど書き甲斐がある。

その『花と嵐とギャング』。高倉健・鶴田浩二主演。石井輝男監督。1961年のニュー東映製作・東映配給作品。
いやー、自分は今まで、これを見ないで石井輝男を語っていたのか……と、冷や汗が出てしまう面白さだった。

悪党稼業の家族が銀行強盗を成功させるが、金の横取りをきっかけに組織を巻き込んでの撃ち合いになっていく顛末をテンポよく描いたもので、その銀行襲撃の場面の一連の冴えは、世界中の犯罪アクション映画を集めても上級の部類。突入前の待機時間に雨が降り出し、車のボンネットに雨粒が溜まっていくカットがサッと入るのなんか、たまらない(撮影は星島一郎)。見事過ぎて、かえって石井輝男らしくない! と戸惑ってしまうほどだ。

石井輝男に関しては、それなりに思い入れがあるつもりでいた。そこらへんは、去年(2023年)の秋に出た本『伝説のカルト映画館 大井武蔵野館の6392日』(立東舎)内のアンケートで書かせてもらっている。
それでも、勘定してみたら映画監督作83本のうち、見ているのは49本に過ぎなかった。
しかも『花と嵐とギャング』は、新東宝のアクション映画で注目された石井の、新東宝の倒産による東映移籍後の第1作で、
「東映アクション映画に新風をもたらした」(江口浩。『日本映画作品大事典』2021岩波書店)
「これまでになく新鮮で、冒険心に満ちていた」(西脇英夫。『日本のアクション映画』1996 教養文庫)
と、戦後のプログラム・ピクチャー全体のなかでも重要作のひとつと認知されている。特に、東映の助監督で同じニュー東映から同年に監督デビューした深作欣二が、石井の東映参加に大きな刺激を受けていたことは有名な話だ。
なのに見ていなかったんだから……。日本で一番映画を知らない映画ライター、と僕がよく自称するのは事実であって謙遜ではないのです。

未見のなかにこんなにキレキレなものがあるなら、石井輝男も読み直しが必要だなあ、と反省したし、その作業は面白そうだという気になってきた。
今、部屋にある『石井輝男映画魂』が、1991年にワイズ出版から出た単行本も、2012年に完本として出た文庫も、探してもどっちも見つからない。『花と嵐とギャング』についての監督の証言が読めずにジリジリしていたのだが、これはまず一度、文献に頼らずに試論を書いてみろ、というお導きかもしれない。

『花と嵐とギャング』を見て、ほぼ初めて、1924年生まれの石井輝男には兵隊にとられて中国大陸(確か満州)にいた経験があることを、映画を見ながら意識した。セリフのなかに、「上海」と「大陸」が出てくるからだ。

ジョー(鶴田浩二)は、河北という謎の男(佐々木孝丸)が統率する組織の幹部。妹で酒場を経営する佐和(小宮光江)は、弟分のスマイリー(高倉健)と所帯を持っている。末弟の正夫(小川守)も、フラフラしているうちに組織の用を言いつけられて働き出す。
河北は、屋敷でくつろいでいる時もチャイナ服を着ている。そうして、単独行動で何がしかの取引を海外でしているジョーに上納金を納めさせている。もともと、自分が開拓したルートをジョーに譲ったのかもしれない。なんにしろ、戦前からの中国とのつながりを基盤に大きくなった男なのを匂わせる。

ジョー、佐和、正夫の母・まさ(清川虹子)は、今は小さな宿の女将だが、かつては「大陸で鳴らしたおまさ姐さん」だったと会話のなかで紹介される。
このおまさ姐さん、銀行からの強奪金を正夫が持ち逃げし、組織に命を狙われることになって、河北に面会を申し込む。
2人は、昔からの顔見知りだった。しかしまさは、末の息子の命乞いをボスにするどころか、「上海にいた頃は、ずいぶん貴方の無理を通してあげたつもりですけどねえ」とつぶやき、河北が戦前してきたことを口外したら、どんなことになりますか、と淡々と、逆に脅しをかける。清川虹子の貫禄をたっぷり堪能できる。『グロリア』(1980-1981公開)の、グロリア(ジーナ・ローランズ)がかつて愛人関係だった組織のボスと面会する場面を彷彿とさせる。

ただ、河北とまさは、若い頃にどんな関係だったか。どちらも上海の日本人租界地を拠点に危ない橋を渡る間柄だったことは想像がつくが、何をしていたかまでは明かされない。
軍の嘱託となり、物資調達や謀略工作を行っていた……と想像すれば、戦後史にある程度通じた人なら、容易に河北のモデルが誰かは特定されるだろうが、国家の大義などはなく、単に金儲けのために軍閥に成長した満州馬賊と取引する男と、仕事で組む女だったかのもしれない。

具体は伏せられているのが、妙に不気味で面白い。
いずれにしてもそういう男が戦後も財を成し、裏の組織を取り仕切り、そういう男と付き合いのあった女が産んだ子ども達は、自然と、男の下で働くようになる。ここでは、戦前と戦後の人脈・金脈が分断されずにしぶとくつながっている。

そのうえでの、キレのいいアクション、自分達をやくざではなくギャングと呼び、呼ばせるキザなスタイル、ジャズ(音楽・三保敬太郎)、そして、あからさまの欲の皮の突っ張り合いである。
石井が参入するまでの東映アクションでは、ギャングはあくまで勧善懲悪劇の悪役だった。『花と嵐とギャング』はそのギャング達を主人公にし、彼らだけの物語を作った。発想の根本に、正義の使徒・多羅尾伴内みたいな奴が出てこないものをたまにはやろうぜ、というのがあったのは明白だ。つまり、先行の人気路線へのアンチテーゼによる活性化においては、『仁義なき戦い』(1973)の先行例となっている。

それをもたらしたのは、原作小説を書いた藤原審爾と脚本を書いた佐治乾のどちらかだったかは今のところ僕には不明だが(どちらもキャリアが膨大なので、触ることもできない)、石井が取り組んで映画にするのに、まるでムリがなかったのは分かる。
『花と嵐とギャング』は後半、なぜか地方の牧場が舞台になり、その、なぜかはストーリー上ではよく分からないけれど快調なテンポさえ続いていればよいのだ、と思い切っている感じが、東映での代表的な仕事となった『網走番外地』シリーズ(1965~)の原型となっている。

大草原を舞台にしての、敵味方乱れての銃撃戦。そこで誰が誰を撃ち、誰を助けるのかがハッキリする。兄弟の誰もが、これまでの仲間=河北の手下に降参せず、まさがいろいろと手配してくれた高飛びの計画にも乗らない。
石井輝男は、そこに賭けている。石井輝男は新東宝時代から一貫して、率直な人間が好きだ。殺したい奴は殺し、助けたい奴は助ける。思想のない監督と評されてきたが、そうではなく、イデオロギーよりも確実なものがある、と示すことを思想にしてきたと言える。
なぜか牧場が決着の舞台になるのは、敗戦国・大日本帝国のゼロ地点、満州の平野を幻視できるからだ。戦後のやり直しとしての銃撃戦。

つまり石井輝男は、日本の戦後を信じていない。敗戦後すぐに自由主義陣営の参加国にされたことは事実だが(空港でジョーがいきなり身体の大きな外国人に挟まれるオープニングが、まさにその絵解きになっている)、民主主義を人々が身体でどれだけ理解できているかは、はなはだ疑問に思っている。

だから、大草原の銃撃戦は、戦前とつながる親の世代を切り離した痛快さを持ちながら、限界も示す。
海外を飛び回り、白人女性を恋人にするコスモポリタンだったジョーは弟の正夫をかばって死ぬ。典型的なアプレゲールだった正夫は、強奪金を横取りしておきながら、恋人と牧場で汗を流して働くことのほうが蕩尽よりも楽しくなり、金はどうでもよくなっている。

日本人は、ドライにはなりきれないのだ。なりきれる奴はいるが、そんな奴はさっさと腹に銃弾をくらえばいい。
そうなると多羅尾伴内がいなくたって自然と、勧善懲悪劇に近いカタはついてしまう。
生き残ったスマイリーは、なんともいえない表情で「バカヤロウ」と叫ぶ。ジャマな奴らは全員消え、強奪金も戻ってきたというのにだ。
ここまで、石井輝男の映画のなかでもベストの部類ではないか、と思うほど快調に話は進んできたのに、最後になって、石井輝男の映画のなかでも異例なほど、フクザツな、スカッとしない余韻が待っている。

このスマイリーが、メインの登場人物のなかでいちばんどっちつかずのキャラクターなのが、僕にはとても興味深く感じられるところだ。
どっちつかずだからといって弱いのではなく、すこぶるつきで単純で明るい、むしろ強いキャラなのである。
ジョーのことはギャングの兄貴分としても義理の兄としても好きだし、佐和にはぞっこん惚れている。喜怒哀楽に裏表がない。だけど銀行を襲う大仕事には腕が鳴るし、そういう時はドシッと腹が据わって、冷静に計画を作り、実行できる。

つまり、スマイリーは、石井輝男にとってのトム・ソーヤー。社会的善悪を知る手前で暴れ続ける、イノセントで勇敢な、理想の少年なのだ。
理想の少年は軍国主義もデモクラシーも、大人が押し付けてくるという理由で、等価で信用しない。それゆえに、これまで悪役専門だったギャングが主人公で派手なドンパチをやれる映画だろうと、勧善懲悪からは完全に逃れらないと悟った時、「バカヤロウ」と叫ぶ。

前もこのブログで書いたが、現在、売れないライターでいることにジタバタすることはある程度諦めて、定期的に倉庫作業に入っている。
そこで、お互いふだんは何をしているのか知らない、知っているのは名字かあだ名だけの人達と一緒に働き、倉庫のなかでの態度だけで信用できるかどうかを判断する、割と剥き出しな付き合い方をしていると、一番よく思い出すのは、『網走番外地』シリーズの主人公・橘真一が何かというとよく言っていたセリフだ。

「おんなじ網走の、くさい飯を食った仲じゃねえかよ」

橘は出所しても、その実感のみを行動原理にしてムショ仲間を助け、再びトラブルに巻き込まれることを繰り返す。それでも理想の少年にとっては、大人が押し付けてきたイデオロギーに従うよりはずっとマシなのである。

スマイリーと橘真一を演じたのは、言うまでもなく高倉健。
石井輝男の描きたい理想の少年に健さんがバッチリはまっていたのを、当時の健さんがどう思っていたかはまた別の考察が必要になるが、終生の名コンビにはなれなかったことは、スマイリーの魅力によって逆によく分かる。
後年のパブリックイメージになる寡黙な健さん像が魅力的なのは、〈日本の戦後社会の中で生きることを選んだトム・ソーヤー〉がもたらすホロ苦さだからだ。

 


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